19.正義の揺さぶり
新聞は社会の木鐸たれ、と言われていたのはいつの時代までだろうか。権力=悪、の構図が大衆受けし出して、メディアの役割は権力のチェック機能なんて言われていた時代は確かにあった。
悪を暴くのは我ら、真実を知るのも我ら、伝えるのも我ら。いつしかそれは、我らが正義、という今でこそ荒唐無稽な馬鹿げた思想へと変容した。錦の御旗を掲げてゴミ漁りをするような行為。

(そんなところで働いている俺も俺か)

喫煙所で目一杯吸った煙をゆっくりと吐き出す。
ふと、視線を左右に動かせば、そこらかしこにいる中年の社員は皆、自分と同じような目をしていた。窪んだ目元、生気のない顔色、澱んだ瞳。

ー嗚呼、嫌になっちまう。

心の中で悪態をつきながら、佐伯省吾は灰皿に煙草を押し付けた。

佐伯の勤める会社は地元ではナンバーワンのシェアを誇る地方紙だった。家庭普及率は8割を超え、他の大手紙からは、あの地域は取りづらい、とボヤかれるほど地元に根付いていた。
何も知らない人間から見たら、そんな地方有力紙の報道記者は華やかな仕事だ。カメラとペン、ノートを持ち取材する姿は憧憬の対象となるかもしれない。

佐伯は乾いた笑いを漏らし喫煙所を出た。

地方紙を問わず全国紙まで、新聞という媒体そのものが今や先細りの業界となっている。業界全体の生き残りが課題という中、大手も地方も関係なかった。
汗水垂らして、休日返上して、足で稼いだネタはいくらほどの価値になるというのか。時には、これだからメディアは、という決まり文句と共にバッシングを受け、言いたいだけの輩に正義ヅラされる。

とどのつまり、どうしようもない業界なのだ。

佐伯は入社した当時から報道部に配属された数少ない人間だった。敏腕記者となる夢を抱き入社してはや十数年。社会、スポーツ担当を経て市政担当になった。ここ2年は、市役所幹部との飲みの席も増え、口の緩んだお偉い方からのネタをこちらも口を開けて待っている状態だった。

(情けねェよなぁ)

もはや笑うしかない。
新聞という媒体の内情を知り、澱んだ空気の中で仕事をする上の人間を嫌という程見て来た。正義のペンを握り、世の悪事を暴き、事実を正確且つ詳細に記録する。そんな、正義の味方、に憧れていなかったといえば嘘になる。入社当初は確かに佐伯も信念に燃えていたのだ。世のため人のため、信念を持った報道記者になると誓っていた。

佐伯はバッグからキーを取り出した。数年前に変えた愛車のエンジンをかけて向かうのは記者室だ。市内の一等地にある市役所、その3階の角部屋に設けられているのは、地方、大手紙に加えた地元民放などのテレビ局の記者に充てがわれた、十数の記者席。顔見知りの職員に会釈しながらドアノブを回した。
しみったれたフロアの個人デスクで作業するよりはマシだと、佐伯は自身のデスクに腰掛けるとパソコンを開いた。取り出した記事用のノートをパラリとめくり、文字を目で追う。
今日の記事は、行政と企業の調印式。よくあるネタだ。昨今この市は社会福祉士事業に関連する覚書の締結をやたらと推し進めている。少子高齢化がそれだけ深刻且つ喫緊の課題なことは重々承知だが、それにしても多い。市民の税金の使い道として、確かに外野から目くじらを立てられることはない、がー

(……見て見ぬフリか)

動かしていた指を止めて、一息つく。大きく息を吸い、吐いても胸のつっかかりは無くならない。
苛立ちを抑えるために佐伯は煙草を手に屋上へと向かった。ドアの近くに設けられた喫煙コーナーに人はいない。どこかほっとしながら、佐伯は一本取り出し、緩慢な動作で火をつけた。目一杯吸い込み、ゆっくりと吐く。
青空に消える紫煙を見つめて佐伯はひとり佇んだ。
自分はまるでこの紫煙のようだ。佐伯は自嘲気味に口元を歪めた。

ゴミ溜めに漂う紫煙は時に飛び火して炎上する。
官製談合のことは風の噂で耳にしていた。いや、風の噂、という曖昧で不確かなものではない。それは明確な言葉として佐伯の記憶にあった。

『ここだけの話ね、佐伯さん』

寂れた飲屋街、行きつけのスナックで社会福祉課長に言われた言葉だった。

『まぁ、つつかんといて下さい。今後のためにも、ね?』

人の良い笑みを浮かべるオッサンだと思っていたがとんだ勘違いだった。その笑みの裏側には計算高い狸がいた。蠢く闇をひた隠しにして男は常に笑みを貼り付けていたのだ。
安物のウオッカを一気に飲む。焼けるような喉が現実を認識させてくれたが、その現実を白日のもとに晒すことを佐伯は躊躇していた。
今後のためにも、ね、だ。今後とは即ちー

ーテメエの今後ってことだろ。

燻る苛立ちを拳に込める。
この男は、本社常務と肝胆相照らす仲だった。腹の底から全てまるっとお見通し。福祉課に取材のため足を運んだ次の日には佐伯は毎度のことのように呼び出されては「佐伯君、まあ良くやってくれよ」と肩を叩かれ牽制球を放り込まれた。叩いた常務の掌は重かった。
地方の新聞社などそんなものだ。ずぶりずぶりと泥沼の中で仕事をこなす内に沼へと自分も落ちて行く。村社会の名残りに甘んじていて、多少の『違反』ならばそれは弾かれても問題がない。大きな流れの中の小さな小石だ。それを小石と判断するのは上の役目。
そして、大きな流れはそれを小石と判断しても『支障がないように』できている。
上も馬鹿ではない。この程度の不正ならお目溢ししてやっても問題ないと判断しているのだ。
そうやって、持ちつ持たれつの関係に縛られたメディアに何の意味がある、と自問しても意味がない。それを決めるのは自分達ではないのだから。
購買者が一定数いるという単純な事実しか現実にはないのだ。

灰皿に煙草の先を押し付ける。雲ひとつない抜けるような青空にも関わらず気分は全く晴れない。
いつからだろう、いつから自分はこんなつまらない人間に成り下がった。目を輝かせて駆け回った時期もあった、夢を抱いた時はあったというのにどうして、と後悔を重ねても現状も現実も変わらない。要は己はその程度の存在だったのだ。つまらない人間だったのだ。
それでも、仕事はしなければ食っていけない。見ないフリをしながら、見るべきものを見落としながら、ペンを握り文字を綴るのが、佐伯に残されている道だった。

深く長くため息を吐き、佐伯は最後の一本に手を伸ばした。

「佐伯省吾さんですね?」

唐突に、背後から聞こえた声に佐伯の心臓が跳ね上がった。確信を持って呼ばれた名前は確かに自分の名だ。
反射的に前傾姿勢をとり数歩前へと足を動かす。此処は屋上だ、普通の一般市民が入ってくるような場所ではない。更に役所の職員で佐伯を知らぬ者はいない。扉から離れた佐伯は勢いよく振り返った。
いったい誰だ、と佐伯は声の主に睨みを効かせた、が、直ぐにその睨みは薄らいでしまう。

「驚かせて申し訳ありません」

そこに居たのは、柔和な笑みを浮かべた年若い女だった。20代半ばか、三十路にはいっていないだろう。陽光に反射する艶のある髪が若さを象徴している。緩んだ目尻が毒気を抜いてきた。

「君は…?」
「佐伯さんにお尋ねしたいことがあって伺った者です」

女の答えに佐伯は眉をひそめる。
職業柄、尋ねることはあっても尋ねられることは少ない。ましてや、ただの一般市民が佐伯個人を目当てに何かを尋ねてくることなど、地域の寄合程度なものだ。
女は訝しむ佐伯に変わらぬ笑みを浮かべて尋ねた。

「最近、キナ臭い事業が沢山あると思いませんか?」

直球の豪速球だった。振り上げたと思ったら、真っ直ぐいつのまにかミットに収まっているほどの直球だった。
動揺が走った佐伯に女は続ける。

「私は少し調べ物をしている最中の者なんですけど、ここの事業がそれに絡んでいる可能性がありまして」

にこり、にこりと花を咲かせているような笑顔だ。邪気などない。今日の天気を話しているかのような笑みに佐伯は震える口角を釣り上げる。

「……どうなんでしょうね。俺にもキナ臭ェことがあったとしても分かりませんわ。俺は一端の記者ですから」

佐伯は肩を竦めた。澄ました顔で明後日の方向を向く。
内心、心臓は早鐘を打っていた。
何故、この年若い嬢ちゃんがそんなことを知っている。何故、それを自分に聞いてきた。

ーそもそも何故、俺がこの場所にいると分かった?

柔和な笑みの裏に何が隠れているのか分からない。それを微塵も見せない隙のなさをその歳で身に付けている技術力が不気味だった。
佐伯達、新聞記者に最も必要とされるのは対人スキルだ。原稿を書く能力は10年もすれば自ずと身に付いてくる。毎日文字と睨めっこをして、他紙と自紙を比較し、言葉を覚えていけば5年も経てばそこそこの原稿は書ける。
だが、対人スキルは持って生まれた性質も相成ってなかなか育ちはしない。情操教育の如何に左右されるものでもある。人の心の機微、欲している言葉、どこまで相手に潜り込むのか、如何に信頼を勝ち得て情報を得ていくのかは一朝一夕に会得できる技術ではなかった。
佐伯が女に感じた底知れなさは、その一朝一夕に身に付かないはずのそれを、既に会得しているだろう佇まいにあった。隙がない、が相手に不快感を与えない。寧ろー

「……君は何者なんだ」

質問したのは佐伯の方だった。
知りたい。佐伯の記者としての魂が擽られる。澄ました顔でやり過ごそうとした佐伯の心は既に彼女に捕らえられていた。
彼女は何だ、何をどこで知った。どこでその技術を身につけた。矢継ぎ早に浮かぶ疑問に答えるように、女は微笑した。

「何者というほどのものではありません。ただ、佐伯さんとお話をしたい小娘ですよ」
「揶揄うのはよして下さい。知りたいのは、さっきのことでしょう?」

スッと目を細めた佐伯に彼女は頷く。そうして薄く口が開いた。

「官製談合」

彼女の言葉に佐伯は、やはりか、と口角を上げた。佐伯の表情に女も目を細める。
佐伯は徐に一本煙草を取り出した。火を付け紫煙を吐き出し、ひと呼吸置く。

「……どこで嗅ぎつけられたかは存じませんが、まぁ、暗黙の了解ってやつですよ」

ざあと吹いた風が紫煙を更に遠くへ飛ばした。目線でそれを追いながら、佐伯は思いに浸る。
煙が飛び火して大火事になれば、不都合は多く出てくる。火のないところに煙は立たないとは言うが、その火すら大火事になるまで悟られないのがこの地域なのかもしれない。

(大火事になったところで火は消える)

そんなことは瑣末なことだと消え去ってしまう。いくら佐伯が奔走しようと、他の誰がその火事を伝えようともがこうと、世間が向ける視線は冷たい。冷たい視線にあてられた佐伯もいつしか冷たくなっていた。内に秘めた熱意、情熱、若さ故の実直さはどこに行ったのか分からない。
吹いた風が物悲しかった。

「新聞は社会の木鐸たれ」

凛とした声に佐伯は目を瞠った。大きく心臓が跳ねる。
懐かしい言葉だ、懐かしく悲しい言葉だ。無意味と誹られる言葉だ。

それは、佐伯がかつて憧れた言葉だった。

その言葉を放った彼女の瞳に佐伯は引き寄せられる。

「その言葉を戯言と切り捨てられないから、燻っていても此処で食らいついている。違いますか?」

真っ直ぐな瞳は曇りがなった。それは、この底知れない交渉スキルを持っている目の前の女に見えた、自我だった。平静を保っていながら、しかし瞳には炎が灯っている。
確信を持った言葉が音が佐伯の芯に届く。心の臓に届いたそれは佐伯の中の熱を上げた。どくどくと血潮の巡りを感じる。
外すことのできない視線に佐伯は苦笑した。

ーああそうだよ。俺は…

「……めんどくせェ人間に捕まっちまったか」

久々だ、この高揚感は。佐伯の胸は高鳴っていた。
佐伯の笑みに、彼女はひとつ瞬き薄く笑みを作る。

「情報提供者のことは口外しません。寧ろ、この案件はもっと大きなネタの踏み台になります」
「……大きなネタ?」
「詳しくはお話しできませんが、そうですね……佐伯さん」

細くしなやかな指先を立てて、小首を傾げた彼女は背後に花を飛ばして言った。


「見返りは、そのネタ、でどうですか?」


抜かりない。こちらを引き込む術を心得ているその顔貌に、佐伯の背筋がぞくりと震えた。


ーー


正義の揺さぶり