13.想ひで
自分は出来過ぎていた。己の存在はいつも完全だった。
三好は一人残された客室でぼんやりと己のことを振り返っていた。
檜の香りが鼻孔を擽る肘掛け椅子に腰掛けて、窓越しに外を眺める。河のせせらぎの音と蛙の声が静かに、細やかに響く中、過去へと思いを巡らせた。

三好は幼い頃から手のかからない、所謂優等生だった。
勉学にもスポーツにも才を示した。芸術、音楽にも造詣が深くなり、余すことなくこの世の知識、見識、凡ゆる『学ぶことのできるもの』を習得して行った。
努力して、ではない。
それが、出来る、ということが三好にとって、当たり前、だったのだ。なんてことはない。ただ見て聞いて学習すればそれで三好は体得ができた。
おまけにこの容姿だ。幼い頃から男女問わず三好はたいそう目を引いた。
くっきりとした瞳、象牙の様に白く瑞々しい肌、赤すぎる唇、怜悧な視線は子どもの時分であっても他者の心を揺さぶるほどであった。
時には色目を使われ、時には真正面から心をぶつけられ、凡ゆる愛と欲望を三好はその身に受けてきた。
とどのつまり、三好は完璧であった。
完璧が故に、退屈であった。

切れ長の眼を更に細めて、三好は窓に反射する己を見つめた。相変わらず己の相貌は見目麗しく、人目を惹くのは頷くことができる。
しかし、どこか釈然としない心持ちを体現しているのか眉間には僅かに皺が寄っていた。目に付くそれに三好は怪訝な顔つきとなるが、更に深く刻まれる皺にひとつ息を吐いて視線を逸らした。

完璧な三好がここ数日振り回されている。
それは、振り回している本人には自覚がなく、己が不必要なほどに振り幅を大きくしている現状だった。
千崎千歳はただの同僚だ。
若手ながら結城理事官の前任、山本部長が率いていたチヨダの作業班として暗躍していた経歴は、なるほど結城理事官が手駒に加えたいと所望する理由としては最もだった。
しかし、三好は解せなかった。
そもそもD課を理事官の直轄の作業班、暗躍する手駒として重宝すれば他の輩は有象無造だ。彼女が優秀とはいえそれは自分達に及ばない自負が三好にも、そして他のメンバーにもある。
確かに千崎千歳は手駒として利用価値は高い、が、絶対の必要性を三好は感じていない。

そこまで考えて三好はかぶりを振った。

(違う)

今は、そこではない。
結城理事官の差配への疑念、彼女という存在を受け入れ難く思っている現状、その元凶は、己の心持ちだった。
結城理事官からの指示で彼女を点検したあの日から、その姿が目に焼き付いて離れない。一挙手一投足に視線が盗られ、特にその相貌を見た時には何故か心臓が大きく波打った。
驚き、そして苦悶の色を浮かべたその姿。他の誰でも心動かされない、ありふれた顔は、しかし彼女だけは違った。

心動かされる事象など、結城理事官に出会った時くらいなもので、三好にとって世界はただそこに在るに過ぎない。
人の心も、思惑も、世の中の流れ、時世、全ては盤上で行われるゲームのようなものだ。何かを動かせば、先の結果は想像に安い。

だからこそ、三好は持て余す感情に頭を抱える。
己の知らない何かを彼女が持っているとでも言うのか。

「馬鹿馬鹿しい」

自嘲し鼻を鳴らした三好は再度外へと視線を遣った。
闇が落ちた田舎町の静寂に音を添える川のせせらぎと蛙の声。
散歩だと彼女は言ってこの中へと足を踏み入れた。

「……本当に何を考えているんだ」

自然と立ち上がった己の足が行き着いたのは、旅館の玄関だった。


ーー


深緑の浴衣は白い肌によく映える。加えて緩慢にカランコロンと下駄を鳴らし、淡い橙色が照らす小道を歩けば、なんとまぁ己はサマになることか。
舗装された一本道の両隣には武家屋敷が広がる。指定文化財、重要文化財となっている屋敷には空間を彩るように格子に風車が添えて在る。
かつては賑やかに人の往来があったであろう町は今や過疎化の一途を辿り、夜が進むにつれてしんと静まり返っていた。

行く当てもなく三好はひとり歩いていた。
散歩に行くと出かけた彼女が一体何処へ向かったのか分からない。にも関わらず三好が外へと出掛けたのは、ただ部屋でひとり腐ることを厭った為だ。
足を動かし、外の空気を吸う方が幾分か気持ちが晴れると思ったのは彼女も同じなのか。取り留めのない考えが頭を巡る。
月明かりのない道は灯篭の淡さだけが頼りで、湿った空気が肌に纏わり付いていた。

無思考のまま足を進めた先、三好はぴたりと止まった。
山間の町は、道を一つでも逸れれば屋敷が並ぶ区画とは別の場所へと出る。
町中の道を抜けたのか、目の前には闇夜の田園が広がっていた。薄明の為、まるで大海のように見える田園はしかし小川のせせらぎと、湧き出でているだろう泉のとくとくとした音によりそこが緑豊かな場所で在ることを認識できる。

細やかな春の音に三好は聴き入った。
ひとり暗闇に溶けたような感覚に浸る。
そんな中、三好はふと視線をスライドさせ、そして、

(……これは)

目を見張った。

そうだ、今はその時期だった。
首都東京、その正に政経の中心とも言える地に居を構え仕事を待つ三好にとって、目の前の光景はあまりに非現実で別世界のものだった。

源氏蛍は日本に生息する蛍の中でも特に多く見られる種だ。水質の良い小川や田園地帯に住み、5月の終わりから梅雨の時期にかけて観賞できる。
ここの地域は水が綺麗でサワガニもよく獲れる、と昼間に子どもが自慢していたのを三好は思い出した。
喧騒と汚濁、人が無限に溢れる土地とは対極にある地だからこその宝に奪われた視線は、ふと、その中で佇む影に遣られた。

「千崎さん…?」

街灯のない闇の中ではあるが、それは間違いなく彼女だった。
散歩だと出て行った先が、まさか偶然にも同じになるとは夢にも思っていなかった三好は、暫しその姿を見つめる。

そして、彼女が一歩僅かに動いた刹那、水田と小川で休んでいた蛍達が一斉に飛び立った。


瞬間、三好ははっと息を呑んだ。
呼吸をすることを忘れてしまうほど息を呑んだ。


ゆらりゆらりと己の周りを飛び交う光のひとつに彼女が手を伸ばす。つん、と細やかにその先へと身体を預けた小さな命に彼女は仄かな笑みを零した。
額縁の中の存在のように、まるで絵画と見紛うばかりの色を放つ彼女の姿。無数の生命の光が周りを飛び交う。

その姿はあまりにもーー

「っ、」

気付いた時には手が出ていた。
三好は弾かれたように飛び出し、彼女の手首を掴んだ。

「……三好さん?」

ぽかんと目を丸くした彼女は、あ、と指先から空へと視線を移す。
闇から現れた人間に驚いた蛍は指先から飛び立って行った。緩やかな時を刻むように、蛍達は静かに弧を描く。
無数の光が闇を埋めていた。

小川のせせらぎが思い出したように耳に届き、三好は現実へと意識を戻した。
視線の合わさった目の前の彼女が見せる怪訝な色の瞳に己が映っている事実に、三好はどこかほっと胸を撫で下ろした。

あまりにも、あまりにも彼女は儚かったのだ。生命の輝きが飛び交うのに対して彼女は儚すぎた。
強すぎる光に照らされた彼女は侘しく笑んでいた。その灯火が、光に飲み込まれ、薄明となっていくよう三好には思われた。
短い命を燃やす蛍達に飲み込まれ、このまま、彼女もまた消えてしまわないか、そんな思考が三好の頭を過ぎったのだ。

なんと滑稽だろう。三好は己に愕然とした。
誰よりも現実を見据え、合理性を追求する自分が、情緒的になり感傷に浸るなど何を馬鹿げたことをしているのか。

「あの、三好さん?」

再度名を呼ばれた三好は思い出したようにその手を離した。
すみません、と一言口早く呟いたものの、居心地の悪さは拭えない。
飄々と掴み所のなく、ニヒルな笑みで相手を見定める。三好自身が演じる、三好という人格に走った歪みに苛立ちが募った。
いったいどうしたのだ、と自問する。

「……すみません。特に意味はなかったのですが、その」

紡ぐべき言葉が見つからず三好は閉口した。
歯切れの悪い己に彼女はどのような反応を見せるか。顔を歪める様が浮かび、顔に影を落とした三好はしかし次の声音に目を見開く。

「ねぇ、三好さん」

絞り出した謝罪の言に、被せられたのはひどく柔らかな声音だった。
響いた言の葉に三好は伏せていた面を上げた。

何度目だろう。
三好は言葉を忘れ、再度彼女に視線を奪われた。

そこに居たのは、ただのーー


「綺麗ですね」


蛍、と視線を空へと移し、辺りを見渡すよう促した彼女は、ひどく人間的だった。
彼女に吊られて、奪われた視線が済んだ水辺を浮遊する光へと移る。
夜のしじまに添えられた生き物たちの声と灯火は、変わらない。なるほど確かに優麗だ。

三好さん、と再度名を呼ばれる。
とん、と一歩二歩畦道を進み、光を纏いながら振り返った彼女は紡いだ。



「『綺麗でしょう?』」



先にある温顔は三好を捉える。
そしてその言の葉は、三好の中の何かと重なった。



ーーー



想ひで