ここのところ、自分にツキが来過ぎていた。
仕事において、後輩に恵まれ先輩に恵まれ上司に恵まれ結果に恵まれ、恐ろしいほど仕事という側面でツキが来過ぎていた。
その反動なのかもしれない、と千歳は溜息をつく。
その他の面についてはそのツキがそっぽ向いている気がしていた。
暗雲立ち込める特定の人物との関係を体現するように千歳が見上げた先には分厚い雲。程なくして地面に叩きつける大粒の雨がやって来た。
(……傘、忘れた)
そっぽいたツキがケタケタと笑っている。
スマートフォンを取り出して画面をスライドさせる。定時を過ぎた現在の時刻から雨のマークが続く天気予報にうな垂れた。
地下鉄までは歩かなければいけない。走るにしてもバケツをひっくり返したような雨の中は遠慮したかった。
(少し待ってよう)
千歳はくるりと180度方向転換して来た道を帰る。幸い社のロビーは広く足を休めるスペースもあり、少し待つ分には何の問題もなかった。
見渡せば千歳と同じように雨に降られて足踏みしている社員がちらほらと見られる。時計を見たり携帯画面を見たりと、この雨がいつまで続くのだろうと皆途方に暮れている様子だった。
鬱々とした空気が流れている中、ふと千歳の目に留まった女性がいた。
「いい加減にしてくださいね」
受付場にいるその女性から、可憐なその相貌に似つかわしくない言葉が飛び出した。にこりと貼り付けられた笑みはしかし能面のようだ。青筋が確認できるほど彼女は苛立っていた。
そんな彼女の目の前にいるのは、小柄な男。
(懲りないなぁ)
千歳はくつくつと静かに笑ってしまった。
この光景、実は珍しくもなんともないのだ。恒例のイベントを千歳は楽しげに眺めた。
「毎回毎回、何回目ですか飽きないんですか」
「飽きていたらやめているでしょう?」
「そうですね!なら早く飽きが来て欲しいですね!」
そう言いながら女性は手にした名刺をビリビリと破り捨てた。無残に残骸と化した名刺がひらひらと舞う。
側から見たら何の騒ぎだと眼を見張る場面だが、生憎千歳は当事者2人のことを知っている。
受付嬢の名は原城志乃。今年入ったばかりの新入社員だ。本人曰く「バリバリ働きたかったのに受付なんてツいてないですー」とのこと。茶汲み程度の仕事で男を引っ掛けて寿退社を狙った女子ではない。
そして、
「でもこれだけ置いたら、僕の名前覚えてくれましたよね」
女性が羨むほどの白い肌にベビーフェイス。柔和な笑みと丸い瞳が印象的な彼は、あの波多野たちと共に社運をかけたプロジェクトの一端を担っている期待の若手。
「そうですね、実井さん。名前を覚えてるんですからもう名刺置く必要ありませんよね?頭大丈夫ですか?」
実井。そう呼ばれた彼は、彼女の口から自分の名が出たことにたいそう満足したのか笑みを更に深めた。
三好と共に折衝を担当しているこの実井という男は、仕事という、他社との交渉術においては一目置かれるものがあるというのに、こと自分の恋沙汰に於いてはその交渉術をミリ単位も発揮できていなかった。
押して駄目なら引いてみろどころではない。
押して駄目なら全力で押し込め。
恋愛沙汰に億劫なイメージすら抱きかねないこの男、その実は真逆の思考の持ち主だった。
「あ!千歳さん!」
喜劇の一部始終を眺めていた千歳に志乃が気づき、助けを求める子犬よろしく円らな瞳を向け手を振ってきた。
対照的に、実井からは邪険な視線が送られたものだから千歳の心中は穏やかではない。
呼ばれた手前、無視するわけにもいかず2人の元へ歩み寄る。
「お疲れ様、志乃ちゃん。今日も張り切ってるね」
「はい、張り切って破いています」
「張り切らないでいいよ、そこは」
千歳に向ける明朗快活、年相応の笑みはたいそう可愛らしい。が、その可愛らしい口元から棘のある台詞が飛び出すものだから彼女は相当この実井に嫌気がさしているのだろう。
ちらりと千歳が実井を見遣ればじとりとした視線が寄越される。
理不尽だ。全くもって己のせいではないのだが、運が悪かったとしか言いようがない。千歳は心の中で合掌を捧げた。
「ところで、千歳さんは何故こんなところで油を売っているんです?」
ちくりと牽制球を投げられ、思わぬ投球に慌ててグローブを構える。早くここから居なくなれ、そう言わんばかりの背筋が凍りそうな笑みに千歳も似たような笑みで抗戦した。
「傘を忘れたので止むまで待っていようかと」
「鈍臭いんですね」
的確な嫌らしい一言に千歳の笑みがピシリと固まった。彼はベビーフェイスの下には狩人の仮面を被っている。実井は曲者だぞ、といつか波多野が言っていた言葉を思い出して千歳は苦笑した。
「なら!千歳さん一緒に帰りませんか!」
その空気を知ってか知らずか、パンと両手を叩き晴れやかな笑顔を志乃は見せた。比例して笑顔の裏の般若の形相が色濃くなったのは実井。志乃に向ける華の笑みの裏側を千歳に向けたため千歳はじりりと後ずさった。
「だめ、ですか?」
きゅうん、と効果音が付きそうな瞳だ。それはミカン箱に入れられた子犬だった。上目遣い、下げられた眉尻、可愛い後輩。
千歳は心中で葛藤を繰り返す。
(すごく嬉しいんだけど)
ちらりと視線を横にやれば実井と交錯する視線。
(あ、れ?)
おかしい。千歳は、彼の纏う雰囲気に拍子抜けした。
じとりと妬み嫉みの篭った視線を寄越されるかと思いきや、実井は満面の笑みを浮かべると徐にスマートフォンを取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「……えぇ、そうです。早めに来ないと濡れてしまいますよ」
こんな時に何をやっているのだろう。否、こんな時だからこそ不気味である。
「あの、実井さん」
得体の知れない彼の行動に、スマートフォンをしまうと同時に千歳は話しかけたが彼の笑顔は志乃へと向けられた。
「千崎さんは先約があるそうなので一緒に帰れないらしいですよ?」
「え!そうなんですか?」
「えぇえ……」
なんだそれは。当たり前だが聞いていない、寝耳に水だ。そもそも今帰ろうとしていたと話していたばかりだ。
なんの話だと実井に睨みを効かせれば、素知らぬ顔で再び志乃へと絡み出した。その姿に千歳は分かりやすく溜息を吐く。
何かのハッタリだろうか。彼女を独占するための嘘だろうか。
(仕方ないけど、さっさと帰らないと不自然だよね)
架空の先約とやらに自分は走って赴かなければならいけないのかと肩を落とす。
千歳は今の自分の姿を見つめた。大丈夫、お気に入りの靴でもないし着ている服も買ったばかりのものではない。
次いで窓の外へ視線をスライドさせる。雨はまだ止まない。本降りから少しは収まったがまだ降りしきる雨の中走る程ではなく、ロビーにいる雨待ちの社員達は足踏みの最中だ。
さぁ、久し振りの全力疾走と行こうかと気合を入れたその時だった。
「千崎!!」
それは会社で聞くはずのない声だった。会社で自分を呼ぶはずのない人物だった。外の雨音がやけに耳に響き、時間が止まったかのような錯覚に陥る。
まさか、と半信半疑で振り返った先、
「お前、馬鹿なの?」
肩で息をしながら頭を抱えた、ごっこ遊びの相手がそこにいた。
「波多野さん…?」
ーーー
地下鉄までの道をひとつの傘で歩く。地面に叩きつけていた雨はこの空気を読んだのか、些か静かな音を奏でていた。
千歳はふと自分の姿に今一度目を落とした。
濡れたパンプス、動き易さを重視したパンツ。雨で四方八方にうねった髪は1つに纏めている。
(色気も何もない…)
仕方ないことだがやりきれない思いが内に巡る。
道路側に立った波多野が、濡れるから、と千歳を強引に引き寄せた。その行為にぽっ、と頬に熱が集まるのを感じ千歳は下唇を小さく噛んだ。
「お前ほんと馬鹿だろ。傘もないのに走って帰ろうとしたとか」
「……それ誰から聞きましたか?」
「実井」
「ですよねー…」
あの電話の相手は彼だったのか。合点が行き嘆息する。
志乃との時間を確保するために同僚すら利用する。柔和を纏う狩人に目を付けられた愛らしい後輩に千歳はエールを送った。
しかしながら、と千歳は波多野を見つめる。
営業部の通常業務と三企業合同プロジェクトを担う波多野は現在、繁忙期真っ只中の筈だ。定時で帰ることができるとは考えにくい。
千歳の視線に気づいた波多野が小首を傾げた。
「どうした?」
「いえ、あの」
逡巡し落とした視線を上げ、千歳は彼に問う。
「仕事忙しい時期なのに大丈夫だったんですか?」
その問いに、波多野はバツの悪そうに視線を泳がせた。あー、と伸ばした声には図星の意が含まれている。
やっぱりそうだ。千歳は居た堪れない面持ちとなった。
「すみません」
元はと言えば実井の電話のせいなのだが、己の不手際で彼を連れてきてしまったことに芽生える罪悪感。そもそも、傘を持ってくれば良かった話だ。
俯く千歳に波多野は苦笑した。
「この世の終わりみたいな顔すんな」
「でも」
「別になんてことねぇよ。終わらないわけじゃない」
だから余計なこと考えるな。そうからりとした笑みを向ける彼の相貌に目を奪われる。暖かな色、柔らかな声音、少しばかし戯けた口調も陰鬱な色を落とす千歳を思ってのことだろう。
「……ありがとうございます」
「おう」
仄かに芽生え始めた形容しがたい感情と釣られて緩む頬に、雨も悪くないと安直な考えに至った。
会社から地下鉄に揺られて30分。閑静な住宅地には単身用のアパートやマンションが散見される。不動産屋に聞いて選んだ、比較的防犯面での安心感がある地域に千歳は居を構えていた。
本降りの雨から小降りとなったが、尚降りしきる空模様に波多野は半ば強引に千歳を送り届けた。
「こんなところまですみません」
「大したことじゃねえよ」
千歳の謝罪に波多野は肩を竦めた。
大したことではない、気にするな。
彼と様々なところへ行き、恋人ごっこをしていく中で千歳がよく聞く言葉だ。常に前を歩き手を差し伸べ、小生意気で戯けた調子を醸し出しながら面倒見が良い。
千歳から見た波多野という男は、あまりに眩しい存在だった。
ふと、千歳の目に彼の姿が留まる。 雫が僅かに光る髪と濡れた肩。
「じゃあな」
踵を返しマンション前から立ち去ろうとした彼の腕をはしりと掴んだ。
「あのっ、」
それはただの思いつきだった。思わず出た言葉だった。
だからこそ、千歳の裏のない気持ちだった。
虚をつかれ、首を傾げる波多野に喉から出たのは上ずった声。
「上がって行かれませんか……」
降りしきる雨音がやけに耳についた。
ーーー
はじめの一歩