仕事はあらゆる雑念を紛らわせてくれる。職務に忠実でそれでいてその職を愛している千歳にとって職場での時間は至福の時だった。
好きなことを仕事としている、果報者なのだ。日々の鬱屈とした想いも仕事に打ち込んでいれば忘れることが出来る。
特に、上手くいっている時は。
(出来た…)
今回は一等良いものが出来る。そう確信した千歳は思わず顔を綻ばせた。毎日機材とにらめっこしたり、数値を入力してデータ試算したりと華やかな女性社員とは真逆の仕事環境での労働においてこの、出来た、という感覚は最上の喜びの一つだ。勿論、至極喜ばしいのは製品化後である。
「上手くいったのか?」
レポートをまとめ、営業に回すための資料を作成していた千歳に語り掛けたのは彼女より幾ばくか年上の先輩社員。
短く揃えられた黒髪、初対面では気難しそうな面だった彼も今では後輩の面倒見が良い、まるで兄ような存在だった。
「はい、小田切さんのお陰です」
「俺は何もしていない。毎日遅くまで残ってたお前の努力の結果だよ」
「謙遜しないでください。小田切さんと福本さんに手伝って頂いたから出来たんです」
小田切と同じく表情の変わらない千歳のもう1人の先輩社員、福本は現在隣県の支店へ出張中だ。
千歳が入社して以降、2人から業務を教わり拙いながらも一歩ずつ前進してきた。感謝しても仕切れず、千歳は彼らに全幅の信頼を置いていた。
彼らのお陰で大きなミスをしたことは幸いなことに一度もない。
「私、小田切さんが私の教育係で本当に良かったです」
「こら、今はお前もその立場だろ?」
「私は小田切さんほど優秀じゃないので、後輩に任せっきりですから」
「嘘つけ、この間日付回る直前まで手伝ってたのを見たぞ」
「なんのことでしょうか」
そっぽ向いて鼻を鳴らせば、とぼけるな、と紙束で頭を小突かれる。笑みが溢れる彼の温かさに穏やかな心持ちとなっていた。
「ほら、それ出しに行くんだろ?」
小田切が指差したのは、千歳が作成している資料。製品の概要データから用途、応用パターンなど幅広く資料は作られ送られる。
どれだけ良いものを作っても、それを売る即ち営業がその用途と優位性を理解しなければこれは売れはしない。
「あまり専門的に書くなよ?」
「分かっています」
この部署に配属されたての頃は製品の良さを伝えたいあまりに専門的且つ細かな情報を書きすぎて不況を食らった。
必要な情報をコンパクトにわかりやすく、そして売る側が困らないように、が基本だ。
さて、腕の見せ所だと千歳は液晶画面に向き直りキーボードを叩いた。
「技術の千崎です。サンプルとデータ持ってきました」
定時の1時間前に漸く書き終え、上司のチェックを通った物を抱えて千歳が訪れたのは営業一課。
初めて来た頃は、右も左もわからぬ童よろしく震えながら扉をノックしたことを覚えている。
それが今では、失礼しますとドアを開けて担当の係を呼びつけるまで成長したのだ。たった数年、されど数年。それは千歳の成果という足跡が為す矜持となった。
開けたドアから今月の売り上げ目標、と書かれたホワイトボードにちらりと視線を走らせる。見慣れた名前が千歳の目に映った。
(……倍の数字とってる…)
波多野、と書かれた名前の横、各製品の売り上げ数の目標すら他の追随を許していないというのに実績は既にそれを上回る製品がいくつかある。
本当に優秀なのだと数字を見つめていると、ぬっ、と目の前に人影が現れた。
「わざわざ悪いね、千崎ちゃん」
弾かれたように声の主に視線を合わせる。
「及川次長」
「今回も良いものを持ってくてくれたんだろう?」
色白つり目、黒のタイトスーツに撫でつけられた漆黒の髪は年齢を感じさせない。営業部でも若くして異例の出世を遂げた敏腕営業マン。
及川政幸次長は他部署でもその名が話題に上がるほどの逸材だった。柔和な笑みの中に鋭い視線を兼ね備え、取引先との交渉において決して不利になるような契約を取らない。
千歳も度々この及川に製品を取り扱って貰っていた。社内で会う度に、千歳の提示したデータがたいそう役に立ったと賞賛の言葉を貰ったものだ。
千歳は破顔すると此処ぞとばかりに手にしたサンプルとデータを出してみせた。
「試作段階ですけどこれで何事もなければ製品化に移れそうです。」
「何事、があったことなんてないじゃないか」
どれどれ、と千歳から一式を受け取った及川は丁度その場に駆けつけた係の男に見向きもせず、手振りで去るよう指示する。
逃げるように奥へと姿を消した男に僅かながらの申し訳なさを感じた千歳に及川は満面の笑みを浮かべた。
「此処ではなんだから、談話室で話を聞こうか。詳しく知りたい」
「良いんですか?お時間は…」
「今日の仕事はもう終わりだよ。さ、行こう」
滑らかな動きで千歳の肩を抱いた及川に思わず千歳の身体は強張った。
「わかりました」
キシリ、と胸が軋んだ音は千歳には届かなかった。
ーーーー
「次長と仲良いのか」
何気なく吐かれた言葉は脳が処理をするのに時間を要した。千歳は大口を開けてかぶりつこうとしていたクレープを口に入れられず、そのままの状態で固まった。
「………えっと」
「及川次長」
どの次長だと思案した千歳に、波多野は短く伝える。合点のいった千歳は暫し逡巡した。
「よく私が関わった製品を売り込んで下さるのと、話を聞いて貰えているだけです。仲が良いとは少し違いますね」
「お前が来る時、及川次長浮き足立ってるけどな」
「変なこと言わないでください。可愛い娘さんと奥さんがおられるんですよ」
千歳はじとりと波多野を睨みつけ次いで話題の及川を思い浮かべた。
5歳年下で才色兼備の妻と愛らしい一人娘。営業次長のポストの座に就き順風満帆なのだ、及川政幸という男は。仕事も波に乗り家庭も疎かにせず誰もが羨む対象だった。
千歳は肩を竦めて再び口を開けた。
『連絡するね』
はた、と千歳の動きが止まる。
ちらりと見えた狐目と視線、脳裏に蘇った声にまたもクレープは喉を通らなかった。
談話室で及川に説明をした千歳が掛け時計を見遣れば時刻はとうに定時を過ぎていた。闇が息を吸う時間帯となり、千歳は己の失態に頭を下げた。
「すみません、奥さんと娘さんが待ってらっしゃるのに」
家庭のある人間を縛り付けてしまっていた。此処は千歳のように時間の融通がきく人間ばかりではない。
平謝りする千歳に及川はあいも変わらず朗らかに笑んだ。
「気にしなくて良い。仕事なんだからね」
「すみません…」
「謝ることはないさ」
トントンと書類を整えサンプル品を片手にした及川は、あぁそうだ、と思い出したように内ポケットに手を入れた。
小首を傾げた千歳の前に出されたのは携帯端末。
「……?あの」
「千崎ちゃん。連絡先教えてくれるかい?」
「え?」
千歳の丸い目が見開かれる。
言葉として理解出来ても、その意味を理解することが出来ずに千歳は更に深く首を傾げた。何故、という疑問が先行し言葉を上手く紡ぐことができない。
「製品のことでさ、またこれについて聞きたいことあるかもしれないからさ、一応、ね?」
訝しんだ千歳に及川は端的に訳を述べた。
及川の言う通り、専門用語を強力少なくしたとはいえ、元来営業畑の及川他営業マン達が取引先で細かな設定を聞かれた際、電話越しに技術担当が説明することは往々にあった。
しかし、常に対応するのは自分のような末端の人間ではなく直属の上司、先輩にあたる人間だ。
千歳の不審そうな面持ちに及川は尚続けた。
「他の人間は出られないことが多いからね。念のためだから」
変な意味じゃないよ、と言われれば断る理由も特段ない。
それより、今は彼を待っている愛娘と愛妻の元へ早く返すべきだと判断した千歳は手早く連絡先を交換した。
スマートフォンを近づけ操作する。
アプリのトップページに表示された、及川、の文字。アイコンは愛娘の誕生日の写真だ。溺愛していると有名なその子は満面の笑みをカメラに向けている。
千歳は微笑ましい画面に綻んだ顔をあげた。
「登録完了で……」
(え…)
ぞくりと背筋を掛けた悪寒。
顔を上げた先、及川政幸の面に視線が移ったその時だ。彼が見せた表情に千歳の笑みがピシリと固まった。
「ありがとうね、千崎ちゃん」
しかしそれは一瞬だった。
千歳が息を飲んだその時にはいつもの及川の笑みに戻っていたその表層。
しかし千歳の脳裏にはしっかりと焼きついた。
(なに、あれ)
細められた瞳とつり上がった口角。
それはひどく底冷えする笑みだった。
一瞬、されど一瞬。
千歳の中に一抹の不安が生まれた。
「千崎?」
現実へと引き戻す声が千歳に届いた。はた、と気がついた千歳は呼び戻した主に作り笑いを貼り付ける。
「すみません、ちょっとボーッとしてました」
がぶりと、千歳はお預けを食らっていた好物をようやっと頬張った。カスタードの甘みとフルーツの酸味が絶妙に絡み合う。美味しいです、と満面の笑みを向ければ返ってきたのは、冷笑ではなく穏やかな笑み。
暖かな色に安堵しつつ、千歳の中に生まれている不穏な影が胸を蝕んでいく。
嫌なことも不安なことも、負の感情全てが砂糖菓子のように甘く溶けて仕舞えば良い。水に流せば文字通り消えて無くなる。
脳裏に浮かんだ及川政幸の冷笑、同期に宣われた言葉、己を取り巻く環境と未来があるのか分からないこの現状。
どこへ行きたいのだろう、どうしたいのだろう。
男絡みで短期間に千歳の中には先に対する不安が立ち込め陰鬱な陰を落としいた。
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籠の中の鳥