子どもの頃に夢見ていた大人は輝いていた。何でも出来て、何でも知っていて、地に足をつけて歩いている。そうして子どもの手を引いて、時には叱り、時には褒めて、道標となり歩き続けてきた。
大人は凄い、だから早く大人になりたい。早く、立派な大人になるんだと曖昧な夢だけ膨らんでいった。
年を経るに連れて知っていったのは、大人のしがらみ、苦悩、ままならない現実と理想の狭間でいつだって大人は考えていた。子どもに大きな背中を見せながら、前を向けば絶壁が立ち塞がる。それでも、その壁を子どもに見せないように大人は踏ん張っていた。
現実の大人達は輝ける社会に生きてはいない。夢と現実のバランスを取るために手放すものを選択していく。
人間諦めが肝心だと、誰もが知っていく。
「千歳さん」
沈んでいた思考が名前を呼ばれたことにより上げられた。
昼時の食堂に来るのは久しぶりだった。
そして彼女と、雪乃と共に食事をするのも久しぶりだった。
千歳と視線を交わした彼女はその顔を見ると眉を顰める。
「悩み事でもあるの?」
自分の身を案じるその相貌に千歳はへらりと心許ない笑みを浮かべて答えた。
「いいえ。何でもないです」
まるで自己防衛の笑みだ。
雪乃は何か言いたげに口を開いたが、視線を揺らして逡巡し口を噤んだ。かける言葉を探し答えが出なかったのだろう。曖昧な慰め文句は無用だと雪乃は知っている。
「……佐久間課長とはどうですか」
話を逸らすためにいやらしいことを聞いていると理解しながら千歳は囁いた。
その名が出た瞬間、雪乃は大きく目を見開き次いで首から耳まで見事に朱に染まったものだから、面食らったのは千歳の方で。
「それは、その」
どもりながら答える雪乃の言葉は尻すぼみ地なっていく。何を思い出しているのか、キュッと、口を真一文字に結んで視線を逸らす彼女の挙動からは、彼女達がどうなったのかが明らかだった。
「それはおめでとうございます」
「まだ何も言ってないからっ」
「言葉にしなくても大丈夫ですよ」
綺麗に弧を描いた口元を見せつければ、言葉を詰まらせた雪乃は仕方なしに箸を進める。
普段は凛然と仕事に励み、千歳にとっても憧憬の対象となっている雪乃の晴れやかな話に千歳はひどく安堵した。
(良かった)
嗚呼、幸せなのだと。紆余曲折を重ねながらも彼女にとっての正解に辿り着いたのだと、雪乃の相貌からその幸を読み取った千歳はひとつ瞬く。
瞼の裏に蠢く闇と、一筋の光の中に居る彼の姿。彼が闇に飲まれることはなく、小柄ながら頼もしい背中が振り返って笑うのだ。
『千崎』
屈託の無い笑顔が眩しい。その笑みが千歳にじんわりとした温かみを与え、しかし現実を思い起こさせる。
足掻いても仕方ないのでは無い。足掻き方すら見えない今が哀しく、痛かった。
「千歳さん…?」
不安に満ちた声が掛けられ、千歳はゆっくり瞼を上げた。大丈夫?、と掛けられる言の葉と気遣いに手をのばし掛けて首を振る。
何がですか、と惚けて陰気臭い笑みを浮かべて。心配など掛けたくはないというのに、取り繕う余裕もない自分に嫌気がさした。
お先に失礼します、と足早に席を立つ。案じる視線を背に感じながら千歳は逃げるようにその場を後にした。
子どもの頃夢見ていたキラキラした大人を夢想していたのかもしれない。
閑散とした技術部棟の廊下を歩きながら千歳は自嘲した。
好きな仕事をして、後輩にも先輩にも恵まれて、これ以上にないくらい充実した社会人生活。それは、千歳が幼い頃夢見ていた理想の大人だった。
こんな大人になりたい、こんな風に過ごしたい。漠然とした夢は現実味を帯びていった。事実、千歳は夢を叶えていたのだ。自分は夢を叶えることができた運の良い人間だった。
だからこそ、失念していたのかもしれない。
大人はいつだって、諦めを繰り返して生きているということを。
バイブ音が告げる悪夢に肩を震わせて、千歳は携帯端末を手に取った。差出人の名前を見て顔に影を落とす。ミチリと端末が悲鳴をあげた。
諦めを繰り返して生きる大人になれと、画面の向こうの相手が下卑た笑みを浮かべているのが見える。
千歳が諦めるまでその攻撃は終わらない。
その現実を改めて感じた瞬間、千歳の中に留めていた弱さが溢れ出した。
「……やだ」
画面が滲む。震える声音で千歳はぽつりと吐露した。
「もう…やだ」
波多野さん、と人が疎らなことを良いことに千歳は彼の名を口にした。
ひとつ口に出せば溢れてくる。その名を何度も呟きながら、零れる涙に想いを乗せる。
「波多野さん」
ごっこ遊びから始まった日々のことを、あの夜のことを思い起こして思いを紡ぐ。折り重なった行き場のない感情に千歳は泪を落とした。
正と負の、ぐちゃぐちゃになった感情を漏らしていた時だった。
「千崎」
思わぬ声に千歳の涙がぴたりと止まる。背後から掛けられたその声は確かに望んでいた声にも関わらず、いざ聞いてしまうと背筋にぴんと緊張が走った。
緩慢な動きで振り返った先、
「波多野さん…」
千歳の目に映ったのは息を切らしながら千歳を見る波多野の姿だった。
「千崎…」
呼ばれた刹那、ぱちりと瞬けば自然と落ちるのは大粒の泪で。
落ちたそれを見た波多野が目を見開いた。
「泣いてんのか」
「あの、これは」
「千崎」
一歩踏み出した波多野に一歩千歳は後退する。様々な感情が行き交い、千歳の思考を撹乱した。
会えたことが嬉しい、話をしたい。プラスの感情が前に出ようとしたが、それ以上の感情がブレーキをかけた。
(駄目)
今のこの状態を見られたくない。
自分は大丈夫、自分はまだやれる。その矜持が失われた、弱々しく、みっともない自分の姿。
理解した瞬間、弾かれたように千歳は走り出した。
「千崎!」
焦る声に振り向かず千歳は走った。
逃げたところでどうにもならないことなど分かっている。ただ、耐え難い現実を直視する勇気が千歳にはなかった。
ーーー
凛とした姿が印象に残っていた。波多野が職場で見てきた千崎千歳という女性は、常に前を向き仕事に邁進する人物だった。右も左も分からない新米だった頃に比べて、指導する立場となった今、彼女は堂々たる姿で後進を指導していた。
決して驕らず、昂らず、物腰柔らかにしかし職務に従事する。その姿は、同性の後輩には輝かしく映っただろう。
そんな彼女の柔らかな姿。仄かな笑みを浮かべ、時には無防備な相貌で波多野の理性を刺激する。
ごっこ遊びから始まった彼女との日々は、色鮮やかに波多野の生活を彩った。紛れもなく彼女という存在は、波多野にとって『どうでも良い』ものではなくなっていた。
伝えなければいけないことがあった。
その為に、波多野はもう手放すわけにはいかなかった。
狼狽した様子を見せた彼女はその場から逃げ出した。ひと気のない地下へと続く階段へと走る彼女を波多野は追った。
自分でもどうしたいか分からないのだろう。ただひたすら波多野から逃げる彼女に、波多野は叫んだ。
「千崎!千崎!」
脳裏を過る、千歳と過ごした日々、表情。己に見せた柔らかな笑顔と、その柔らかさと対比される痛みに耐える相貌を思い起こし波多野は無意識に口に出した。
「っ、千歳!!」
名前を呼んだ刹那、一瞬千歳の動きが鈍くなった。好機とばかりにその手を波多野は掴んだ。
そのまま、流れるように身体を抱き寄せる。
「…波多野さ…ん」
「頼むから、逃げんな」
想いを乗せ、回す腕に力を込める。頼むから、とぽつりと呟けば、強張っていた千歳の身体が弛緩していった。
時間にしたら僅かだった。
「波多野さん、もう大丈夫です」
落ち着きを取り戻した千歳が身を捩り、波多野に向き合う。
涙に濡れた瞳にも関わらず、彼女は精一杯の笑みを作り出した。
「すみません、あまり泣き顔なんて見せたくなくて。見苦しい所をお見せしました」
笑う彼女が、あの夜に重なり波多野は顔を歪めた。
大丈夫、問題ない。そう言いながら波多野に縋り、そして罪過の念に飲まれた彼女に波多野は何一つできなかった。
正解という、曖昧で不確かな帰結を求めすぎた結果、彼女から遠のいた現実。
今もまさに、その状態だった。
だからこそ、ここで退いてしまうことは波多野には許されなかった。
「千歳」
その名を口にする。驚きに瞬く彼女に波多野は続けた。
「言いたくないならいい、なんて言えるほど俺にも余裕はねぇんだ。だから、お前が言うまで離すつもりはない」
「波多野さん…」
「ごっこ遊びは、もう終わりだ」
もう、ごっこ、にすることはできなかった。
涙を枯らし、ひとり耐える姿を見るより、あの己に向けた暖かな感情を波多野は求めている。
波多野の言葉に息を飲んだ千歳に、ひとつ息を整え、波多野は紡いだ。
「好きだ、千歳」
たった一言。されど一言。
その言の葉を伝えることに長く時間をかけ過ぎた。
その一言に、千歳の声が震える。
「っ、波多野さん…」
「何があったか言え。全部俺に見せて、1人で抱え込むな」
な?、と波多野が彼女を撫でれば、堪え切れないように、千歳は波多野に身を寄せ、再び涙を流した。
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走り出す未来