15.仮面の下に
朝日が昇っていた。カーテンの隙間から溢れる薄明かりに波多野は目を開けた。
冷え込みが浅い日なのか、肌着も着ていない上半身に凍てつくような寒さは感じられない。そろそろ冬になるにしては暖かな朝だった。

(……あのまま寝てたのか)

昨夜のことを思い出し、波多野は隣で寝落ちている人物に視線を落とした。余程疲れていたのか、気を失うように眠ってしまった彼女は未だに起きる気配は微塵も見せない。
果てた彼女の身体の後処理をした後に、自分もそのまま隣で寝入っていたのかと思うと何と安直な事をしでかしたのかと頭を抱えたが、それ以前の問題だったと思い直す。

苦悶に満ちた彼女は、それでも歪んだ笑顔を作って波多野に縋った。何があったのか、それを聞く間も無くただ今から逃げたいと、何もかも忘れたいと。
拒むべきだと理性は警報を鳴らしていた。受け入れ流されれば、彼女は、何れまた罪過に飲まれていく。蝕む恐怖と痛みから逃げ続けても、誰かを巻き込む度に追いつかれ、更に深みへとはまる無限ループ。ずぐずぐと泥沼から抜け出せない様は、1人ではどうしようもないものだというのに。

花金の次の日は週休二日制の恩恵を受けている企業に於いて休みという人間が大半だ。羽目を外した金曜日の夜に加えて、土曜日の昼も巻き添えを食らう。
その土曜日ではあるが、波多野は昨夜放り出したデスクの資料を思い出した。休日出勤は趣味じゃないが、自分の尻拭いを他人にさせるわけにもいかない。私事で止めてしまっては後の業務に差し支える為、今日中に資料のメドをつける必要があった。
掛け時計に目を遣る。自宅へ帰り、シャワーを浴びて着替えて出勤するには2時間といったところか。

ベッドから抜け出し、腰をかけたその時、ん、と鼻を抜けるような声と共に千歳が身動ぎした。横抱きに寝入る姿は己を守っているようで、その姿に波多野は苦い思いを抱いた。するりと髪を梳き、乾いた落涙の痕を指で撫でる。

「……千崎」

ごっこ遊びが招いた結果、というのは言い訳で、結局のところ何ひとつ自分は理解できていなかった。その、己の不甲斐なさに波多野は為す術もなかった。
それでも変わらない明日はやって来て、仕事は回り、社会は動く。この状況を待ってくれない現実は、歯車として動けと波多野を誘って行く。


「ごめん」



『また、追いかけないんだ』



暗闇の奥から声が聞こえた声に、言葉を返すことはできなかった。



ーーー



精神的に弱っていたから、程良い関係の優しい先輩に身体で慰めてもらいました。
字面だけ見たらとんだ阿婆擦れだ。否、字面だけではない。世間から見たら自分の行動はそのようなものだ。

「……最悪」

カーテン越しに降り注ぐ陽の光は日が昇って随分と経っていることを告げている。独り暮らしの女性用に開発された深緑色の厚手のカーテンが意味を成さないほどの日光が部屋を照らしていた。
早くここを開けろと言わんばかりの攻撃的な陽の強さに、重たい身体を持ち上げて千歳は裾に手を掛けた。一気に開いた其処から顔を出した光で目が眩む。

花金の次の日の土曜日。休日出勤もない清々しい朝、とは言えない。燦々と陽が降り注ぎ、穏やかな秋の陽気というのに千歳の心内は対照的に冬の曇天のようだった。分厚い雲が空を覆い、陽の光の射さない地表は冷気に支配されている。
寒い、冷たい。心が身体の芯が、寒い。

(……馬鹿だなぁ、私)

分かりきっていたくせに。

洗面台に映った己の顔はひどいもので、やつれた相貌は、なるほど先輩に心配をかけるわけだと納得する。仕事着を洗濯機に投げ入れ、熱めのお湯を出して全身を洗い流した。

何も言わずに、謝罪を口にして自分を抱いた波多野の見せた遣る瀬無さが頭から離れない。最後まで彼はただ千歳を想っていた。ごめん、とたったその一言にひどく胸が締め付けられる。
後悔しているか、と自問しても分からなかった。答えが出ない問い、抜け出せない思考の迷路に迷い込んだ先にあるものは一体なんなのだろう。
これからどうする、これからどうしたい。

(考えていても、何も待ってくれない)

浴室から出てリビングに戻れば、テーブルの上にメモが置いてあった。

『鍵はポスト』

抱えているプロジェクトが山場を迎えている彼がこの場にいないということは、つまりそういうことだ。現在、プロジェクトに関わっているチームのメンバー、波多野を合わせた計10名は通常業務に加えた激務に追われている筈だ。同じ部署である、小田切、福本を見ていればその繁忙さは聞かずとも理解している。

人の想いに関係なく世界は回る。何が起きようと、何を思おうと、無情に全ての者に等しく時は訪れる。待てが効くほど甘い世界に彼も、千歳も生きてはいない。

ひと時の夢は、もう終わってしまったのだ。

(……私も行かないと)

デスクに残っている資料の束を思い出し、千歳は嘆息した。突き返された稟議書と提案書の山に対して時間は待ってくれない。自分でブラッシュアップした物をまた通して貰う必要がある。
幸い、技術部は土日休みの社員が大半だ。この見苦しい相貌を見せる相手はそう多くはないだろう。

仕事着に袖を通しポストに入れてある鍵を取る。達筆な字で書かれていた一言に再び思い起こされた彼との交わり。
振り払うように千歳は首を振った。

現実が追いかけてくる。時間は待ってくれない。

「ごめんなさい」

決断を先延ばしにして、また今日がはじまる。



ーー



及川政幸の人生は充実していた。生真面目と言われる性格ゆえか、幼い頃から親の言いつけは守り、手のかからない優等生であった。勤勉だけではない、素行も良く周囲への気配りも完璧、誰もが羨む子どもであった。
順風満帆に時は進んだ。都内随一の進学校へ入学し、難関国立大の経営学部を卒業。努力の果てに掴んだのは国内有数の製造メーカーで、配属先は花形営業部。
大学時代から交際を重ねていた才色兼備の女性と程なくして結婚。一児の父として、夫として、職業人として、彼は非の打ち所がないほど優秀であった。

それは、恐ろしく不気味なほど優秀であった。



「千崎ちゃん、少しいいかい」

たいそう穏やかな声が千歳にかけられた。それは、誰が聞いても穏やかで落ち着きのある物腰が伝わる、そんな声音であった。
しかし、千歳はその声に全身を強張らせた。両腕に抱えた書類の束を危うく落としかけたが慌てて抱え直す。ピンと張りつめた緊張の糸を切らないように、千歳はゆっくり振り向いた。

「及川、次長…」

ゆっくりその名を吐く。久方ぶりに発せられたその名に、千歳の前に立つ男は満足気に口角を上げた。

「少しいいかな」

閑散としたフロアにいるのは千歳と後輩の男性社員のみで、怪訝そうに2人を見遣った後輩に及川は、瞳を三日月に歪めた。それはひどく不気味で、有無を言わせない無言の圧力に後輩は背筋を伸ばした。

「……ごめん、ちょっと行ってくるね」

努めて柔らかに、穏やかに。脈打つ心臓を落ち着かせ、不恰好な笑みを浮かべた千歳は促されるままに及川の後を追った。

千歳が関わる資料が悉く突き返されている事実を知る人間は、彼女の仕事に携わる人間の耳にも入っている。怪訝な瞳で及川を見据えた後輩はその事実を知っているが、易々と心情を表に出してしまうのは若さ故か。

「慕われているんだね、君は」

まるで天気の話をするかのような軽快な声色で及川は口元を歪める。
外光が殆ど入らない薄暗い倉庫、使われていないその部屋へと千歳を連れてきた及川は相変わらずの狐面を貼り付けて千歳に話しかけた。

「優秀な人間は後輩に慕われる。仕事ぶりだけではなくその人間性に惹かれるんだろうね。真面目で、気配りもできて、要領もいい、まさに理想の」
「及川次長」

ピタリと、テンポよく紡いでいた彼の言葉を千歳が遮った。ぎゅ、と両の手を重ね合わせて握る。微かに震える腕を守るように。

「すみません、まだ仕事が残っているので」

言葉足らずに意思を主張する千歳に及川は思い出したようにパンとひとつ手を叩いた。

「……あぁ、すまないね。つい、君といると色々と話したくなるんだよ」
「色々と…ですか」
「そう、色々とね。例えば、そうだな」

光沢のある革靴を鳴らして一歩、二歩。千歳との距離を詰めた及川に彼女はたじろいだ。ただ近づいただけにも関わらず、強烈な圧迫感に襲われて思わず息が止まる。
間合いを詰めた及川が、口を開いた。

「最近上手くいかない君の仕事のこと、とかは実に気になるかな」

圧迫感に加えた思わぬ発言に、千歳の目が見開かれる。確信を持った発言だ。及川政幸は至極満悦感のある表情で宣った。喜色に満ちたその相貌はひどく冷徹で、暖かみのない歪んだ笑みが千歳を見下ろしていた。
一歩も動けない。明確な恐怖を感じ千歳は蛇に睨まれたカエルの如く立ち竦み、ただ及川に鋭利な言葉の刃を突きつけられる。

「千崎ちゃん、確かに君は非常に優秀だし勤勉だ。しかし、それだけだ」

悪意の楔を千歳の心臓に突き立て、尚彼は深く打ち付けていく。

「君がどんな思いで仕事に打ち込むかなんて、取引先や相手先にとっては至極どうでも良い話なことくらいは理解しているよね?」

疑問の体でねっとりと紡ぐがそれはもはや問いかけてはいない。
両の手で首を絞められているような錯覚に陥り、強張る身体を千歳は抱き締める。
震えが収まらない。

「千崎ちゃん」

ぬ、と腰を落とした彼と視線を合わせられ、声なき悲鳴が千歳の喉から漏れた。

「世の中、数字を取るために身を落とす女性もいるけど、その点いいよね君は」
「……私は」
「勤勉で、気配りができる故に愛されて、重宝されて。真面目で努力家な人間だからこそ報われる」

滔々と紡ぎながらも、及川の瞳には光が灯らない。注がれる冷眼に身体の芯から冷えていく心地が千歳に広がる。
とん、と柔らかく肩に手を置かれた。千歳の身体が面白いほどびくんと跳ねる。
及川がそっと千歳に耳打ちした。


「いいよねェ、女性というだけで同じ土俵にいても庇護の対象になるのだから」


いっとう低められた、地を這うような低い声音に今度こそ千歳から悲鳴が溢れた。

明確な悪意、憎悪。今目の前にいる及川政幸という男から放たれているのは間違いなく自分に対する負の感情だった。千歳に対して今まで向けられていた温顔は鳴りを潜め、狡猾な狐面が牙を向いていた。

(これが、この人…?)

仮面の下にひた隠しにしていた獰猛な獣に、千歳は眼を見張る。が、その片鱗は確かに見えていた。ただ、見過ごしていただけだ。


及川政幸は非常に優秀だった。
勤勉で、気配りもできる、絵に描いたような好青年だった。
彼は、妻子のために粉骨砕身で働いた。働くだけではなく家庭にも気を配った。家庭的で生真面目な仕事人という2つの顔を易々とこなしていった。


「同じ土俵でも、男というだけで与えられる無意味で無価値な役目を君達は甘受しない。君達は、女という存在はそれだけで武器になる。実に」

ーー羨ましい限りだ。

及川はあくまで冷静に、冷徹に、しかし万感を込めて吐き捨てた。


優秀な仕事人という、理想の男性。
しかし、その裏側にあったのは社会の理不尽な圧力だった。
横行する口利き、理不尽な要求、時にそれは接待という形でもたらされた。得意先に、上司に、買えと言われれば断らざるを得ないその要求は及川の心を蝕んでいった。
及川政幸は、真面目過ぎた。故に、その心は純粋に歪んでいった。何故自分が、と自問自答する。華やかな営業マンの裏側に芽生えた黒い感情はやがて大きな靄となり、彼を覆い尽くした。

そうして出世を重ねて発言力の大きくなった彼は、ある日目に付いた。
かつての自分と同じように、勤勉で優秀で、慕われる若手社員。女性という立場を利用せず凛然と立ちながら、男性に負けじと対抗するわけでもなくただ責務を果たす女性。

及川政幸にとって、それはひどく忌々しい姿だった。


「千崎ちゃん」

ゾクリ、と背筋が凍る。及川政幸の一挙一動に身を縮める千歳に気を良くしたのか、彼は極上の笑みを浮かべた。

「よろしく頼むよ」

ぽん、と、まるで親しい仲の様に、気さくな上司の様に、彼は千歳の肩に手を置いた。

「君から誠意を持って相手方にきちんとすれば上手くいくから」
「あ、の」
「きちんと、ね?」

狐面が笑う。ゾクリと背筋に悪寒が走る。有無を言わせないその言の葉がひどく恐ろしく、しかし引き離せない視線を千歳はただ無防備に浴びた。

きちんと、何をするというのだ。

強張る身体を感じ取ったのか、及川は千歳にニンマリと笑んだ。

「あぁ、まぁ嫌ならいいんだよ。接待が嫌いな子も勿論いるからね。でも、世の中そういう相手先もいるし、それをあしらわない選択をするならそれなりのリスクはあるものさ」

及川の言葉に千歳は閉口する。

選択肢などあってないようなものだった。及川政幸が営業の次長で開発製品の試作品を精査し、企業に提案する立場の重鎮である限り、千歳ひとりが取ることのできる行動は結局のところこの男に握られている。
悪意も、思惑も関係なく、ただ上の命令を実行すれば万事上手くいく。故に、ただー

(……考えるな)

足掻いたところで何の意味があるというのだ。大切なのは自分は下の人間で、ただの一社員ということだ。

この程度のこと、このくらいのことは、よくある事だと思い込ませて、心を殺す。

「考えておくといい。僕はあくまで提案するだけだから。決めるのは君だよ」

好きにして良い、と嘲笑を浮かべる男の声はもはや千歳に届かなかった。


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仮面の下に