『小田切さんの瞳、好きです』
穏やかな陽の光が降り注ぐ日だった。その陽の光を目一杯浴びて、窓際の木椅子に腰掛けた彼女は優婉に笑った。
自分達と同じ様に何者でもなく何色でもなく触れれば消えてしまいそうな存在だというのに、今目の前に居る彼女は確かに其処で婉然と佇んで居る。
『小田切さんの瞳は綺麗なんです』
スゥ、と目を細めて薄く笑んだ彼女に小田切は語り掛ける。
『皮肉なのか、それは』
自嘲を含めた声音に首を振った。子どもじみている、これでは拗ねた童だ。
自分は化け物で、ろくでなしだ。人として形作られているだけの紛い物なのだ。
何を人のようなことを言っている。
しかし、彼女はきょとんと目を丸くした後、矢張り仄かに笑んだ。
『いいえ』
ふわりと、風が吹く。揺らめいた髪に陽が反射し煌めき、カーテンレースが彼女にかかった。
凛とした声が紡ぐ。
『これは、羨望です』
それは、あまりに彼女に似つかわしくない言の葉だった。
そして、己に向けるにも不適切な言の葉だった。
しかし彼女は微笑むだけだ。陽の光を浴びた玲瓏さは何処か人ではないようで、思わず手を伸ばす。さらりと艶のある髪ひとふさ手に取り、静かに梳いた。
『なら、くれてやる。こんなもの』
交錯した視線。彼女の瞳が瞬いた。
ーーくれてやる。
『俺には、必要ないものだ』
羨望の眼差しを向けられるものなど、必要ないのだ。必要なのは暗く日の届かない孤独と闇。常闇をひたりひたりと歩くための己の矜持。
この髪のように、この存在のように陽の光を浴びるものは存在しなくていい。彼女が焦がれるような存在を自分は演じてはいけない。
しんと静寂が流れた空間を彼女の透き通る声音が歩いた。
『駄目ですよ』
その瞳に息を呑む。
小田切を、その奥の自分自身を見つめる瞳が彼を捉えた。
『それは、貴方のものです』
ーーそれは、貴方なんです。
忘れることのできない、それが許されない。
その瞳は彼が、飛崎、であることを許していた。
ーーー
「足りるのかそれで」
唐突な声に、キーボードを打っていた指が止まった。ちらりと視線を横に遣れば思わぬ人物が千歳を眺めていた。
ひとつ、ふたつ、間が流れる。
パキリ、と口に含んでいたクッキー状の食べ物を折り、千歳は小首を傾げた。
「これですか?」
これ、とは一箱400キロカロリー程度のバランス食品。
こくりと頷いた彼に千歳は改めてパッケージに目を向ける。
足りる、足りないと考えて買ったことはない。そもそも千歳は料理という料理をしない。公安に配属され更に作業班の一員となってからは、一日中の外出から深夜までのデスクワークなど不規則な行動が多くなった。
適度なバランスの食事を考えるという行為すら煩わしい。迅速に栄養を補給できればそれで良いのだ。
結果、手頃な価格で手短に食べられるこの手の食品に手を伸ばしがちになった。幸いなことに身体に不調をきたしたことはない。
「作るのも面倒ですし、手頃で腹も満たされますから問題ないです」
「料理は嫌いなのか」
「嫌い…なのかもしれませんね。時間を取られてしまうので」
傍に立つ男、福本の問いに千歳はストンと納得した。
そうだ、端的に言えば嫌いなのだ。バランスの良い食材、量、彩り、それに思考を割くのなら今目の前にある課題に集中したかった。
変化する今と絡みつく過去、人の思惑から自身の欲求まで、思考を働かせる事柄は枝葉のように幾重にも伸びている。
己の体調管理が出来ていれば、食事という行為は千歳にとって瑣末事だった。
ひとつ、また口に含む。高価格帯のレストランで食べるディナーより、実に有用な食べ物だ。
「そうか」
相も変わらず福本は表情筋をぴくりとも動かさずに呟いた。答えを呑み込んだ様子も見せない彼は一体何がしたかったのだろう。
「千歳ちゃんが料理嫌いだなんて意外だな」
思案した千歳に明朗な声と共に降ってきたのは、人の重みだ。成人男性の体重が頭にのしかかり、千歳の顔は盛大に歪んだ。
「器用そうだから作れるものと思ってた」
「作ることができるのと、作ることが好きなのは違いますから。あと、神永さん退いて下さい、鬱陶しいです」
「なんか千歳ちゃん日に日に俺に辛辣になってない?」
「優しくして徳がありますか?」
平坦な声音に神永はがくりと肩を落とす。頭から離れた重みに嘆息した千歳の目の前に、ひらりと出されたのはA4サイズ一枚刷りのペーパー。
「こっちも捜査は順調に進んでるんだけどさ、調べものをまたお願いしたいんだよね」
ヒラヒラと漂わされたそれを千歳がパシリと掴み取る。
三好と千歳がひとつの班となり、地方議員と首長の同行を調べていたように他のメンバーもそれぞれリストに掲載されていた人物を当たっていた。
神永とペアを組んでいるのは田崎だ。そしてその田崎は現在、
「内偵は田崎が今やってる最中だけど、とりあえず幹部連中の資金の流れを把握したくてさ。公安が確か調べたことあっただろ、あの団体」
未来真教。ペーパーに記された名前は、ここ数年で信者数を増やしている新興宗教団体の名前だった。
千歳は記憶を手繰り寄せた。確かに、四課で資料整理を担当していた中でごく最近見た名前だった。一読した時に見たのは、思想信条と会員数程度で、極左、極右団体などとの繋がりを確認できなかった為、公安内部でも特に取り沙汰される団体ではなかった。
「公安さんでも分からない案件なんだろうからさ、資料提供くらいはお願いしたいかなー」
へらりとした声音に含む愉悦がひどく不快で、それでも、彼の言うことにも一理あるのは否めない。現に、リストに名前があるのだ。
火のないところに煙は立たない。
千歳が一言、分かりました、とだけ告げると神永は至極満足気に笑んだ。
残務処理を済ませた千歳が、当該資料を写し取ったものを抱えて神永の元へと赴いたのは次の日のことだった。自分達も調べることが山のようにあるというのに、無駄に依頼をしてくると嘆息する千歳が足を踏み入れたD課の古びた部屋に居たのは、
「福本さん…と、小田切さんお二人だけですか?」
D課の寡黙筆頭の2人、福本と小田切が仲良く弁当を食べていた。
聞けば、小田切の食への無頓着さを見兼ねた福本が、大した手間ではないからと作り出したということだった。
食材、手間賃として幾らか小田切も払っているということだったが、
「……お母さんみたいですね」
「こんなデカい息子を持った記憶はないな」
「おい笑うな、千崎」
「ふふ、すみません」
まるで母親のようだと笑いを零した千歳に、小田切は不服そうに顔を歪めた。口だけの謝罪を告げ、千歳は弁当の中身を覗き込む。そこには、彩り鮮やかな野菜、タンパク質糖質のバランスなど正に完璧と言える料理が詰められていた。
(流石……)
思わず口に仕掛けた感嘆を飲み込む。千歳の脳裏に浮かんだのは割烹着を身に纏い、手際良く食材を捌く彼の姿で、それは、今ここにいる2人が知らない情報だ。
懐古の念など感じ得ないと思っていたというのに、過去の想い出がぽっと胸に安らかな感情を抱かせる。
「……千崎」
ふと、福本が千歳を呼んだ。
色彩豊かな食材から目を逸らし、彼へと視線を遣った千歳の前に差し出されたのは、赤紫色の大判のハンカチに包まれた長方形の箱。
それはどこからどう見ても、彼らが今食べていたものと同じ代物だった。
「やる」
「へ?」
「どうせ今日もあの固形物なんだろう」
「それはまぁ、そうですけど」
「バランスはこちらの方が良いはずだ」
「はぁ」
話の内容を理解はできるが納得が出来ず、千歳は空返事しか返すことが出来なかった。そもそも何故このような手間を、と疑問が湧き、首を捻る千歳に構わず、福本は半ば強引に弁当を千歳に渡すと食事を再開した。隣の小田切も何食わぬ顔で箸を動かすものだから、これは自分がおかしいのかと千歳が錯覚するほどだった。
「とりあえず食べておけばいい」
眉を顰めた千歳にそう告げたのは小田切で、食べ終わった弁当箱を持った彼は足早に部屋の外へと出て行った。
確かに一理ある。あるものは仕方がない。納得出来ないながらも、現状この弁当を食べてはいけない理由もないわけで、となると千歳の取る行動は限られている。
布を開き、箱を開けばやはりそこに在るのは福本という男の作品で、昔から変わらない彼の特技の一点に見惚れていた千歳は、ひとつのことに気づいた。
「……これって」
芸術作品とも言えるその中に入っていたのは、どれもこれも千歳の好物だった。それも、現代の味ではなく、見る人が見れば懐かしさに目を細めるような品々。
茄子の揚げ浸し、ほうれん草の和え物は確かにあの時、あの場所で見た料理そのもので、箸を手に取り、口に運べばやはり頬が落ちる程の味だった。
「気に入ったか」
緩みきった顔貌に福本が口角を上げていた。
らしくない、と揶揄されるかと、罰が悪そうに視線を逸らした千歳に福本は苦笑した。
「お前の好物ばかりだったろう」
その言葉にピタリと箸が止まった。
(好物ばかりって…)
彼の言の葉が物語っているのは過去なのか。その問いかけは己の過去に向けられているのか。
ジジ、とジャックされた視界はモノクロのあの時と重なり、福本と交錯する。
嗚呼、彼もそうなのかと、その真偽を改めて問おうと千歳は口を開いた。
「……どうして、私の好物を知っているんですか?」
何気なく聞いたふりをしてそれでも声の震えは隠せない。
今のところ、D課の中では千歳と同じ境遇の人間はいなかった。誰も彼も、千歳の過去を知らない。千歳と同じ風景を知るものは居なく、故に過去と今を重ね合わせてしまう千歳の心情は誰1人として理解は出来なかった。
千歳はきゅっと口を結ぶ。
(期待なのか不安なのか分からない)
同じものを見ることができる、それに安堵しているのかそれとも恐れを抱いているのか。
重い瞼の彼の答えを千歳は待った。
「……何を身構えているんだ」
「………え?」
「好物を知られたことがそんなに身構えることなのか、お前にとって」
くすりと破顔した相貌に千歳は目を丸くした。
あの時の千歳を見ていたからこそ知っている事実だとしたら、何故、という問いに対して返ってくるのは決まっている。
福本は今、まるで千歳という人間の今しか知らないような口振りで話していた。
(なら、どうして?知っているからこんな物を)
何故、どうして、と疑問と憶測が矢継ぎ早に頭を過り、閉口した千歳に福本は尚笑みを崩さずに答えた。
「あいつが言ってきたんだ」
あいつ?、とおうむ返しに聞いた千歳に福本は笑みを深める。
口を開いたその先の名前に、千歳は息を呑んだ。
「小田切が言ってきたんだ、お前の好物だとな」
ーー
ご飯の巡り合い