雑踏を抜け、人通りの少ない路地を進み、目当ての場所に着いたのは夕方だった。晴れ空から一転、夜になるにつれて雨雲が西から近づいてくるという予報通り、小雨がアスファルトを叩いていた。ピアニッシモの可愛らしい響きだ。
雑居ビルの一階に入る喫茶店に漂っていたのは煙草の匂いだった。健康被害が訴えられるようになってからめっきり街中で吸う人間は減ったものの、昔ながらの喫茶には分煙スペースを設けていない場所も多い。楽園(ユートピア)を求めて失楽園(ディストピア)に来る人間は存外多かった。
紫煙が店内を霞がからせている。
(嫌な場所を指定してきて…)
千歳は眉をひそめた。
前時代的だ。どうせならどこかのファミレスにでもしてくれればよかったものを、と苦い顔をする。
煙に巻かれる。文字通りの意味を煙草が発揮してくれていたのはひと昔前、昭和の時代、ぎりぎり平成にかかる程度までだ。煙草を吸うことがステータス、もはや日常の一部と化していた時代ならこの匂いをまとっていることの方が相手を煙に巻くには都合が良かった。が、今となってはこの匂いは少々仕事に不向きだ。
眉をひそめた千歳は店内を見渡した。何気ない素ぶりでカウンター席に座るとマスターが間髪入れずに注文を聞いて来た。「ダージリンを」と一言伝えれば、人の良い笑みを浮かべたマスターはすぐに奥へと姿を消した。
それを確認した千歳は水を一杯口にするとひつ息を吐く。徐にスマートフォンを取り出し画面を眺めた。
「……煙草、嫌いなんだけど」
指向性を絞った低い声が向けられたのは、右隣の男だった。背広姿、黒髪短髪の男は僅かに口の端を歪めて、その声に応えた。
「俺には丁度いいんだよ」
愉快げな声音にハルは顔をしかめた。そちら都合で動き過ぎだと嘆息する千歳の横顔を見たのか、男はくっくと喉奥を鳴らす。そのまま、スーツの内ポケットから煙草を取り出すと、これ見よがしに火を点けた。
「性格悪い」
「お互い様だろ?で、そっちはどうなんだ」
尻目に紫煙が吐き出されたのを確認すると、千歳は本題へと移った。
「今は幹部クラスとの接触はまだ。神田の支部長と《黙想》を何回か繰り返しているけれど、まだ時間がかかりそう。そっちは?」
「同じようなもんだな、といってもこっちは本部だけど。とりあえず、リストに上がっている幹部との接触を試みているけど、やっぱ警戒してんのよな。新参信者とは特に関わろうとしねぇ」
「それだけ、あのリストの意味が知られたら厄介なことになるんでしょ。ちなみに、期間はどれだけを想定しているの?」
「少なくとも二カ月、長く見積もって年単位」
「その期間、熱心な信者になるってわけね」
皮肉を込めた声音に、舌打ちが飛んで来た。
爆破予告のリストの中には、新興宗教団体の教祖とその腹心と呼ばれる幹部達の名前も連ねてあった。
未来信教、それが公安とD課の人間が潜入している組織の名だ。D課からは神永と組んでいる田崎が、公安からは今、千歳の隣で苦い顔をしている男がその任を負っていた。
男の名は、橘透。千歳の同期だった。
未来信教は、十年ほど前に作られた新興宗教団体だ。教祖の名前は、加藤博雅。先生と信者から呼ばれている。
教えとして説いているのは、『前世』を起点とした人間創造という摩訶不思議なものだった。
公式ホームページによると、前世における人間行動の記憶を呼び覚まし、断絶した現世との縁を結んだ上で人間を創造する、とのことだ。その縁を繋げ、創造することにより人々を救済する役割を担っているのが教祖である加藤博雅だという。要は、前世で悪いことをした罪過を教祖に診断してもらい、その上で、現世において善行を重ね、新たに自己を創造して救済してもらいましょう、ということだった。
非常に馬鹿げているとしか言いようがない、荒唐無稽な内容ではあるがこれが一定数の人間に信仰されているからこそ宗教法人として成り立っている。現代人の不安病というものは恐ろしいとパソコン画面に頬がひくついたものだ。何に帰依しているのか、相手は人間だろう。
そんな、前世を信じ、教祖に赦しを乞い、善行を重ねる演技を続けなければならない任務に彼は着いている。千歳は心底同情した。
が、彼の口から出た言葉にその同情心は瞬時に霧散した。
「あー、あのさ。ひとつ頼まれごとして欲しいんだけど」
「嫌」
「お、まえなぁ…」
「あんたに依頼された件は大概面倒臭くなるから、嫌」
じとりと鈍い視線を送る千歳に橘は肩をすくめた。渋面を見せる橘に辛酸を舐めさせられた記憶はまだ新しく、千歳は鼻を鳴らした。
革新派の団体関係者の点検を頼まれた時には、張り込みと称してなぜかラブホテルに何泊かした。事務所近くにラブホテルがあったせいだが、お陰で部署内でのあらぬ艶聞が立ち殺意が湧いたものだ。もちろん、団体の幹部が立ち寄る倶楽部や常連となっている店などの諸情報は問題なく掴むことはできたが、自身にかけられた浮名を払拭するのに幾分か時間を要した。
仕事を共にして良かったと思えることなど数える程もないというのに、首を縦に振るわけがないだろうと尖った視線を寄越した千歳に見向きもせず、橘は煙草の先端を灰皿に押し付けた。
「まぁ、ロクでもない仕事だけどな」
へらりと笑う橘に、ほら見ろ、と千歳はツンとそっぽ向いた。しかし、須臾に来たマスターに咄嗟に表層を取り繕う。スマートフォンに視線を落とし、目の端で彼の横顔を捉えると歪んだ口元から愉悦の声が漏れていた。眉根を寄せた千歳は液晶画面と彼に交互に視線を這わせた後、はた、と気付きマスターを見遣った。
「安心しろ。仕事仲間だ」
初老のマスターは橘の紹介に目尻を下げ、会釈した。呆気にとられた千歳はしかし直ぐに苛立たしげに彼の脛を蹴り上げた。勿論、傍目から見れば何をしたか分からない程度の動作で。だが、クリーンヒットしたヒールに橘は盛大に顔を歪めた。
「お、ま…っざけんなよ…」
「こっちの台詞なんだけど?協力者の情報は共有するのがルールでしょ」
「しょうがないだろ。お前がそちらの情報を開示する意思を示すところまでは確認しないと、こっちだって懐を見せらんねぇんだよ」
悪態をつきながらも、橘の声はどこかバツが悪そうだった。
協力者の情報、即ち自分が子飼いにしている人間の情報の共有は同じ任務に就く公安の人間の間で取り交わされる、暗黙の協定なようなものだ。特に、一匹狼(単独行動)な任務が多い公安の人間が他の人間に協力を仰ぐ場合、前情報を提供、共有することは互いの信頼関係の構築の上でも重要なことだった。
橘は、場所を提示した時点ではこの情報を開示していなかった。千歳がD課内の動きを話したことで、情報を開示した。つまりーー
「……あそこは本当に嫌われてるってことね」
「拗ねんなよ」
「別に拗ねてない。仕方ないし」
ーー信用されていない、なんて分かってる。
自分は今、D課の人間だ。D課では独自捜査で得た情報は課内でしか共有されない。いや、課内ですら場合によっては共有されることなく、個々人の裁量に委ねられる場合もある。必要なら開示、必要がないなら口を閉ざす。それがやり方だった。千歳の立場なら、余計にその開示の道は狭まる。そして、古巣からもこの扱いを受けることになる。
千歳は改めて己の立場を痛感させられた。
「それで、内容は?」
先を促した千歳に、橘は「また蹴るなよ?」と一言付け加え、内容を話し始めた。
「銀座の倶楽部に教祖の腹心、No.2に当たる男が出入りしている。身長は175程度の痩せ型。気味が悪いくらいの狐目が特徴。本部では誠実な人間で通っているが、中身はとんだ色狂いだ。倶楽部で適当な女を漁っては、ホテルでしけ込んでるって話」
「俺もお供したいくらいだ」と嘆息した橘は、眼を眇めた千歳に冗談だと弁解した。尖った視線を崩さずに、千歳は「で?」と先を促す。
「色狂いな一面の写真でも撮ってゆすれば口を割るんじゃないの?」
「ただホテルに入る程度の写真じゃ動かねぇよ。黙想だとでも言える。確実に写真に収めるならベッドインするところなんだが、倶楽部の女連中は使えない。上客の情報なんざ吐かないからな」
ということは、既に倶楽部の女性には接触済みかと思案した千歳は、再度生暖かな視線を向けた。その視線に橘がへらりと笑い、「仕事だよ、仕事」ともはや弁解をする気もないのか、肩をすくめた。
千歳はひとつ息を吐くと、気怠げな声を出した。
「要はそいつに取り入って証拠を掴めばいい……だけじゃないでしょ」
篤実で知られている男の下劣な一面。ゆするネタとしては十二分に価値がある。が、おそらくそれだけでは足りない。
それを理解しているのか、橘は渋い顔をした。
「リストの内容とまではいかないが、金の回りを把握できる情報が欲しい。教団の経理はそいつを含めた何人かで管理をしている。ただ、吐かないなら写真だけで充分だ。必要以上に深入りするなよ」
「必要以上って?」
「とぼけんな。自分の身は大事にしろ、てことだ」
「こんなこと頼んどいてよく言うよ」
苦笑を浮かべた千歳に橘は先ほどまでの軽快な口調を納めた。顔に影を落とし「悪い」と低く呟いた彼に、千歳は可笑しそうに喉を鳴らした。
「よしてよ。こういう訓練も受けたから、平気」
現公安部長、山本がチヨダの理事官を務めていた頃、千歳は訓練と称して歓楽街の倶楽部でひと月ほどだが嬢として働いていた。勿論、年齢、経歴などは一切偽装し、完全なカバーストーリーを演じた。酒が入った男達は下卑た話と視線を向け、女はそんな男達を手玉に取り、財布の紐を緩めていく。淫靡な視線と色の乗った声で男を誘い、結んだ唇を解いていく作業自体は至極単純なものだった。
使えるものは使え。
自分の価値を見極めろ。
己の矜持さえ保っていれば、千歳はどこまで身を墜としても構わないと思っていた。
平坦に答えた千歳に、橘は半分ほどになった煙草を灰皿に擦り付けると徐に口を開いた。
「なぁ、千崎。運命って信じるか」
「……なに、藪から棒に」
訝しむ千歳に、橘は「まぁ、聞けって」と続ける。
「俺さ、なんとなく今までやって来てたんだよ。高校も大学も適当に過ごして、適当でも此処に入るくらいは優秀だから調子乗るじゃん?」
「自分で言う?それ」
「まぁまぁ。それは置いといて、さ。俺はまぁ本当に適当に過ごしてたんだけど、此処に入ってようやくみつけたんだよ」
ーー自分の生きる意味。
歯が浮くような台詞だった。思わず千歳も目を丸くした。
それでも、当の本人は至極真面目に宣うのだから、それは本心なのだろう。
「だから、さ。お前が此処にいて、俺がこれを頼むのもどっかに何かの縁というか、運命があってこうなったと思うわけ」
「……ちょっと、言ってる意味がわからないんだけど」
「要するに、だ」
伸びた掌が、千歳の頭に乗せられた。
「お前が『嫌なこと』をする前に、終わらせてやるから」
たっぷり三秒は使っただろうか。千歳は動きを止めた。否、状況把握に時間を要した。状況と言葉の意味を把握した時、ようやく千歳は彼の掌を頭から退けた。
「……キザ過ぎて笑えない」
「……お前、なぁ…人の渾身の優しさを…」
「でも、ありがとう」
ツンとした声で、聞こえるか聞こえないかという声量で。それが、千歳が彼に言える精一杯だった。
彼なりに千歳の身を案じていることは明白で、この軽薄で終始ヘラヘラとのらりくらりと立ち回る男にしては、存外真面目な言葉だったのだ。
礼の一つくらい、悪くはないと思った。
千歳の言葉に一転屈託のない笑みを見せた彼に、千歳は、ただ、と付け加えた。
「運命なんて、信じないよ。子どもじゃあるまいし」
肩をすくめた千歳は、口元を歪めた。
「赤い糸とか、縁とかそんな不確かなものあるわけないじゃん」
「まさか、本当に信じてるの?」
そう、嗤って彼を見遣った。
返ってくるのは、あのへらりとした軽薄な笑いだと思っていた。
しかし、予想とは裏腹な顔に千歳は言葉を失った。
「信じてるよ」
漆黒の瞳が、千歳に向けられていた。口元は緩んでいるというのに、どこか真に迫った声音だった。
千歳に返ってきたのは、ひどく真摯な瞳だった。真っ直ぐで、嘘偽りのない瞳に、千歳は目を瞠った。
なにそれ、と千歳から乾いた笑いが漏れた。一笑に付してやりたかったその言葉をそうできなかったのは、やけに同期の顔が神妙だったからだ。何故だか、その顔から目を離すことができなかった。
本来なら、今これは、接触することすら憚られる状況だ。だというのに千歳は彼と視線を合わせ続けた。
運命、その言葉は呪いのようだった。決定付けられた宿命、運命(さだめ)が本当にあるのか。そんな糸が、意図が世にあるとしたらと考えたところで千歳の脳裏にフラッシュバックしたのは、あのモノクロの世界と顔のない化け物達と、漆黒の、魔王だった。
操られる、その暗闇から伸びる糸に。手繰り寄せられて、またーー
ぞわりと背筋が粟立った。
すべてが、決められた路レールの上だったら、と一瞬でも考えてしまった。
千歳はせり上がった不快感に、顔を背けた。
「……馬鹿じゃないの」
俯いた己の口から漏れたのは、冷笑だった。言葉が向けられたのは彼か、己か分からない。「千崎?」と眉根を寄せた同僚の顔すら見ることはできなかった。
ただ、千歳はきつく唇を結んだ。
運命なんて、あるわけない。
そんなもの、あっていいはずがない。
そんなものーー
「……信じられるわけ、ないじゃない」
紡いだ言葉に綴ったのは、ひどく鬱屈した思いだった。
接触を終えた千歳は店を出ると、真っ直ぐ来た道を戻らずに狭い路地へと入った。入り組んだ道を曲折し、行き着いたのは雑居ビルの裏手、人通りなど皆無のゴミ捨て場だった。四方をビルに囲まれ、どん詰まりとなっているその場所で千歳は空を見上げた。
雨の予報通り、厚い雲が空を覆っている。先ほどまでの小雨が一時的に止んでいるが、この分だともうじきまた雨音が木霊するようになるだろう。
千歳は、後ろを振り向いた。
「……で、まだ何かあるの?」
ビルの端から姿を現した同期に、ため息交じりに千歳は問いかけた。
店を出る直前、マスターにも聞こえないような声量を彼は千歳にかけた。「店を出たらここに来い」とスマートフォンに届いたのは位置情報。
こんな辺鄙なところに何の用だと眉をひそめた千歳に橘は肩をすくめた。
「少し、な。あそこだと話しづらかったから」
「聞かれたくない話?なに、あれ以上に明け透けな話題なんてあるの?」
諧謔気味にそう釣り上げた千歳の口の端が、彼の相貌に固まった。
「もう一つ、言いたいことがあってな」
曇天を背に彼はどこか物憂げに千歳を見つめた。いつもの軽薄な顔つきはどこへ行ったのか、常とは違う同期の顔に千歳の胸が騒つく。
「なに…?」
「無理だけはすんな」
「……それ、さっきも聞いた」
「それはこっちの任務のことだろ。俺が言ってんのは今の場所で、てことだ」
心臓の音がうるさい。彼の言葉の意味を理解したくなかった。
「どういう」
「D課とこっちの板挟みになるな、て言ってんだよ」
千歳の言葉に被せるように、橘は声を重ねると彼女と視線を合わせた。逸らすことなど許さないというように、しっかりと見つめた。
隠すことも、仮面を被ることも、そんな隙などない瞳に千歳は口ごもる。
「いみ、わかんない」
「俺が言えた義理じゃねえことは分かってるよ。実際、俺は公安の人間として動いてるし、お前んとこの奴らには何回か苦い思いさせられてる。だから、」
「馬鹿じゃないの。同じ警察でしょ。板挟みとかないから、余計な心配はいらない。必要ない」
「千崎」
「仕事するだけだから。何も不安材料なんてないし、頼まれたことは必ずこなすから、だから」
「千崎!」
空を裂いた声に、びくりと千歳の身体が震えた。
千歳はそのまま、地面に顔を向けて低く、か細く声を漏らした。
「……別に、いいから」
ーー大丈夫だから。
それは、自分に言い聞かせたい言葉だった。
ずっと、心のどこかにそれは暗雲のように立ち込めていた。
追い縋る過去、リンクする現在(いま)、彼らとの邂逅が運命なら、なぜ自分だけ公安にいるのだ。
繋がりを持った人間から離され、運命の糸で結ばされたもう一つの縁に捉えられ、解くことのできない彼の者の意図がまとわりつく。
何故、と疑問に思っても意味がないことはわかっている。
それでもーー
(どうして…)
ーーどうして、私はここに居るの。
いもしない神に問いたかった。
曇天が雨を呼ぶ。
雨粒が空からひとつ、ひとつ落ちて、頬を伝って、地面を千歳を彼を濡らしていく。
雨音が心の嘆きを掻き消すように、徐々に大きくなる。
落ちる雫は、何なのか。
漏れる声は、何故なのか。
身体に感じる温もりは、ただ千歳の心を包んだ。
―――
21.雨に濡れて