「佐伯省吾、38歳。日陽新聞報道部市政担当。独身で趣味は飲み屋巡りと煙草、ね」
「入社当時からの報道部配属で記者としてのプライドがある一方、上層部からの命令には逆らえていないことに不満を燻らせています。突けばコロリと此方に落ちるかと」
「正義感のある漢は良いねぇ、狙いやすい」
警視庁特殊事件捜査部、D課の室内では会議が行われていた。
テーブルには、ある新聞記者の写真と経歴が記されたペーパー。それを手に取った神永はくつくつと笑みを溢した。瞳の奥に光った鈍色に千歳は眉を顰める。
笹島建設が受注した福祉施設建設事業。行政主導で進められているこの事業において官製談合が行われていた実態を掴むため、千歳達が狙いを定めたのは当該地域で有力紙として名を馳せている日陽新聞の記者だった。職業上、行政の表も裏も把握している新聞記者、その中でも適度に染まり適度に燻っている。
佐伯省吾は、まさに取り入るには丁度良い人材だった。
「不正を目の当たりにしながら、糾弾できる立場でもなくその気概もない。典型的な企業人…いや日本人か」
「処世術でしょう。無駄に吠えるより、効果的な吠え方を覚える方が賢明ですから」
「効果的に吠える日は来るのか?牙を研いでもそのままなことのほうが多いだろ」
「違いないな」
無感動な笑いに釣られはしなかった。千歳は、今度は眉間に皺を寄せる。化け物にとって人間のしがらみは取るに足らないものなのだろう。下らない、見下ろした下々の足掻きを話のタネにして笑い合う。そこに下りたとしても、同じ存在には成り下がらない。
人間離れした空気がひどく不快だった。
「それにしても、不正と分かりながら情に振り回されて、それを見て見ぬ振りをするなんてなんの意味があるんでしょう」
理解ができない、と溜息を吐いた実井に神永が同調する。
「まったくな。田舎の連中の胡散臭い連帯感には恐れ入る」
ケタケタ、聞こえる嘲笑に千歳は先日出会った住民の姿を思い浮かべた。
田舎の連帯感、確かにそうだ。彼らは横の繋がりにより互いを監視し合う。人目を気にするあまりプライバシーが守られないなんてことはザラにある話だ。
それでも、彼らはきっとそれを許容しながら、その中での自分達の在り方を、立ち位置を確認して、そして納得して生きている。
思い浮かべた彼らの顔に、悲壮感はなかった。浮かぶ顔貌と目の前の男達の嘲笑はリンクしない。
千歳は一言断りを入れると、その場を離れた。
「浮かない顔ですね」
顔に落ちた影に上を見上げれば、陽の光を背にした彼がいた。
永田町内、警視庁にほど近い閑静な公園のベンチに腰掛けていた千歳に話しかけてきたのは三好だった。珍しい顔に僅かに目を見開くが、直ぐに視線を外に遣る。
蝉の声が遠のき日が経っていた。秋の匂いが僅かに感じられる季節になり、晴天が広がるこの日は散策に出かけている人々を見かける。
「普通です」
道行く人々を眺めながら、千歳はぽつりと呟いた。穏やかな日を表すようにその相貌はみな安らかだ。どこであろうと変わらない豊かさがある。
「神永達の言葉がそんなに気に食わなかったんですか」
「誰もそんなことは言っていません」
「顔が言っています。不満なら、あの場で言い返せば良かったものを」
「……別に不満ではないですから」
ただ、飲み下せないだけだ。
千歳の言葉に三好は肩を竦めた。
「盲目的に他人を信用する人間ではない貴女が、それに囚われる人間の肩を持つなんてらしくない」
随分と買い被ってくれている。千歳は僅かに口元を緩めた。
分かっている。盲目的な信頼は毒だ。それに頼ることは己の頭で思考することを放棄することだ。見るべきものを見ずに、見なくて良いものに目がいく。その繰り返しを彼らは生きてきたのかもしれない。
ーそれでも、
「笑ってしまうのは、哀しいですから」
吐露した生易しい感覚に、三好は何も答えなかった。
自分達が後援した人間、信頼の置ける立場の人間に心酔してしまうのは危険だ。彼らは、今それに囚われているのだろう。
しかしながら、彼らに対して、信頼している人間に疑いの目を向けろというのは酷なことではかった。
社会で生きている限り肩書きからは逃げられない。無職者と弁護士が発信する情報は同じものでも価値が違う。個人に付帯する社会的立場がその人の発言を意味あるものへと昇華させる。故に、首長という立場である限り、かの者に対する風当たりは弱いままだ。
人が社会で生きるためには、信用が必要だ。そして信用を得るためには責任を果たさないといけない。どれだけ高尚な意見があり、人格者であろうと、それを果たさない限り生きることはできない。
胡散臭い政治家ではなく、地元に基盤があり顔の知っている相手ならどのような発言でも信憑性があるし、どのような行為も目の前をすり抜けていく。民衆というチェック機能は役に立たない。
あの人が不正をするはずがない。そして例え不正を行ったとしても、支える覚悟がある。
「一度信用した人間を、人は見放すことができないものです。それは自分自身の否定に繋がる行為ですから」
「愚かですね。自分に自信のない人間の愚行でしかない」
千歳の言葉を三好は鼻で笑った。皮肉に歪められた口元に千歳は目を細める。
「……愚行、ですか」
ぽつりと彼の言葉をそのまま漏らした千歳に三好は眉を顰めた。怪訝な顔つきに千歳は視線を合わすことなく、瞳を伏せた。
愚行、愚かしい馬鹿げた行動。取るに足らない人の情による行為を三好はそう呼称した。
確かに、愚かなのかもしれない。相手と自分を同じ者として捉え、深入りして泥沼にはまっていく。善であれ悪であれ、相手を思う器量も、己を否定する覚悟もないまま盲信する様はひどい醜態であることは想像に難くなかった。
しかし、千歳はそれを愚行と一蹴する三好の言葉に首を縦に振ることはできなかった。
「それでも、人は誰かを信じてしまうんです」
蘇るのは過去の亡霊か。夜の闇をまとった彼が見えた気がした。
人はだからこそ人なのだ。それがどのような結末を導こうとも、どれほど惨めな行為であろうとも、人は誰かを信じることをやめることはできない。
愚行と呼ばれるその行為を絶やすことのできないからこそ、人は人足り得てきたといえる。
己のために他人の為、信用するという心そのものを取るに足らないものと定義してしまえば、いったい何を以て己を肯定すればいいのか。
選び取ったものが無意味で無価値だと認識してしまえば、何を拠り所として生きれば良いのか。
選択が過ちだと認めることは、いつの時代もどんな人間でも、とても恐ろしいことだと千歳は感じていた。
「簡単に切り捨てられるほど、小さいものではないんです、きっと」
脳裏に浮かんだ鮮やかな過去が千歳に笑いかける。
切り捨てられれば楽だ。取るに足らないものだと前に進めたらどれだけ心が救われるか分からない。
ただ、それができた時、千歳は何か大切なものをなくす気がした。
秋をはらんだ風が木々を揺らす。木漏れ日が落ちる地面に千歳は視線を落とした。
「馬鹿な人だ」
言葉の割に柔和な声音だった。呆れたような、そんな含み笑いの入った声に次いで三好は千歳の隣に腰かけた。
「彼らの思いを無下にすることに痛みを感じて、それでも過ちに対して鈍感になっていることを看過することはできない。どちらを取るかといえば、当たり前ですが後者です。神永達の言いぐさはどうかと思いますが、内容は間違ってはいない」
三好の言葉は澱みなく、ただ取るべき選択を淡々と紡ぐ。
分かっている、理解している。そのようなことを理解できないほど、千歳は子どもではない。不正を前に、人情、友情、共感、あらゆる感情は捨て置くものだ。ただそこに、摘むべき芽があるなら自分達は摘まなければいけない。それが、与えられた役割だ。
言い返すことなど何もない。閉口した千歳に三好は、ですが、と続けた。
「―思いというものは、厄介なものなんでしょうね」
三好の言葉に、千歳の心臓が跳ねた。一瞬で世界から音が消え、己が心音がやけに大きく聞こえた。
三好のその声音が、口ぶりが、まるでそう―
(なん…で)
どうして、と目を瞠る。
まっすぐ視線を彼方へと向けて呟いた三好の横顔はひどく美しく、陶器のような肌に落ちる陽の光は淡い。三好の声も、眼差しも、構成する全てが、あの時、あの場所ー
「ーーッ、」
千歳はこみ上げた情動を振り払うように彼から視線を外した。
これ以上彼を見ていたら、まるで自分まであの時に取り込まれる気がした。その横顔に釘付けになった視線から、過去の亡霊が侵食してくる、そんな気配。
今、ここにいる彼は確かにこの時代の彼だ。
それでも、これはいけない。
「千崎さん?」
安じる声がひどく耳障りだった。
「……三好さんにもあるんですか?」
だというのに、何故自分は彼に聞いているのだ。
「…ある、とは?」
「厄介だと思う思いが、捨てきれない、処理できない感情が、三好さんには…あるんですか」
問いかける己の声すらコントロールできなかった。
過去の景色と彼とを重ねてしまい、過去の己も重なってくる。己ではない彼ら、を重ねてしまう無意味で無価値な行為を繰り返す自分がひどく疎ましかった。
曖昧で、不明瞭な感情と感覚に耳を塞ぎ、目を瞑りたくなるのに、目の前の彼にー
(ちがう)
その顔貌に重ねてしまった彼に問いたかった。
千歳の問いに、三好は彼女をじっと見据えた。怜悧な瞳が向けられ千歳は息を詰める。心臓の音がうるさい。全身の汗腺から汗が噴き出していた。
「……あるわけない、と言いたいところですが、そうですね」
視界の端から伸びた影が、千歳の頬に触れた。
暖かい掌は、彼のものだ。
「よくわからない感情というものは、厄介だと思いますよ」
ーそれは、誰の感情?
ーそれは、誰に対しての感情?
声に出したい問いのために口を開けても、音は出てこない。紡ぎたい思いを拒もうとするのは、己かそれともいるはずのない彼女か。
細められた三好の眼に吸い寄せられる。瞳の奥に揺れる感情の正体は何なのか、暴くことなどできはしない。暴こうとすれば最後、彼は旋風のように瞬く間に自分の前から消えてしまう気がした。
風の音も、彼の息遣いも分からない。まるで無音の世界に放り込まれたようだった。千歳の耳には何も届かない。ただ、眼に映る彼の姿に、囚われた。
「み…」
三好さん。その名を紡ぐ前に、頬に伝わっていた熱が遠のいた。同時に、囚われていた彼の視線から解放される。
三好は、千歳の後方へと視線を外した。僅かに上がった片眉に、千歳は振り返る。
「お楽しみ中だったか?千崎」
口の端を上げて近づいてきたのはー
「雪村さん……」
思わぬ人物の登場に千歳は目を瞬かせた。
「……なんでここに」
「外に出たって他の奴に聞いたからここかと思ってな。お前よく来るだろ?特に悩み事がある時」
一歩、一歩近づいてきた彼は2人の前で止まると口元に弧を描き目を細める。
「よく見てますね。私のこと好きなんですか」
「おう、好きだぞー。眼に入れても痛くない後輩だからなー」
「ダウト。誠意の欠片もありませんね」
まったく、と肩を落とす千歳に雪村はケラケラと笑った。
その様を睨め付けた千歳は、ひとつため息を吐いた三好に意識を戻した。振り向けば、ベンチを立った彼は2人を置いて本庁へと歩いて行く。
「帰るのか?」
声を掛けた雪村に、彼は振り向くこともなく答えた。
「お仲間との話し合いだ。邪魔は無粋でしょう」
お仲間という単語。ひどく冷淡な声とその言葉には棘があった。肌を刺す彼の不快感が千歳の心に波風を立てる。ざわりと凪いだ心内はしかし彼には届かない。届けるためには、彼の後に続きもうひとつの、お仲間、の元に行かなければいけない。
それでも、千歳は遠のく背を追いかけることはしなかった。
「悪いな、邪魔して」
「いえ、問題ありません。それに、要件があるからわざわざここに来たんですよね?」
「……まあな」
その背を追いかける前に、やるべきことがあることも千歳は理解している。
己の内の情動など瑣末なことだ。
千歳は雪村に向き直った。視線で促した要件に雪村は薄く口を開く。
「お前のお仲間が内偵している組織にこっちのチームメンバーがいる。共有できるところは、掴んでおきたい、とのことだ。接触日時はヒトヨンマルマル。場所は神保町、地下鉄3番ホームから出て南へ100メートル行った信号を左に曲がった駅ビルに入る喫茶店だ。共有方法は任せる」
指向性を絞り、口の動きすら何処からも判別できない、淀みない指示。さらりと天気の話でもするかのような口ぶりの中に必要最小限の情報を入れ込んでいる。人の良い笑みで飄々と立ち回りながら抜かりがない。
雪村の言葉に千歳は短く頷いた。
ーーー
ひとときの夢