5.見えない景色
「波多野、最近どう?」

喫煙室から顔を出した甘利は、共に取り組んでいるプロジェクトの打ち合わせ資料に目を通していた波多野に出会い頭そう問うた。
案の定、怪訝な目つきが返ってくる。

「は?」
「だから、彼女と。最近どう?」
「だからじゃねぇよ。何で今なんだよ」

波多野の返しは最もで、現在彼が目を通している書類は話の片手間内容を詰められるものではなかった。

外部企業とタッグを組んだプロジェクト。部署を跨いだ特別チームを組んで取り組むそれは、社運をかけていると行っても過言ではなかった。
ドイツ系企業と競合他社、それぞれ10人前後のチームを派遣する事業。
こちらからは、営業の甘利と波多野の他にも多部署の精鋭が揃えられている。
膨大な経費を算出するのは、ミスターチャラ男として有名な神永とそれに振り回されながらも手綱を握る田崎。
折衝を任されているのは、温顔でしかし詰めるところは逃しはしないことで有名なベビーフェイス、実井と三好。
肝心の製品の試作品開発は、小田切、福本が受け持ち、その企画担当は女性ながら他社から社長直々に引き抜かれた雪乃が担っていた。

外部の二社との本格的な調整に入る前に、このプロジェクトを取ってきた甘利と波多野で纏められた内容を説明し、詰めていかなければいけないのだ。
その資料を眺め再度確認している波多野にそんなことを聞いたものだから返ってきたのは大層機嫌を損ねた声音だった。

「下らねえこと言ってないでさっさとデータ作ってこい」

しっし、と鬱陶しそうに波多野は手で甘利を払う。甘利が担当している追加資料の作成にさっさと精を出せとのことだが、甘利は軽やかに流した。

「九割方完成しているから問題ないさ。ねぇ、波多野」
「くどい」

ピシャリと睨みを効かせる波多野は苛立ちを露わにしていた。その苛立ちが、今のこの状況で問うことに対してなのか、それともこの話題に踏み入ることに対してなのかは分からない。
甘利は肩を竦めた。

「くどくど言われるくらい、芳しくない状況だと思うんだけどね」

どちらにせよ、早めに言っておくに越したことはない。普段の軽口から一転、顰められた声。
その存外低い声音に波多野が片眉を上げた。

「どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」

訝しげに視線をよこす波多野から目を逸らし、甘利は廊下の壁に背を預ける。

「外野が口挟むことじゃないけどさ、女の子って丈夫そうに見えて意外と繊細なんだよ」

言葉に出しながら甘利の脳裏にも仄かな笑みが浮かんだ。
大丈夫、大丈夫。何てことはないと言いながら彼女達は硝子の様に脆く儚い。気丈に振る舞う姿は時に美しく、時に目を背けたくなるほど痛々しい。

「不満が表に出た方が可愛げがあって、不安な気持ちを押し込めてたらいつの間にか壊れることだってあるんだよ、波多野」

覆水盆に返らず。
溢れた感情を戻すことができずに、距離が離れてしまうことは往々にあるのだ。

「……経験談か?」
「ストレートに痛いとこ突くなぁ…」

苦笑して見せれば、波多野が吐き捨てた。

「馬鹿じゃねぇの」

下らないと一蹴する。

しかし、眉間に皺を寄せた相貌に僅かな動揺は見てとれた。資料に目を落としているにも関わらず、その視線は文字もグラフも追っていない。瞳が映すのは膨大なデータではなく、今同じ職場で仕事に精を出している彼女なのだろう
くしゃりと手に持つペーパーに皺が寄った。

ーー気にはなっているんだな。

素直じゃないと甘利は眉尻を下げた。

「このプロジェクトも大事だけどさ、関係を宙ぶらりんにしたらいつか突然終わりが来るかもよ?それで良い………わけないよね」

一呼吸置いた言葉に波多野が反応し鋭い視線を投げてきた。怖い怖い、と肩を竦める甘利だが内心何処か安堵する。

色めいた話を聞かない、良くも悪くも他人に対して淡白な波多野が自然消滅を望まない女の子。
まるで付き合いたての男女のように距離を計りながら付かず離れず歩みを進める中で、踏み込みはしないものの手放すことは出来ない。それは手放しで喜ぶまでとはいかないものの、及第点といったところだった。

ただ、と甘利は思案する。

踏み込み過ぎないその距離は曖昧で不確かだ。境界線の上を綱渡りのように歩くだけではどちらに転がるか分からない。
どちらにも転んでしまう危うさから不安な想いが胸を掠め、答えの出ないこの先に対して憂いの気持ちが燻る。

このままでは、自分と同じ轍を踏みかねない。

「だからさ、この関係の先のことを、波多野自身がどうしたいのか考えときなよ」

己がどうしたいのか、どう進むべきで何を望むのか。
至極簡単で単純な問いでありながら、その実は常に誰にとっても頭を悩ませる表題だ。
ゴールラインの見える仕事とはわけが違う。
踏みしめる土と振り返った軌跡からしかその先の景色を想像することは出来ない。

「ご忠告どうも」

ほらいくぞ、と促され今度こそ甘利は、はいはいと彼の後に続く。
言いたいことは言った。先を作っていくのは結局のところ波多野にしか出来ないことだ。


「後悔、しないようにね」


己の中で繰り返される自嘲と懺悔をこの小さな背が背負わないことを、切に願った。



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見えない景色