終話:ゴールライン
社内人事が出た。年末を控えたこの時期にしては異例の人事に社内に動揺が走ったが、それ以上に、人事を言い渡された人物に対して課員にどよめきが起こった。
営業部のホープ、役員ポスト確実、エーリート街道を闊歩する男の名がそこには記されていた。

『営業部第一営業課 及川政幸次長』


「地方のライン、製造所の所長へ転勤だが、事実上の左遷だ。戻ってくることはないだろうよ」

昼時を外した談話室。掲示板に貼られた人事表を前に波多野は吐き捨てた。忌々しさを隠しもしないその態度に千歳は苦笑する。
改めて視線を向けた先にある人事表に、千歳はえも謂れぬ想いを抱いた。


千歳は波多野に全てを打ち明けた。及川政幸にされたこと、今の状況と己の心境。足掻いても纏わりつく闇になすすべも無く、ただ苦しいとみっともなく縋り泣いた。
回された波多野の腕の力強さと温かみを感じ、千歳はひどく安堵した。

そのあとの事の運びはトントン拍子だった。
上層部への告発から発覚した及川政幸のパワーハラスメント、セクシュアルハラスメントは千歳だけではなく他社員にも及んでいた。横の連携により及川政幸は責任を問われることになり、結果落ち着いたところが配置換えという人事。
千歳が数カ月掛けて悩み藻掻いた闇は、瞬きする間に晴れていった。あまりの幕引きの早さに千歳自身、自分は一体何に悩んでいたのだろうと首を捻る始末だった。


(本当に呆気ない)

無為に過ごした数カ月だったのかと嘆息した千歳はしかし思い直す。ある意味、貴重な経験ができた。
人の悪意は何に対して向けられるものか分からない。自分の理解の及ばないところを突かれ、それは時に自分自身にはどうしようもできないこともある。
ただ、抱え切れない悪意に潰される謂れはないのだ。
千歳はちらりと傍に立つ波多野に視線を遣った。


ーー


あの日波多野が千歳を見つけたのは偶然ではない。それを千歳が知ったのは、ことが全て終わってからだった。

「雪乃さんが…?」
「様子がおかしいから、てな」

タイミングが良かったと話す波多野を見つめながら、千歳は自分を案じていた彼女を思った。
心許ない笑みを置いてしまったが故に要らない心配を掛けてしまった。
しかし申し訳ないと思いながらも、彼女の機転の良さに素直に感謝しているのも事実で。

「お前がどこにいるか分からなかったから、助けられた」

話を聞いてあげて欲しい、と彼女は波多野に伝えたという。
よく自分を見ている。千歳は暖かな心遣いに口元を緩めた。


久方振りの2人きりの時間。自室のテーブルを囲みコーヒー片手に穏やかな表情を見せる波多野に千歳の気持ちも和らぐ。

「波多野さん」

その名を呼べば返ってくるのは冷眼ではなく暖色のある瞳で、心落ち着く視線に意を決して千歳は口を開いた。

「私、ずっと迷ってて。波多野さんとどうなりたいのか、どう思っているのか自分でも分かっていなかったんです」

告白を受けたのになんという言葉だろう、と自嘲しながらも、千歳の言葉を受け止める波多野に彼女は続けた。

「自分の気持ちに確信が持てないから好意を伝えられなくて、昔の恋人とはそれが原因で振られちゃいました。それなのに、今回もあまり伝えられなくて」
「同じだな」

え、と千歳が瞬く。
言葉尻が窄んでいく千歳に波多野が苦笑した。

「同じなんだよ。興味ないんだ、て言われて避けられて、俺自身どうしたいか分からずに追いかけなかったらそのまま終わった」

だから同じだ、と肩を竦める波多野に千歳の目尻が下がった。

同じなのだ。お互い、近づくことに戸惑い、それでもその心地良さを手放したくなかった。
先の見えない関係に安易な帰結を導きたくない。2人ともやっぱり違っていました、なんて言葉で片付けられるほどの年齢ではなかった。
恋愛と結婚は違う。ごっこ遊びで済む話ではない。結婚適齢期の年齢同士、という要素も加わり一歩踏み出す勇気を振り絞れなかったこの数カ月。

ある意味、この事件が後押ししたのかと、及川政幸の功罪に千歳は複雑な思いを抱いた。

「千歳」

波多野が千歳を呼んだ。名前で呼ばれたことにピンと背筋を伸ばした千歳に波多野は可笑しそうに笑う。

「だから、ちゃんと伝えとかないとな」

同じように背筋を正した波多野に千歳は焦りをみせた。

「っ、待ってください」

テーブルを回り波多野の隣に座る。居住まいを正した波多野に向き直り、ひとつ息を整えた。

「あの、波多野さん」

脈打つ心臓を落ち着けようにも波多野と目が合えばそれも叶わない。熱が高まる身体だったが、それでも先に言わせてなるものか、と半ば妙な対抗心から千歳は紡いだ。


「私と結婚してくださいっ」


安直な、簡潔な一言。
プロポーズは壮麗な夜景の見えるホテルとか、麗しい花々を手にとか。男性から女性へのプロポーズは世間一般にはそのようなシチュエーションが好まれるが、女性から男性の場合はどうなのであろうか。
しかしながら、何と締まらない告白だろうと叫んだ後になって千歳は後悔した。そもそも、付き合ってすらいなかったのだから此処は改めて、付き合って下さい、なのではなかったのか。

自分の本心には変わらないが、段階を数段跳ばしてしまった告白に居た堪れず俯いた千歳の両頬に無骨な掌が添えられた。

「千歳」

上向いた視線の先、認識する間も無く施された口付けに千歳の身体が硬直する。角度を変えながら啄ばみ、食む柔らかなそれに身を任せ、徐々に千歳の身体は弛緩していった。

「波多野さん…」
「先に言うなよな」
「……だって、この前は波多野さんに先に言って貰ったから今度は私がと…」
「何の対抗心だよ」

苦笑する波多野に千歳の口元も緩む。

「私からきちんと伝えたかったんです。これからも、ずっと一緒に居たい、て」

一度吹っ切れて仕舞えば、するりするりとむず痒い台詞が出てくるもので。
破顔して紡げば、目の前の波多野の顔が朱に染まった。
波多野さん?と小首を傾げる千歳に、波多野は大きく息を吐いた。

「俺から言おうと思ってたのに全部持っていくなよな」

恨めしげに吐かれた言葉はしかし暖色に満ちていて。柔らかな相貌が千歳に伝染して互いの色が一つに染まっていった。
嗚呼、やっぱりこの人なんだと千歳はひとつ瞬く。
培ってきた想いを胸に彼の名を紡げば、同じように波多野も応えた。


「俺と結婚してくれ、千歳」


ーー


「何ニヤニヤしてんだ?」
「え」
「顔、緩んでるぞ」
「ゆ、緩んでません」

ニヤリと笑みを浮かべた波多野に千歳はそっぽ向く。進んだ関係性に慣れないのか、心の内に気恥ずかしさを感じながらしかし満ち足りているのも事実で。
左手の薬指にそっと手を当て、光沢を放つ銀色に千歳の頬は今度こそ緩んだ。
あと半年ほど経てば、互いの指につけられるだろうその輝きに今から高鳴る胸の内。子どもが楽しさに胸躍らせているような感覚に苦笑しながら、千歳はそれでもやはり待ち遠しく思う。

「波多野さん」
「ん?」
「ありがとうございます。あと」

よろしくお願いします、とはにかめば返ってくるのは似たような笑み。


探し続けたゴールライン。
半年先に切るであろうゴールテープに、千歳の心は澄み渡っていた。



ーーー



終話:ゴールライン