17.結ぶ現在点
一目見て、目を奪われた。
艶やかな髪も、丸い瞳も、彼女を構成するすべての要素が其処にはあった。
小田切の視界に入った彼女は、寸分違わずあの時の千歳だった。
小田切の瞳を好きだと言った、小田切の存在を赦し、飛崎であることを肯定した彼女に再び合間見えたことに小田切の胸は高鳴った。蓋をしていた想いが僅かに溢れ、久方振りの邂逅を噛み締めていた。

しかし、甘利、田崎、神永に絡まれた彼女を見た小田切はその胸の高鳴りを潜めた。

(千歳…)

彼女の視線は決して自分達を見ることはなく、尖った空気の壁はあの時とは違う、今を表していた。
あれは千歳だ、しかし千歳ではない。
隔絶された関係は高い壁となって小田切を見下ろしていた。




「回りくどいことをするんですね」

淡白な声に顔を上げる。人気の少ない庁舎の一角、外光が薄っすらと入るだけの仄暗い廊下の長椅子に座っていた小田切は、肩を竦めた。

「何のことだ」
「私は貴方に好きな食べ物を伝えたことはありません」
「そうだな」
「………貴方もだなんて、思っていなかった」

嗚呼、なんて顔をしているんだ。
そう言葉にできないのは過去の掟に縛られている故か、くしゃりと顔を歪めた彼女に小田切は一言たりとも優しい言葉を掛けられなかった。相応しい台詞を探そうと思案したところでかぶりを振る。必要なのはそんな言葉ではない。

「いつお前は思い出したんだ」
「……中学の時です」
「割と遅かったんだな。俺は小学校の低学年の時だ」

小田切は今でも鮮明に思い出せた。
最初は単なる違和感だった。周りの視線、挙動のひとつひとつを小田切は捉えることができた。周りの同学年の行動の先は全て読める。大人の思考すら理解できる己は常に目をかけられた。凄いね、賢いね。掛けられた賛辞は数知れず、しかし小田切はその全てに作り笑顔で応えた。
進む時間は他人と同じのはず、それでも積み重なった過去がある為、小田切の時間は異様に早く進んだ。
他と違うのはあの化け物の巣窟でも変わらなかった。小田切は化け物になりきれずに結局はその巣を離れ、そして今はその化け物だった頃の名残によって他と隔絶されている。
皮肉なものだと自嘲すること十数年。ここに来てようやく、小田切は自分と同じ或いは近しい存在を見つけることができた。

「嫌だったか?」

ぽつりと彼女に聞く。自分にしては随分と弱い声音だ。情けないと嘆息しつつも、小田切は彼女の相貌を盗み見る。
視線の先、小田切から目線を外した彼女は小声で返した。

「分かりません。どう反応していいか分からない」

戸惑いの色が浮かぶ顔貌は小田切に向けられない。地に向けられ、静かに思案しているようだった。
伝えない方が良かったのか、その方が互いのためだったのかと僅かな後悔が頭を過ぎった刹那、でも、と千歳が彼に顔を向けた。

「隠されるよりは、きっといいです」

嘘のない曇りなきまなこに小田切の目が見開かれる。
この瞳だ。小田切は過去を追想した。
仄かに笑む姿は柔らかな花のようだった。飛崎であることを赦した彼女は小田切の本質を見抜いていた。彼女の瞳は真っ直ぐ、ただ小田切という人間を、化け物のなり損ないを見つめていた。
彼女はあの千歳とは違う。同じ記憶を持っていても彼女と言う存在は現在に生きていて、それは別の者となっている。

それでも、やはりー

(お前は、千歳なんだな)

口に仕掛けた言葉を呑み込む。
重ね合わせた過去を彼女はきっと良しとはしない。それは普段の彼女の姿を見ていれば想像に難くはなかった。
神永との邂逅に見せた芯の凍るような視線、壁を作った話ぶり。
自分達と彼女の間には深い溝があった。対岸には決して踏み入ることのできない、吊り橋すらないためその方法すら見いだすことのできない深い深い溝。
己は己、過去は過去。記憶を共有していても人格は別だと、千歳は今ここにいるただ1人の私だと、彼女の姿はそう叫んでいるようにも見えた。

「……小田切さん?」

思いに耽っていた思考が浮上する。小首を傾げた千歳は丸い瞳で小田切を見つめていた。

「考え事ですか」
「そういうわけじゃない……と言いたいところだがそんなところだ」
「なんですか、それ」

訝しげに眉根を寄せた千歳は嘆息すると小田切の隣に座った。手にした缶に手を掛けて一飲みすれば、小田切の鼻腔を苦い匂いが抜ける。

暫くの間、2人の間に沈黙が流れた。

「私はあの千歳じゃないですから」

どこかツンとした声音だった。冷たさを孕んだ口調に小田切の心臓が跳ねた。
視線だけを彼女に向ければ、彼女は色のない瞳で前を向いている。
嗚呼そうだ、彼女はそうだ、あの巣窟で生きて来たのだ。聡いに決まっている。己の羨望など、見抜いている。
爪先まで一瞬で冷えた身体を叱咤して、小田切は短く、しかし深く息を吐いた。
何を言おうか、何を伝えようか、錯雑とした思考をまとめようとしたがどの選択にも首を振る。どれも正解と言えるか定かではない。

ふと、千歳が小田切を向いた。
その相貌に小田切は目を見開く。
それはひどく真っ直ぐな視線で、あの氷のような視線ではない、寧ろー

「それでも良いんですか」

その瞳は暖かだった。

「私は私ですから、小田切さんの知っている彼女とは別の存在です。それでも、貴方はこうやって接してくれますか」

困ったように、どこか諦めたように、何故彼女がそのような表情をするのか小田切には分からない。
心の奥底では厭っているだろう過去との対比。それでも、その過去があるからこその繋がりという矛盾を飲み込もうとしているのか。

小田切は瞬いて、瞼の裏に浮かんだ『彼女』を見つめた。そうして目を開けた先の彼女を捉える。

「俺の知っているお前は、今ここにいるお前だけだ」
「……あ」
「俺もお前も同じだ。忘れるな」

そう伝えれば、千歳は目を細めて薄っすらと笑みを零した。

絶って結って、解いて紡いでー

過去を絶っても、結いあわされる記憶がある。解いた繋がりは紡ぎ合わされる。
その先にある確かな今を断ち切ることなどできなくても、何よりもこの今こそが現在を生きる自分達の繋がりなのだ。


ーー


結ぶ現在点