16.振り払う過去
『どうして私と付き合ったの』

暗闇の中から聞こえる声に耳を傾ける。どこを見渡しても視界に広がるのは闇ばかりで、己の存在すら闇に溶けるような錯覚に陥る中、その声だけはひどくリアルだった。

『どうして何も言わないの』

言わない、ではなく、言えない、のだ。どこに声の主が居るのかも分からない、己がどこにいるかも分からない。

(どうして、か)

何を言えば良いのかも、分からない。

掛けるべき言葉は、正解などない。しかし分からないのは言葉だけではない。

(俺も分かんねぇんだよ)

己の意思も、望みも、何も湧かない。考えられない。

声が遠のく。どこから聞こえていたか、何を伝えたかったのか分からないまま、その声は遠く消え去っていく。
嗚呼、消えるのか。妙に落ち着いた己の心に声が刺さった。


『いつもそうだね』


耳元で聞こえたのは、ひどく哀しい彼女の声だった。





怒涛のプロジェクト週間が去った。春から取り掛かった三企業共同の事業は一先ず終わりを迎えた。馬車馬の如く働いた甲斐あってか、つつがなく終えることのできた安堵感が課員には広がっていた。

「波多野お疲れ」

仮眠室で眠りについていた波多野に降ってきたのは聞き慣れた声と缶コーヒーだった。気怠げに前髪をかき上げ、薄く目を開き無言でそれを受け取る。

「ひっどい顔だね」
「お前もだろ。営業イチの色男が聞いて呆れる」

せせら嗤い、缶を開けて一口喉は流し込めば、苦味が広がり思考が覚醒していく。
一息つけば、よっこらせ、と甘利が隣に座った。

「終わったっていうのに、浮かない顔しているけど?」
「……お前ほんと目敏いよな」
「人聞き悪いなぁ」

苦笑した甘利は眉尻を下げつつ、しかし波多野に鋭利な視線を投げかけた。

「そんな顔になっているってことは、千崎ちゃんとまた何かあったんでしょ」

探ることもせず直球で問いかけてくるのは甘利の良いところだ。呑気に気ままに見えて、甘利は人の心の機微に敏感だ。その上、言葉を常に選びながら適切な距離で投げかけてくる。
だからこそ、波多野は彼の真摯な瞳に嘘をつくことは叶わない。

ひとつ大きく息を吐き、波多野はぼそりと呟いた。

「何が正解か、わかんねぇんだよ」

ミチリ、とアルミ缶が悲鳴をあげる。
伏せた面に落ちるのは暗雲で、厚い雲が立ち込めていて先行きが見えない状態。

正解、なんてものは結果論だ。幾重にもなった枝の中から摘み取った選択が、最善の最良の結果を導けばそれは即ち正解で。
不正解を誰も選びたくはない。不正解から得られる教訓があるならばそれは正解、と人はいうが、回り道をするほど人に時間は用意されていない。
波多野にも、彼女にも、回り道の時間はないのだ。
だからこそ、煩悶する時間すら惜しいというのに一歩踏み出すことが出来ずにいる。

「……あの時、何があったの?」

低めた声音で甘利が問う。
同じ声音で波多野も答えた。

「……千崎を抱いた」
「………そっか」
「驚かないのかよ」
「驚かないよ。あの状態の千崎ちゃんなら、自暴自棄になってそうなるかな、て少しは思ってたから」

波多野は甘利の横顔を拝み、聡いその思考に舌を巻いた。
長く深く息を吐く。思いを馳せた彼女の相貌に苦悶の色は広がるばかりだ。


千歳を抱いたその後、閑散とした社の談話室で波多野は彼女と鉢合わせした。ぱちり、と交わされた視線から思い起こされたのは情事の記憶で、言葉の選択に惑った波多野の代わりに千歳が口を開いた。

「波多野さん」

深々と頭を下げ、謝罪を口にする。

「すみませんでした」
「千崎」
「ご迷惑をお掛けしました」

面をあげた彼女の視線は波多野と合わない。どこを見つめているか分からない双眼に波多野が映ることはなく、虚ろな瞳に歯がゆさが募る。

あの日もそうだった。
この、虚空を見つめて心を殺してしまった彼女の手を取ろうとして、選択したのは彼女の意思を汲む方法だった。
伸ばされた手をはねのけずに心に巣食う闇を払う方法はあったのかもしれない。しかし波多野はその選択を見つけることができなかった。それ故の、波多野にとっての最善だった。
その場限りの逃避でもいい。
近しい距離に居ながらその負の変化に気づくことのできなかった。この選択は、己の贖罪でもあったのだ。

そして今も、彼女は彷徨っている。

波多野が口を開く前に、千歳は逃げるようにその場を後にした。


「それっきり、千崎ちゃんに会ってないの?」

甘利の言葉に頷き、波多野は苦味を喉へ流し込む。

(何やってんだよ)

自分は何をやっているのだと波多野は自嘲を繰り返していた。
その度に、暗闇の奥で声が聴こえるのだ。

『どうして私と一緒にいるの』

それは、かつて自分と共にいた女の声。木霊する声は過去からの亡霊か、波多野にニタリと笑う。

『貴方はいつもそう』
『貴方は誰にも興味なんてないよ』

するりと細長い指が波多野の喉へ絡みつく。いつまでも、染み付いて離れない声音は波多野に囁き続けてきた。


『波多野さん』


それでも、すり抜けてしまった彼女が波多野に見せていたあの仄かな笑みが頭から離れない。


「……波多野」
「なんだ……っ!いってぇ!」

ゴン、と鈍い音が響いた。

波多野より幾分も高い甘利が下した鉄拳は彼の頭にガツンとヒットし、思わぬ痛みの襲来に波多野から抗議の声が漏れた。
頭を抑えつつ甘利を睨みつける。

「おま、えっ、何やって」
「馬鹿なの?」

ピリ、と張り詰めた空気に波多野は喉まで出ていた言葉を引っ込めた。見遣った甘利の相貌に息を飲む。
朗らかで柔和であるのに、甘利の微笑みは本来の意味から離れていて。やや青筋が見られるその相貌は、明らかな怒気を含んでいた。
呆れること、はありはしても、怒りの感情を露わにする甘利はたいそう珍しい。

波多野は目を瞬かせた。
呆ける波多野に甘利は低いトーンで淡々と紡ぐ。

「波多野が何に悩んでいるのかなんて知らないし、正直心底そんなことどうでもいいんだよ」
「甘利…」
「どうでもいいでしょ?そんなこと」

問いかけではなく確信のある発言。
真摯な眼差しが波多野を捉えた。

「大事なのってさ、何が正解か、じゃないじゃん」

分かってるでしょ、と。甘利の紡ぐ言の葉に、波多野は目を見開く。

確信めいた甘利の口調は波多野に思い出させた。
自分が取るべき最善策、正解の道。
大切なことは、そこではないことを。


大切なのはーー、


「波多野がどうしたいか、でしょ?」


それは至極当たり前のことだった。

物言わぬ彼女をこのままにしておけば、何れ関係は廃れて行く。行動を起こさなければ切り開けない未来を知りながら、波多野が立ち止まっていたのは正解を探していたからだ。

何をすれば彼女の心の闇は晴れるのか。
どうすれば、最適解を導き出せるのか。

しかし、正解を探し続けでいた波多野はいつしか失念していた。
自分は、どうしたいのだ、と。

閉口した波多野に甘利は続けた。

「色々と言ってきたけどさ、結局は抱えているものを全部ぶつけないと何も解決しないんだよ。それとも、このまま追いかけずにこのまま千崎ちゃんを誰かに渡す?」

嫌でしょ?と笑う甘利の顔に、もう怒気は見られない。

相手のことを考えて行動する。それは対人関係において不可欠なスキルだ。
しかし、それ以前に大切なのは、


「答えが出ているなら迷うなよ」


己が導き出した答えだ。

関係性のしがらみに捕らえられ、手を伸ばすことを諦めかけていたなど愚の骨頂だと波多野は自嘲した。

拒絶されようとも、噤まれようとも、手離したくないものがあるから迷うことはない。
手にしたい未来があるのなら、波多野ができることなど限られているのだ。

ふと、緩んだ口元が心内を表す。

「迷わねぇよ」

苦味を飲み干し、甘利に視線を寄越した波多野の相貌に、もう、影は落ちていなかった。



ーーー


振り払う過去