9.懐古する相貌
『君は幽霊みたいだな』

低いテノール音、しかし平坦な声音でそう呟かれた。下へと向けていた視線が自然と上向く。
幽霊、ゴースト。この世ならざるもの。
その存在は不確かで曖昧で、人の深層心理、恐怖が見せる幻という説が学者達の間では定説であるが、大衆には根強くその存在が信じられている。

視線の先、肩幅が広く、程よい筋肉も付いている。顔付きが幼い人間が多いこの学び舎では珍しい年相応の相貌が、千歳をじっと見つめて呟いた。

『幽霊ですか』
『あぁ、幽霊のようだ』
『ひどいですね』

心にも思っていないが。
千歳の平坦な態度に彼はニヒルに笑んだ。

『君の存在は不確かなんだ。此処に在るのは君という身体だけで、その実は何処か別の場所にある』

ツゥと彼の長く骨張った指が、千歳の首元を喉を、陶器のような肌を撫ぜてピタリと顎に添えられる。

『君は何処にいるんだ』

真っ直ぐ己を見据える双眼を、千歳も覗き込む。深く深く、深淵を覗き込み暴かんとする貪欲な瞳に思わず笑みが溢れた。

『さぁ、何処でしょうか』
『君を抱けば、此処に現れてくれるのか』
『抱いたところで現れるのは肉体だけ。貴方の知りたいものは現れない』

ひくりと眉が顰められた。怪訝な顔付きに千歳は苦笑する。

幽霊が人の深層心理が見せる幻ならば、彼は今何の幻影を見ているのか。己を見つめるその双眸が映すのは、果たして本当に己なのか。
そんな不毛な問いに価値などない。

『幽霊を知りたいのですか、貴方は』

その好奇心に意味などない。
小首を傾げ、問うたその言の葉はしかし答えを既に知っている。

彼は、肩を竦めた。

『いや、確かに知る必要はないな』

彼は、彼らは瑣末ごとに囚われない。

千歳は優然と笑みを携え、そうでしょう?、と添えられている彼の手にそっと手をかけた、が。

『……っ!』

刹那、その手首を掴まれ、後頭部に掌を回され、やって来たのは荒々しい口付けだった。

追いつかない思考と震える身体を堪能するように、しかし息つく間も与えない行為に、目尻に涙が滲む。彼より一等小さな千歳の身体はその行為に耐えるためにピンとつま先を立てていた。

時間にしてわずか数秒の出来事だった。

離された唇は糸を引き、視線が絡み合う。眼前のまなこに映ったのは、至極満悦な彼の笑みと、


『嗚呼、これが君か』


暴かれた己の姿だった。


ーー知る必要はない、だなんて嘘じゃない。


じとりと向けた視線に、彼はただ微笑むだけだった。



ーーーーー



嫌な記憶だ。千歳は片隅に置かれていた不要な記憶に、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。不必要で意味のない記憶が呼び覚まされたのは、その相貌が寸分違わず目の前に現れたからだ。


「こちらは、最近僕らの課に出向中の千崎千歳さんです」


蒲生さん、と三好の口から紡がれた知っている名前。
相変わらずの胡散臭い表層に、貼り付けた面にヒビが入らないことを祈った。

「久し振りですね。僕のところにあまり来たがらないでしょう?三好さんは」
「不必要に協力者と会うことに意味はありませんし、その接触は回数を重ねるほど危ういものになりますから」
「つれないなぁ」

くつりと笑うその口元、目元、何もかもがあの時と変わらない。蒲生次郎は変わらぬ姿でそこにいた。
あの時、『千歳』の不意をついてその姿を暴いた獣のまま悠然とソファでくつろぐ彼に、千歳の身体は自然と強張る。

「何をそこで突っ立っているんですか」

鋭い一言に強張った身体が震えた。

「早く座って下さい」

話は山のようにあるのだ、と。トントンとソファの隣を叩く三好に千歳は、現実へと戻る。その仕草に落ち着きが取り戻された。

(狼狽えるな)

此処はあの場所じゃない。あれは、あの時の蒲生次郎じゃない。
緊張の糸が解けた身体が彼の隣へと動いた。



「議員の動向、ですか」
「この議員と首長の何方もが予告を送られています。予算書を見る限り不審な点はありませんが」
「裏がありそうですね。まぁ、地方議会なんて企業や首長との癒着のオンパレードですけれど」
「都議会も似たようなものでしょう。この国において、それがない方が寧ろ異常だ」

軽口を叩きながら話が詰められていく。

三好と千歳が彼の元へ来たのはリストの中にあった議員の交友関係、及び議員と親しい企業関係者との不正取引の有無など、要は身辺調査の依頼だった。

「福祉事業所の新設に関する提言ですか。なるほど、まるっと彼の提言通りに予算が提案されるとは。社会福祉の予算というのは元来通りやすいものですが、まぁキナ臭いことは確かです」
「というと?」
「善行というのは格好の隠れ蓑になります。その裏で何らかの取引が行われる可能性は往々にありますので」

なるほど、と三好はくつくつと喉を鳴らした。千歳は2人のやりとりを眺めながら、徐にペーパーへと視線を落とす。

悪人はいつだって善人の皮を被り、その化け物としての顔を隠している。

(いったい、どんな悪行を積んだのかしら)

膨大な人物名の羅列の中に蠢く闇があるとしたら、この国は実に悪人が住みやすいものだ。
煌びやかな言葉と、歯切れの良い文句を並べ連ねてその実はひどく醜く愚かな事柄は存外今も昔も変わらずある。

国のためと煽ることも、弱者のためと息巻くことも。時代によって、それが正しく正義とされてしまえば、実行する輩の腹の内もその手の内も、何もかもが見過ごされていく世の中だ。

(下らない)

変わることのない国の本質に千歳は嘆息した。

「首長の身辺は此方で洗うので、そちらは議員を。報酬はどうしますか」
「いつも通り、仕事の後に持って来ていただければ結構ですよ」
「分かりました、では。千崎さん」

促すように呼ばれた名に千歳が反応する。ソファから立ち上がった三好が千歳の横を通り抜けて真っ直ぐドアへと向かった。
話は終わりだ。千歳は蒲生に向き直ると軽く会釈し、踵を返した。


「嗚呼、それはそうと、」


ーー千歳さん。


(え……)


その低いテノール音には聞き覚えがあった。千歳の目が見開かれる。

緩慢に振り返った千歳に『彼』は悠然とした笑みを携えた。


「お久しぶりですね」


その言葉は確信めいていた。
久しぶり、と言う言葉は初対面の人間には使わない。そして千歳は、この蒲生と会ったことは一度たりとてない。

つまり、彼はそうなのか。

あくまで平静を装うが、現状を理解できても飲み下せない。
何故、どうして。
立ち竦む千歳に、蒲生はにんまりと笑う。獲物を見つけたと言わんばかりのその色にぞくりと背筋が凍り付いた千歳の様子に、蒲生が笑みを深める。
視線を外すことができず、微動だにしない千歳の隣に立ったのは三好だった。

「お知り合いでしたか?」

怪訝な声で問われ、我へと帰った千歳は瞬時に思考を切り替えた。

「……はい、以前少し」
「別件でお話ししたことがありましたが、覚えておられるか不安で切り出せなかったんですよ」

ーーよく言う。

いけしゃあしゃあと宣う目の前の男に内心苦い思いを抱きながら、千歳はひとつ息を吐いた。
これがあの時代の、蒲生だとして、それが何だ。

鼓動を整え、瞬きの後に浮かべたのは見事な温顔。

「あの時は失礼しました。不慣れなことも多かったもので」
「いえ、此方こそ強引すぎたかと反省しています。何かお詫びをした方が良かったかと気を揉んでいたんですよ」
「お詫びなんてとんでもないです。私が軽率な発言をしてしまっただけなので、申し訳ないのは此方でしたよ」

互いに笑みを貼り付けながら、投げ合うのは棘付きのボールで。
隣の三好に気を遣ることもなく千歳は蒲生に相対する。

しかし、残念ながら千歳にもそして三好にも油を売っている暇はない。

「千崎さん」

苛立ちを含んだ声音が響いた。



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懐古する相貌