3.ごっこ遊び
波多野にとって休日とはたいそう暇を持て余す時間だった。これといった趣味もなく強いて言うなら、地元へ帰り慣れ親しんだ道場で、幼少期から高校まで一心に打ち込んだ柔道の指導をすることぐらいか。兎にも角にも、波多野という男は無趣味であった。
他人に無関心、なのかもしれないと波多野自身はぼんやりと考えていた。
生まれてこの方、何かに誰かに心を砕くという経験をしたことがない。憧憬する相手もなく抗いようがない情動に胸を締め付けられたこともなかった。大学時代に付き合ってきた『彼女』さえ成り行きだったのだ。
ただ無情に流れて行く時を、何処か他人事のように見つめていた。

あの日、あの見合いの日に出会った彼女すら初の邂逅の時はその顔すら見ていなかった。
毎年何人も何十人も新しい世代は補充されて行く。その中のひとつに気を配るなど波多野の無関心な心がする筈もなかった。
顔と名前くらいは一致する。
しかし、個人の人となりなど些細なことで波多野が見るのは明確なデータとしての人間。名前、出身、社内における評価、その人物を構成する情報だけが最低限必要なだけだった。


都内のワンルームマンションの一室。地価が上がったと先日のニュースで発表されている住宅街。
自室のベッドに横たわった波多野はディスプレイに表示される名前をじっ、と見つめた。

『千崎千歳』

脳裏に浮かんだのは仄かな笑みだ。

深夜回りもザラにある技術職希望、女っ気のない部署に舞い降りた女神ではなくごく普通の女子、小田切の話に度々出てきていた優秀な後輩。
構成されていた千崎千歳という人間の情報は、見合い、という特殊性のある環境下で化学変化を起こした。
紅一点の部署、正社員の技術職、特段醜女でもない。そんな彼女が見合いという場に赴いたことは波多野の中に興味を生んだ。
互いに親に仕組まれた場で彼女は苦笑した。


『いつか、とは思っていますよ』


(いつかなんて来るのか、て顔してたくせにな)


人のことは言えないか、と波多野は自嘲する。

ほんの少し湧き出た好奇心に僅かな心地よさを感じ、波多野はディスプレイに触れた。



ーーーーーーー



「行きたいところですか…」

眉尻を下げた彼女はうん、と唸り唸り唸りそのまま沈黙が流れた。途切れた会話に眉尻を下げた彼女は居たたまれなくなったのかちらりと波多野に視線を寄越した。
この沈黙など想定済みだ。

「……じゃあ、行くか」
「え?」

付いて来いと彼女の前を歩き振り返れば、小首を傾げながらも波多野の後を追いかけてくる。何処へ、とも聞かずにただ足を進める千歳の手を波多野はとった。
ぴくりと肩を震わせて次いで、波多野さん、と上擦った声をあげた彼女に口角が上がる。

「『恋人』なんだろ?」

意地の悪い笑みで顔を覗き込めば、僅かに顔を顰め片眉を上げた彼女は己の指と波多野のそれを絡ませた。
所謂恋人繋ぎだ。

「随分と積極的だな」
「そうでもないですけど」

なんてことない、とそっぽ向く彼女の面の下はどうなっているだろうか。湧き上がる好奇心を抑え、波多野はその手を握り返した。


ーー


「ここって……」

行き着いた先で千歳が見せた顔色に波多野は満足そうに喉を鳴らした。

「前、談話室でチラシ見てたろ」

そう言えば、千歳は目を瞬かせ波多野を凝視する。

「見てたんですか」
「たまたまな」


2人の目の前には、白に黒の斑点が特徴的な猫と小さなブルドッグ、が仲良く佇んでいる写真。
世界的な猫の写真家の写真展。都内のギャラリーで週末までの開催だったと記憶している。
そのチラシに熱視線を送っていた千歳を波多野は覚えていた。瞳に灯った光は燦然と輝き、一目見ただけで彼女がそこに行きたがっていることはよく理解できた。
よくもまぁ自分も彼女を観察していたものだと波多野は自嘲する。

「あの、波多野さん」

目を輝かせていた千歳は、しかし暫しなにかを考える素振りを見せ不安げに波多野を見つめた。

「波多野さんはつまらなくないですか?」
「なにが?」
「いえ、……その」

口籠り視線を落とす。

「私は行きたかったんですけど波多野さんが興味ないなら1人で行けますし…」

か細い声で彼女はそう紡いだ。
尻すぼみになる声音は不安の表れだ。波多野に気を使わせているのでは、もっと他に行きたい場所があるのでは、無理をして付き合わせてしまってはいないだろうかと遠慮がちに合わされた視線に波多野は嘆息した。

「お前さ」

がしりと小柄な割に大きな波多野の手が彼女の頭を鷲掴む。ひっ、と小動物のようにピシリと固まり硬直した千歳にゆっくりと言葉を吐いた。

「遠慮してんなよ」

呆れを含ませた声音に、2度、3度ぽんぽんと手を上下させる。

「………波多野…さん」
「言ったろ、ごっこ遊びでも今は恋人だ。お前と行くことに意味があるし、お前の行きたいところへ行くことに意味があるんだよ」

だからそんな顔すんな、とふわりと頂部を撫でれば擽ったそうに目を細めた千歳が口元を緩めた。緊張が解けたように合わさる視線も柔みを覚え、温顔が波多野に惜しみなく向けられた。

「ありがとうございます」

嬉しいです、と破顔した彼女に波多野も吊られて笑みを零す。

あくまで恋人『ごっこ』だ。誰がどう見ても恋人にしか見えない2人の距離が、実は違うものだと言われれば首をひねるだろう。
触れ合う互いの暖かさを肌で感じているにも関わらず、その先の関係が見えてこない奇妙な距離感。

『ごっこ遊び』はまだ終わらない。


「波多野さん」


波多野の手を彼女が引いた。



「行きましょう」



弾む声音と無垢な笑顔が波多野の目に焼き付いた。



ーーーーー



ごっこ遊び