18.穏やかな日々
夏の盛り、特に盆の真っ只中の公共交通機関はやたらと人が多い。当然といえば当然だが、あまりの人混みに休日ということすら忘れるほど帰省ラッシュというものは肉体的にも精神的にも堪えるものだ。
外泊願いを提出したのは期限ぎりぎりのタイミング。警察官というものは基本的に管区外に出ることがないが、この時期だけは交代で里帰りをする者が多い。
例に漏れず、千歳も帰省していた。と言っても、時間にすれば新幹線で一時間ほどの距離と在来線を同時間乗り継いだ程度。それでも、コンクリートジャングルと蠢く群衆とは無縁の風景が広がる地域にやって来れるのだ。

キャリーケースを転がしタクシーを止め、更に山間へと向かうこと30分で見えてきたのは田園に囲まれた集落だった。
家の近くまで乗り付け、あとは荷物を引きながら歩く。つい最近アスファルトで舗装された道路は歩きやすかった。
風除けの納屋の横を通り抜け、鼻腔を抜ける乳牛の匂いに懐かしさを感じながら辿り着いたのは、茅葺き屋根の家。

「婆ちゃん、ただいまー」

数年ぶりの帰省だった。


「千歳ちゃん1人で来てくれたのかい、偉いねぇ」
「婆ちゃん、私もう子供じゃないんだから」
「そうかい。でも、婆ちゃんにとっては可愛い孫はいつまでも孫なんだよ」

齢95になろう祖母はいつまでも自分のことを小学生程度の年齢にしか思っていないのではないか。そう呆れつつもその子供扱いがどことなく心を擽る。久しく、子供、として扱われていない分ー寧ろ扱われても困る年齢だがーこの祖母からのもてなしは千歳にとって心地良い、悪くはないものだった。

い草の香りを肺いっぱいに溜め込んで吐き出す。夏草が揺れ、蝉が鳴き、緩やかな時間の流れるこの場所はきっと昔から変わっていない。舗装されていない道は雨が降るとぬかるんで泥がつくが、それはそれで風情があると千歳は思っていた。

「盆に帰省できるなんて珍しいねぇ。仕事は忙しいんじゃないかい?」
「忙しいけど少しくらい休みはとれるよ。最近は来てなかったし、たまにはね」

バケツに水を汲み、用意するのは線香とコメ。
腰の悪い祖母の代わりにバケツを持ち、2人揃って炎天下の中を歩く。道中で出会う老人達は皆、「千崎さんちの…大きくなって」と千歳を見ては口を揃えた。

「帰るたびに言われるね」
「他に言うことがないんだよ。若い子は珍しいんだから」

雑談をしながら着いたのは、村中にある墓だった。
盆。先祖の霊が帰り、還る時期。
久方ぶりの帰省でもご先祖様は許してくれるのだろうかと思いつつ、千歳は水を汲んで墓石にかける。コメを備えて花を整え、ふと墓石に掘られた名前と帰天した日を見つめた。

(……古い、と思えないんだよね)

大正、昭和初期。うんと昔の年もその時代の鮮やかさを知っている身としてはどこか遠くに感じられない。
昭和12年、と書かれている祖父の叔父の帰天日に思い浮かべるのはやはりあの記憶でー

「千歳ちゃん」

祖母の呼びかけに千歳はハッと意識を戻した。柄杓を手に固まっていた千歳に祖母が問いかける。

「考え事かい?」

穏やかな笑み、皺が寄っているが顔立ちの整った祖母の顔貌が千歳は好きだった。

この目の前にいる祖母と千歳は、うんと歳が離れてはいるが千歳は彼女の見て来た色を知っている。あの時代を千歳は思い起こすことができる。液晶画面で見た情報としての景色ではなく、実際にその瞳で見た光景として知っている。
それは、千歳ではないしかし千歳であるという奇妙な関係にも関わらず、それも千歳は知っているのだ。
それでも、人間として生きてきた年数の差なのか、幾ら自分があの時代を知っていても、あの時代から長きに渡り生を紡いできた祖母には敵わない。

彼女の柔和な笑みになぜか形容しがたい感情が溢れた。

「なんでもないよ」

ざあと吹いた風が物悲しかった。



喧騒から外れたこの土地は穏やかな時間が流れている。かつて、戦時中も疎開地になっていたほど昔から田舎町だったということだ。
千歳は村中へと足を伸ばしていた。木漏れ日が落ちる通りを練り歩く。村の中心を流れる小川の側では里帰りをしているであろう子ども達の姿も見えた。ジージーとけたたましく鳴く蝉の声がぼんやりと木霊する。
息を吸って、吐いて、ただそうしてゆっくりと千歳は歩みを進めた。
時間の流れは万物、万人が共通だと言うのに、此処ではどこか緩やかで、なんなら止まっていると錯覚するほどだった。
故に、千歳はいつもこの土地に来るのだ。

(……落ち着く)

行き場のない感情を整理するために。

村の端へと進めた足がぴたりと止まる。眼前に広がっているのは鮮やかな緑の絨毯が敷かれた景色。
田園風景など、ここ数年はコンクリートジャングルに囲まれた生活をしていた為、液晶画面越しにしか見ていなかった。
優しい色合いに千歳は目を細める。夏草が揺れ、風が肌を撫ぜ、木霊する蝉の声に誘われて過去を追想した。


『暑いのは嫌いです』

真っ白なシャツにシミを作って、うんざりとした顔をした彼は珍しかった。化け物とはいえ、猛暑が身体に応えないわけではなく、涼しい顔をしながら内側に熱は溜まる。その熱が臨界点まで来たのか、彼は顔を歪ませてお天道様を呪った。
生暖かい風は余計暑さを乗せていて、唯一視界で涼を取ると言ったら緑豊かな田園程度だった。

あれは任務だったか、それとも何が別の意図があったのか、彼に連れられて彼女はその地を訪れていた。

彼女の視線が彼を捉えて、彼が彼女を捉える。目元が緩む、口角が上がる、そんな誰もが理解できる甘い空気は決して流れない。決して流れるわけはない、がー

『嗚呼、それだ』

じっと、彼女を見つめた彼はその姿を網膜に焼き付けて必ずひとつ瞬くのだ。ゆっくりと瞬く。ふい、と何気なく視線を逸らして、その瞬間長い睫毛と共に目が細められて閉じられる。ひと拍ふた拍、常人ならば分からない程度の僅かな時間、しっかりと閉じてそうしてまた前を見る。
何気ない仕草だ。なんてことはない、言葉で言い表すほどでもない動作。
しかし、彼女の景色に確かにある彼の姿。

その瞳をその姿を、千歳は彼女を通して知っている。
しかしながら、彼女の心内までは分からない。彼女は今どんな表情をしているのだろう。表情筋はどのように作用しているのだろう。

彼女越しに見る世界にいる彼はひどく遠かった。


「……どうだっていいんだけど、ね」

千歳は畦道の小石をたんと蹴った。数度跳ねた小石は田んぼの端に吸い込まれ、たぷんと泥に飲み込まれた。

千歳の記憶にある彼らとの記録。ページをめくって思い起こして、それでもそれは自分の経験でもなんでもない。記憶として見ている、ただそれだけだ。
自分は囚われているのか、と自問したところで答えは出ない。仮に答えが出たとしてもそれが如何程の意味を持つのかさえ分からない。記憶を持っている事実を変えることなどできはしない。

煩悶とする日々に一石を投じた出来事といえば、小田切からの接触程度だ。あれ以来、小田切と千歳は話す機会が増えた。勿論、現在捜査中の案件絡みが多いが、福本が持参する手製弁当を時折仲良く3人で頬張っている。なんだそれずりぃ、と波多野がメインの料理を横取りした際は無言で彼のデスクに大量の砂糖入り缶コーヒーを置いてやった。

「馬鹿みたい」

その時のことを思い出し、千歳はひとり口元を緩めた。
吹いた風が少しだけ心地良かった。



穏やかな日々はいつだってあっという間に過ぎていく。ただ流れ行く時に身を任せた数日は千歳にとって心の休息となった。

「婆ちゃん、それじゃあ行くね」

キャリーケースを転がし、軒下をくぐって日の当たる場所へと足を進める。駅までは歩いてそう時間はかからないが、茹だるような暑さはやはり体に応えそうだと肩を落とした千歳に柔らかな声が掛けられた。

「千歳ちゃん」

振り返った千歳の視線が交錯する。じっと瞳を見つめられ、その意図が分からずに千歳は首を傾げた。

「婆ちゃん?」
「……うん、うん。あのね、千歳ちゃん」

薄っすらと細められた目が、柔らかに千歳に向けられた。

「婆ちゃんには千歳ちゃんが何に悩んでいるかは分からないけどね、きっと大丈夫」
「……婆ちゃん…」
「千歳ちゃんは大丈夫だよ。婆ちゃんはそう思ってる」

嗚呼、やっぱり年月を重ねた人には敵わない。千歳はこみ上げる情動に瞳を揺らした。
きっと彼女は、悩みも、苦しみも、哀しみも、全て体験して体感してきたのだろう。あの時代を生き、その後を歩み、移り行く時を感じてきたのだろう。

沁み行く祖母の言葉に千歳は口元を緩めた。

「ありがとう」

またね、と手を振り歩き出す。
大丈夫。大丈夫。木霊する声を胸に刻んだ。


ーーー


穏やかな日々