2.見合いは続く
恋愛と結婚の違いは色々とある。恋愛は終わらせるのも終わってしまうのも呆気ない。ただ一言、別れよう、それが全てだ。そこから先は復縁という選択もないわけではないが、その言葉一つで一旦は両者の関係が恋人から切り離される。
結婚は法的な枠組みの中にある。戸籍上夫婦となり口だけの離別は成立しない。
結婚生活は忍耐力が試される。この人と一緒に居たいという見通しの甘い幸せな気分だけではいけない。
この人とならどんな苦難も乗り越えられるという強い覚悟が必要になる。
結婚とは、―――

「人生の墓場とはよく言ったものですね」
「経験者は語る、て言うからね」

今日も今日とて仕事に精を出し、ランチタイムに社員食堂で顔を合わせた千歳と雪乃は黙々と料理を口に運びつつ互いの近況を報告していた。

「それにしても、あの波多野がね」

同じプロジェクトチームに属する彼を思い浮かべたのか、雪乃はクスクスと可笑しそうに笑んだ。

「見合い相手が波多野さんだなんて思いもしないですよ普通」
「お互いのやる気のなさが満ち溢れていた見合いだったからこそ気づかなかったんでしょう?まぁ、逆に分かって会うのも気まずいんじゃない?」
「それはそうですけど」

ズズ、と千歳は口を窄めてパックの紅茶を飲む。

「それで、その後はどうなっているの?」

何気なく、しかし奥底に秘めた興味の色に千歳は罰の悪そうに俯いた。


波多野との見合いの後、彼と連絡先を交換した千歳に待っていたのは『恋人ごっこ』と称した所謂デートだった。仕事終わりの食事から休日のショッピングまで、まさに『恋人』として申し分のない演技を彼はこなしていた。
もともと休日は自宅に引きこもり出歩くことのない千歳は洒落た店もカップルで楽しむことのできる施設も知らない。あぁ、どうしようと頭を捻らせる前に彼は次々と行き先を示してくれる。まるで本当の恋人のようだと苦笑したことは数知れず。
その後どうなった、との両親からの連絡に事の経過を説明すれば、「ようやくね…」など潤んだ瞳が目の前に想像できるほどの声音で宣われ、苦笑したのは記憶に新しい。
嘘偽りはない、その行為は確かに真実だ。

―――行動だけ見れば、だけど。

そこに伴うはずの心がどこへ行こうとしているのかは、千歳にもわからない。


「良いじゃない。少なくとも嫌ではないんでしょ?」

カラッと快活に笑む雪乃に千歳は歪めていた顔を更に顰めた。

「嫌じゃなくても、こんなわけのわからない関係いつまでも続けられないですよ」
「どうして?」
「……だって、どうなるか分からない相手と一緒に過ごすなんて…」

そこまで出た言葉に下唇を噛みしめる。
その先を紡いでしまっては駄目だと瞼を伏せた。

恋愛気分の軽い気持ちなら違ったのかもしれない。これが駄目でも次がある、ステップを踏みながら若さという花畑を駆けて色とりどりの花々に目移りする。何も怖くない、物事の全てが燦然と其処に在りただ優艶に笑むだけでよかったあの頃。
たった数年前だというのにもう何十年も前の昔の事のように思えた。

口づけたストローを吸えば鈍い音が鳴り、吸えど吸えど喉は潤されない。

「千歳さんは真面目だね」

ぽすりと頭部に女性特有の柔らかな掌の感触を感じ、千歳は悩まし気に伏せられた瞳を上げた。

「色々とあった私が言えたことじゃないからアドバイスとかはできないけど、私は千歳さんがやりたいと思うことを応援するよ」
「雪乃さん…」
「だからそんなに不安そうな顔をしないの」

慈愛に満ちた瞳が千歳に向けられる。その温かな眼差しは千歳の中に巣食う鬱屈した想いを幾ばくか和らげた。
想いをいくら散りばめたところで何も解決はしない。予防線のように先のことを考えたところでこの手のことはいつだって唐突に、何の知らせもなくやってきて心をかき乱すものなのだ。

仕様のないことだと、千歳は手にしたパックをぐしゃりと潰した。





「いいよな、千崎は」


――――女だから。


あの優愛を込めた眼差しとは正反対の、侮蔑とほんの少しの羨望、嫉妬、人が持つ特有の感情が入り乱れた色に千歳の表層の反応が一歩遅れた。
すぐに言葉の意味を飲み込むものの、何が、と問うその一瞬すら馬鹿馬鹿しい。それほどまでに幼稚な同期の態度に千歳は閉口した。
しかし、閉口した千歳の様子を、図星、と受け取った同期は気をよくしたのか鼻穴を膨らませて宣った。

「いざとなれば家に入る選択があるって超恵まれてるじゃん?男はそうもいかなくて働き続けなきゃいけないとか本当に勘弁してくれって感じだわ」

言わせたい奴には言わせておけばいい。いつもそうやって、最後には成果を出して証明する。
この仕事に必要なのは私であると。

同期入社で技術部門に配属されたのは千歳1人だった。故にこの営業に配属された同期は千歳の仕事ぶりを知らない。その上酒の席で口が緩んでいるのだ。普段は奥底に沈めている妬み嫉みが堰を切って溢れ出していた。

「男は結婚したところで家にいることは出来ないのにさ、女は辞めて主婦にだってなれるだろ?」
「男でも別になれるじゃない」

吐き捨てたのは総務勤務の女性の同期だ。待ってましたと、彼は彼女を指差した。

「なれても世間の目は冷たいだろ?女とは違うっつーの」

5杯目の生ビールを飲み干して若い店員に追加を頼む姿に彼女は肩を竦める。互いに合わさった視線で千歳は憐憫の情を交わした。


千歳は、彼の意見も分からなくはなかった。

男女雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法。女は男と同じ土俵に立つことの許される時代となり、庇護の元の安寧ではなく独り立ちが出来る世界となった。
それはひとえに女性の権利を獲得するために奮闘した先人達の努力の賜物で、その恩恵を千歳達は受けている。
時代に恵まれた。幸い社の方針としても女を茶くみ程度に使い捨てることはしない。
しかしそれは同時に男性と同等の責任を負うということにも繋がる。

悪態を吐く彼自身の器は知れている。周りに宥められ、憤然とした表情を落ち着かせた彼を一瞥し千歳は同年代の友人達を思い浮かべた。
ある友人は半年も経たずに寿退社した、ある友人は仕事の重責に耐えかねて離職した。その後、長年交際していた恋人に貰われたらしい。
皆口を揃えて言ったのだ。

『女で良かった』

昨今は専業主夫というものも認知されてきてはいるが、それでも女のそれより圧倒的に数が少なく世間の風当たりは厳しい。

結婚というスタートを皮切りにライフスタイルを変える特権を有しているのは圧倒的に女なのだ。

それでも、と千歳はずらりと並ぶ同期の顔ぶれを見た。

(女に養われるのはプライドが許さないでしょうに)

とどのつまり、皆無い物ねだりなのだ。

己のやりたいように、好きなように生きるということは存外難しい。儘ならない現実に直面しながらそれを乗り越えまた明日を生きる。
それが、大人になるということ。
しかし、大人になっても皆自分の立ち位置を確認して不安に駆られ、隣の芝生を見ては青々と感じそして羨望してしまう。

今目の前にいる小物めいた発言をする彼も、

(私も…なのかな)

仕事という側面で満ち足りている現在に加えてちらつく華やかな世界に、千歳はひとり嘆息した。



―――――――――――



「え、まだキスすらしてないわけ?」

営業周りの道すがら、甘利は道の真ん中で素っ頓狂な声を上げた。

「声でけぇよ」

唸った目の前の小柄な同僚に、あごめん、と頭を下げる。

「でも、いやだってさ、けっこうな回数デート行ってるよね?食事にショッピングに映画に、あと夜景も見に行ったんだっけ?」
「よく覚えてんな、お前」
「そりゃあ、あの波多野がようやく彼女、しかも社内で作ったんだからチェックするでしょ」
「女子か、お前は」

呆れた目線など気にしない。それほどこの波多野という男は色めいた話が全くと言っていいほどない男だったからだ。


親の勧め、という名の半ば強制、仕組まれた見合いに駆り出されたと聞いたのはその見合いの僅か一日前。書類から何まで完璧に用意していた親に出し抜かれ、満面の笑みで送り出されたとボヤいていたにも関わらず何処か不服そうではないその顔に首を傾げて問いただせば事は直ぐに割れた。

千崎千歳。彼女は福本と小田切の後輩だった。

たいそう優秀な新人が入ったと聞いたのは数年前。さてどんな子だろう、技術職志望の女子は今時珍しい。作業が深夜までかかるときもあるため、そもそも女子に向かない職種だ。
日が経たないうちに彼女は甘利の前に、正確には甘利と波多野の前に姿を現した。

『新製品のサンプルと資料です』

開発中の製品の試作品と資料を両手に抱えて営業課を訪ねてきたのは、まだ学生の相貌を残したあどけない女の子だった。初めて訪れた営業課に不安を覚えていたのか、若干目が泳ぎ今すぐ此処から帰りたい、と口を真一文字に結んだ姿。
その姿に口元が綻んだことを今でも覚えている。
ありがとう、と朗らかに笑む甘利の隣で、お疲れさん、と資料に目を通す波多野を見上げ一礼すると彼女はくるりと背を向け足早に逃げ帰っていった。
初めてのその邂逅から成長した彼女は今では技術職の一翼を担い活躍している。福本と小田切も信頼を置いていて、営業課に姿を見せるときもあの、子猫、のような素振りを一切見せることはなかった。


そんな彼女との見合いだったのだ。浮ついた話を聞かないことに加えて、興味を抱かずにはいられないのは至極当然の事だろう。
どこまで彼女と進んでいるのか、こみ上げる興味関心を抑えない甘利に波多野は盛大なため息を吐いた。

「勘違いしているみたいだけどな」

歩きながら、波多野の口から何気なく言葉が紡がれた。


「彼女じゃない」
「………は?」


ぽかん、という表現がこれほど合うことはあっただろうか。丸い瞳を瞬かせ、半開きの口から洩れたのは純粋な感想だった。

「え、何遊んでるの?」
「ちげぇよ!」
「だったらなんなわけ?え、だってそうでしょ。何回デート行ってるの?見合いしたんでしょ?は?だったらキスしてないって」
「そういうことだよ。つーか、親の目くらましに恋人のフリしてるだけ」
「フリってさぁ、波多野」

なんだよ、とじとりと睨み付けられ甘利は波多野と同じく盛大なため息を吐いて見せた。

「いや、分かってると思うけど。何かアクションを起こす気がないならさ、あんま期待させない方が良いんじゃない?」
「……別にそういうわけじゃねぇよ」
「なら好きなの?告白するの?」
「わかんねぇよ、まだ」

吐き捨てた波多野の顔が歪む。
顔を顰めているその様子を見る限り、本心からそう思っていることは甘利にはよく理解できた。

入社以降、甘利は波多野に関して色めいた話を聞いたことはない。大学時代に付き合っていた彼女は居た、とだけは聞いたことはあるが、どんな女の子だったのか何故分かれたのか、それを聞こうとすれば煙たがれ、犬を追い払う様にあしらわれていた。
波多野は恋愛下手、というわけではない。女性に恐怖心の類があるならばそもそも見合いの後連絡先すら聞くことが出来ないはずだ。

甘利が問いたい答えを、波多野自身も恐らく持っていない。

甘利は、答えの出ない迷路に迷い思考する波多野に破顔すると、その頭を押さえぐしゃりと撫でた。

「っ、ンだよ!」
「べぇつに?まぁ、頑張れよ〜」

目を吊り上げ、脛に蹴りを入れようとした彼の足はひらりと避ける。追撃する彼の脚をヒラヒラ避けながら甘利はふと目を細めた。


(俺も人のこと言えないけどなぁ)


脳裏をかすめた、仄かな微笑に苦い笑みを浮かべた矢先、今度こそ波多野の強烈な一発が彼の足にヒットした。


――――――――

見合いは続く