人の部屋、人の家には居住者の匂いが付く。匂いというのは何も不快指数が高いものではなく、個人によって変わるもので、識別コードのようなものだ。芳香剤などを焚いていなくても、それは家々によって異なる。
一歩踏み入れた先のワンルーム。不要な物は置かれていない、青を基調としたシンプルな空間。整理された棚には学術書の他に文庫の小説が陳列されている。
仄かに香るのは彼女の匂いだった。
「どうぞ」
濡れた上着をかけて貰い、ハンドタオルで毛先を吹いていた波多野に持ってこられたのはインスタントのコーヒー。丸縁のマグカップがコトリと置かれた。
「悪いな」
「いえ、此方こそまだ何も準備できていないので」
「別に無理に作らなくても良いんだけど…」
「そんなわけにはいきません!」
またもや上ずった声を発した千歳が、ハッ、とばつの悪そうに俯く。どことなく緊張した面持ちの彼女が波多野には新鮮だった。
千歳は仕事ができる人間だ。会社内での評価も高く、小田切や福本も、よく出来る後輩だ、と柄にもなく頬を緩めて自慢していた。
誰かに媚びることもなく、己を卑下することもない。他者を蹴落として自らの評価を求める輩とも違う。純粋に仕事に打ち込む姿は堂々たるもので、後輩の女性社員からの熱視線の様子を波多野も目にしたことがあった。
だからこそ、このような慌てふためく姿は新鮮で、思わず口元が緩んでしまう。
「波多野さん?」
疑問符を浮かべた千歳に、なんでもない、と澄ました顔を作る。首を捻った彼女も置き時計の時間を確認すると慌てた様子で台所へと駆けて行った。
ひとつ波多野は息を吐くと、改めて部屋を見渡す。
(千崎の部屋、か)
自分だけが見ることができている光景。此処に来ないと見ることのできなかった、触れることの出来なかった空気。そう思うと何処か優越感に浸ってしまう。誰に対して、といえばこの選択をしなかったかもしれない別の世界線の自分へ、だ。
未だ名をつけることのできない関係にも関わらず何を考えているのかと自嘲しながらも、波多野は数時間前のことを思い浮かべた。
実井から連絡が来た時、波多野は仕事の真っ最中だった。
大口の顧客とのやりとりが終わり、やれやれレポートを纏めるかとキーボードに手を掛けたその時に鳴った社用携帯。実井、という文字にプロジェクトのことかと通話ボタンを押せばそれは手短な内容だった。
『大雨の中、傘を忘れた千崎が実井の制止を振り切り帰ろうとしている』
ただの同僚なら、馬鹿か、と一蹴して放っておくだろう。それどころか、
(恋人、だとしてもか)
以前の波多野なら、例えそれが恋人だとしても放っていた。自業自得、関係ないと。
しかし、相手が恋人ごっこをしている後輩だと知るや否や、波多野の中に産まれたのは己を掻き立てる焦りだった。
液晶画面を押して通話を切り、パソコンの電源を落として鞄と上着を乱雑に掴む。
『甘利、帰る』
『え、レポートは?』
『明日やる』
『は?ちょ、え、波多野?!』
たった数分、雨に濡れるだけ。関係ない自業自得と割り切ればそれで良い。今目の前の仕事を放置すれば明日に響く。
それでも、波多野の脳裏に浮かんだ千歳の笑みは、彼を突き動かすには十分だった。
(結果オーライだな)
我ながら大胆な行動をとったと振り返りながら、充実感に笑みは収まらない。
マグカップを手に取れば、揺らめく液体に映る己が顔。随分と気色の悪い顔だと呆れてしまった。
波多野の中に産まれつつある確かな感情。その情動に突き動かされて、今までにはない行動が生まれそして得難い感触に何度も心の臓が跳ねた。
好ましいとお互い感じていることは事実だ。例え先約や仕事で時間が作れない時があっても、必ず埋め合わせの時間を確保する。
会うことが当たり前で、会えないと物足りない。
もはやごっこ遊びの域を超えているにも関わらず、手を伸ばし掴みとるその一歩が足りない。
未だに恋人らしい行為は何1つできていないのだ。抱擁、口付け、小学生レベルの手を繋ぐことだけが収穫だ。
歩み始めていると見せかけて、その場で足踏みをしている現状は何とも滑稽だった。
ーー踏み出せば変わるのか。
マグカップの中で揺れる己の顔に問いかける。
淹れられたコーヒーを飲み込み波多野は徐に立ち上がった。
「どうされました?」
若草色のエプロンを身に付け、小首を傾げた彼女の手の先には香ばしい匂いを放つ牛肉。傍らには刻まれた葉物野菜などが積まれていた。
「手際いいんだな」
「そうですか?友達はもっと早くて上手なのであまり分かりませんが」
むむ、と首を捻りながら焼き目のついた肉を慣れた手つきで皿へと移す。一口サイズにカットされたそれに野菜を盛り合わせ、仕上げに手製のソースをかけるのだろうか。鍋の中にはそれらしきものが見られた。
腹の虫が鳴きかけ、波多野は力を入れて己を叱咤した。
千歳に視線を移せばカチリと合う。同時に、ふと笑みを零した彼女が手にしたスプーンに肉を乗せた。
「波多野さん」
どうぞ、と差し出される。
俗にいう、あーん、だ。そんな擬音は使われないが行為はまさしくそれで、波多野の身体が一瞬硬直する。
ぴたりと止まった波多野を見て、千歳も間を置き自分の行動を顧みたのか見事にその頬が紅潮した。
「すみませんっ」
嗚呼、やはり良かった。社内のデスクに残っているレポート用の資料を思い浮かべて波多野は笑みを深めた。
慌てふためくその姿が何とも言えず、波多野は降ろされかけた千歳の手首をがしりと掴んだ。
え、と間抜けた声が漏れた彼女に御構い無しに、口に含んだ柔らかな感触。
「美味いな」
これは胃袋も掴まれそうだ。
「あの、その…」
「ん?」
「まだ途中なので、もうちょっと待っててもらえますか?」
尻切れとんぼで最後の方は最早何を言っているのかわからないほどの声量。ハキハキとした、社内で見かける彼女の姿とは真反対の、千崎千歳という1人の女性の姿。
ちらりと上目遣いに波多野を見上げた千歳の双眸に思わず身体が動いた。
そ、とその頬に手を添える。
「波多野さん…?」
鼓動の音が響く。無垢な眼差しに全身の血が騒いだ。
理性を総動員して、先の展開を封じ込めようとしたその時だった。
鳴り響いたのは社用携帯。
(甘利か)
けたたましく鳴るその音は甘利からの連絡音だった。
舌打ちしたい衝動は目の前の相貌が目に入り飲み込む。悪い、と一言断り手にしたそれの通話ボタンを押せば、忙しい部署の様子が目に浮かぶ声音が飛び込んで来た。
『波多野ごめん。今すぐ来れる?』
普段はワントーン高く間延びした喋りの甘利が珍しく焦っていた。声の調子から何かのトラブルが起きたことは明白だ。タイミングの悪さに頭を抱える。
取引先との調整か、納品に関するミスか、何にせよ自分が行かなければいけない時でないと甘利は連絡を寄越さない。
苦い顔をした波多野はひとつ息を吐いた。
「30分はかかるからな」
『分かった。気をつけて』
要件だけ伝えてブツリと切れた電話を閉じ、深く重い溜息を吐く。
ーーよりにもよって今日かよ。
空気を読めと再度舌打ちしかけるが、
「仕事ですか?」
台所から姿を見せた千歳にまたもやそれは口の中へと引っ込んだ。
「甘利か誰かがわかんねぇけど、何かでトラブったらしい」
「大変ですね…」
「悪いな、せっかく作ってくれたのに」
「大丈夫です。また作りますから」
また、という千歳の言葉に波多野は安堵する。今回限りではない、という意味に多少なりとも救われた気分になった。
上着を羽織り、カバンを手に取り玄関へと向かう。
「波多野さん」
ドアノブに手を掛けた波多野に彼女が声をかけた。緩慢に振り返り、先の言葉を待てば逡巡した千歳は波多野に柔らかな眼差しを向けて囁いた。
「いってらっしゃい」
もしかしたら、意外と良い日だったのかもしれない。
安易な考えに自嘲しながら波多野は口角を上げて返した。
「行ってくる」
ーーー
留まる現在地