1.色付く世界
まただ、千歳は一瞬だけ『見えた』景色に眉を顰めた。
それは、まるで映画のワンシーンのようだった。自分が見ている景色に合わせるように、別の『誰か』の景色が重なり合う。
浅草で、上野で、今まで何度この一瞬に遭遇したことだろう。

(何かで見たのかな)

深層に落ちている記憶を手繰り寄せるように千歳は深く考え込んだ。
行ったこともない所を知っている、なんてことはありえない。テレビ、映画、書籍、何かで得た情報が投影されているだけなのだ。若しくは、物心つく前に父母に連れられて見た赤ん坊の頃の景色なのかもしれない。

考えられる可能性に手を伸ばす。
伸ばした先の光景に首を振り続けた千歳は、手繰ることのできない記憶に、うん、と頷いた。

(まぁ、何処かで見たことあるんだよねきっと)

自分を納得させ、藍色のスクールバッグを抱え直す。
千歳はこの日の一瞬も日常の一部と捉えて頭の片隅に追いやった。
早く行かないと遅刻してしまう。

からりと澄み渡った空色。季節を主張する油蝉の鳴き声。
肌を滑り落ちる汗を乱雑に拭うと千歳は走り出した。




公立のこの中学校にはクーラーなんて物は存在しない。暑さを和らげるために、生徒達は窓と扉を全開にして少しでも風通しを良くする。

真っ白なブラウスには、肌から吹き出る汗が沁み渡っている。下着越しにもペタリと張り付いている箇所に千歳は下敷きで風を送った。
走ってきた為、普段より沁みてしまった。

「千歳ちゃん、今日超セクシーじゃん」

真後ろから届いた声に千歳は気怠げに振り向いた。

「神永君、それいっつも女の子に言ってるでしょ。この節操なし」
「んなことないって。そう思った時しか言わないよ」
「そう思うことが大層多いようですね」

皮肉を込めれば肩を竦められる。

千歳の真後ろの席、教室の端、窓際最後列のその席でにこにこと邪気のない笑みを向けてきているのは、学年一の女好き、神永和夫。
黒の少し抜けた粟色の柔らかな髪、女子のように大きく丸い瞳、女好きと周りに言わしめるその言動とは裏腹に成績は優秀なところが憎たらしい。

息を吐くように女子に甘ったるい言葉を投げ掛ける、そんな神永の言動など聞くに値しない。
千歳はわざとらしくため息をつくと、改めて前に向き直った。




「そんなことないよ、千歳」




ーーなぁ、千歳。




千歳と呼んだその声に、千歳の目が見開かれた。

刹那、脳裏を掠めたのはいつもの既視感ではない『何か』の光景。
男がいる、全ての顔が塗り潰されていて何も見えない。何も分からない顔、顔、顔。その中で響く懐かしい声、所作、誰でもない何かが千歳に笑った。

ぞくりと全身が粟立った。同時に心臓が妙に脈打つ。
いつものじゃない、と千歳は詰まらせていた息を浅く吐き出した。
聞き覚えのある、けれど聞いてはいけない。
神永の声音は、千歳の中の『何か』に触れた。


「……なんてね、ねぇドキッとした?呼び捨て」


一瞬だった。直ぐに、神永の明朗な声が響く。
千歳が緩慢に振り返れば、悪戯っぽい笑みを浮かべた彼がいた。
何事もない、いつもの神永だ。神永和夫は、女好きですという札を貼り付けた表情を千歳に向けていた。

早鐘を打つ心臓を落ち着ける。
千歳はじとりと睨み付けて神永に吐き捨てた。


「馬鹿じゃないの」



ーーーー



千歳の通う中学校は長い歴史がある。明治時代初頭に築かれ、大正、昭和、平成と変遷を経ても尚その場に在り続けている。
そんなこの学校の特徴の一つが、近年建てられたコンクリート3階建ての校舎、ではなく校庭の一角に佇む古びた旧校舎。何でも、大正時代に建てられたという。

普段は立ち入る事のないその建物の中に千歳は居た。

(旧校舎の中に資料があるって、どういう状況なの…)

きっかけは社会科の担当教諭の一言だった。

『旧校舎2階の一番奥の教室に郷土地図の書籍が積んである筈だから、千崎取ってきてくれないか』

今日の日直、これが災いした。
午後一番の授業の為に、旧校舎に積んである郷土資料を取って来い。中堅の担当教諭は悪びれる様子もなく言い放った。言葉としては頼んでいるが、実のところは命令だ。

ギジリと古板が鳴く。長い廊下の硝子窓にはヒビが散見される。まだ日が高く、外光が燦々と降り注いでいるにも関わらず人1人も居ない空間はひどく不気味だった。
かつては此処も賑やかな子供達の声で溢れていたのだろうと過去に思いを馳せても、今目の前に見える景色はがらんと冷たい。

(早くしよう)

陰鬱な空気が漂うこの場所から千歳は早く離れたかった。
一歩一歩ゆっくり進んでいた足がいつの間にか小走りになる。これほど広い木製の建物、ましてや校舎なんて生まれてこのかた足を踏み入れた事がない。
その筈なのにーー


(また、だ)


ザザ、と視界をジャックされたように一瞬だけ見えた世界。千歳は立ち止まり頭を抱えた。
覚えのない色鮮やかな世界は何処で見た事があるのだろう。
見えるのは建物だけではない。時折其処には人もいるのだ。まるで、其処に生きているかのように鮮明な光景は千歳にとって異常でしかなかった。
時折『見せられる』世界。記憶にない世界。


(はやく、此処から離れないと)


長く居てはいけない。
千歳は追いかけてくる情景から走って逃げた。何も考えず、がむしゃらに走る。廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、息つく暇もなく飛び込んだ2階の最奥の部屋。
上がる息を整えて固く目を閉じる。情景を振り払い、ゆっくりと視界を戻らせた。

(もう、大丈夫)

千歳は胸を撫で下ろした。視界は良好だ。見える景色は古びた資料教室だった。
ひとつ大きく息を吐くと、千歳は辺りを見渡した。乱雑に置かれた木製の机と紙の束。埃かぶったそれらとは別に、目当ての物は積んであった。

千歳はゆっくり近づくと書籍を手に取った。郷土地図、と教諭は話していた。ペラペラと数ページ捲ると成る程と感嘆の色を彼女は見せた。
古い資料だった。巻末を見れば年号は昭和初期。
ふと顔を上げて乱雑に置かれていた紙の束を見遣れば、同じような年号の更に郷土の歴史に関する文字が散見される。
あの教師は此処で調べ物をしていたのか、と千歳はこの場所に資料がある事に納得した。

合点の行った所で数冊の書籍を腕に抱えると来た道へ戻ろうと振り返る。
午後一番の授業まで時間はない。加えて、此処に長居はしたくない。

(急がないと)

そう思い足を踏み出した先で、千歳はふと足を止めた。

踏み出した視界の先、古びた時計がひっそりとた佇んでいた。

(古い…旧校舎の?)

止めた足を時計へと向け、千歳はじっくりと侘しく時を刻むそれを眺めた。
硝子部分にヒビが入っているが、鮮やかな赤茶色は色褪せることなく輝きを放っていた。
教師がゼンマイでも巻いたのだろうか、と千歳は時を刻み続ける時計をぼうと眺める。

針が進む。あぁ、もう少しで正午の鐘がなる。


そう、何気なく思っていた。




『千歳』




カチリと音がした。
聞こえるはずのない声が聞こえた。見える筈のない、誰か、の顔が見えた。
硝子越しに反射した自分の顔に千歳は、ヒュ、と息を呑んだ。



『ーーーさん』



千歳が其処にいた。否、千歳ではない、誰か、が千歳と重なった。
カチリカチリと時が進む。
あ、と気付いた時には針が真上を指した。

響く鐘の音が遠くに聞こえる。ゴーンゴーンと時を告げる鐘の音は、その音以外のものを告げた。




(あぁ、そうだ)




告げられる現実は、追いついた情景とリンクした。鮮やかなそれは、確かに其処にあった世界だった。



物心ついた時から芽生えていた既視感。千歳であり千歳でない者が知っている世界。
中学2年、14歳の夏。古びた時計が知らせた正午の鐘がその現実を知らせる。


その日彼女は、彼女という人間を理解した。


ーーーー

1.色付く世界