22.遠のく劣情
雪が降っていた。移り行く景色は銀色に輝いていて、白銀の世界は彼方まで続いていた。汽笛を鳴らして目的地まで走る列車内で、自分は窓の外に広がる雪景色を視界の端に収めながら新聞を広げていた。紙面に敷き詰められていたのは日本語ではなくドイツ語だった。
あれは、いつのことだ。何処へ向かっていたのか。何をするために、何故、どうして──
手繰り寄せようとする糸はいつも途中で切れてしまう。ぷつんと無情に切れたその先に触れようとすると胸には鮮烈な痛みが蘇った。
何の痛みだ、誰の痛みだ。
思考しようとすると頭の片隅に靄がかかったように景色が霞む。その光景が遠のき、先ほど見た景色が記憶から薄れた。遠のく意識の先に大切なものがある気がするというのに、思い出すことができない。

(たいせつなもの…)

そんなものが自分にあるのか。自問しても返ってくるのは肩を竦めた己だけで、その姿に思考が振り回される。
何か、大切なもの。何か、大切なこと。
大切な──

(……人?)

刹那、身体を貫くように鋭く激烈な痛みが胸に走った。じわりじわりと身体を侵食していく痛みに顔をしかめながら、何故だろう、それでも己は充足していた。
この感情は、この感覚は、この景色は何なのか、分からない。





「……またか」

朝、目覚めの悪さに三好は頭を抱えた。掌を額に乗せてひとつ嘆息する。横目で時計を確認すれば、いつもより30分ほど遅い起床だった。体内時計は狂うことなく常に同じ時間に起床する三好にしては珍しいことで、しかしその体内時計の狂いがここ最近は増えてきているように感じられるほど、このズレは大きくなっている。

あの日から、三好は同じ夢をよく見た。

夏と秋の境目の時期、庁舎近くの公園で憂いた影を落としていた彼女とのひと時。信じることを止められない、愚かで馬鹿げた行為を続けてしまう人の性質を彼女は一笑に付さず、むしろその行為に欠片ほどではあろうが同情心を抱いていた。細められた瞳がどこか遠くを見つめて、微笑み言葉を紡ぐ唇が佗びしげに結ばれる。
彼女の横顔に三好は胸に奥から迫り上がる感情を覚えた。寂寞を感じている、そんな彼女に触れたいと、三好の中の何かが叫んでいた。
厄介な感情に振り回され、手を伸ばしてその頬に添えれば、彼女は驚き息を呑んだ。その相貌が三好の中に充足感を産んだ。

触れた頬が暖かく
見つめる双眼が心地よく
できれば、このまま──

そんな邪な考えが三好の中に過ぎった。らしからぬ思考は彼女の同僚により四散したが、それで良かったと、今となって、三好は思っている。
外部からの強制的な遮断がなければ、おそらく自分はあのまま彼女に触れようとしていた。
三好の中に湧き上がった堪え切れない情動は脳からただひとつの指令を出していた。もっと多くの顔を彼女から引き出し、その心に触れ、感情を取り込めと、体を支配した信号に為す術もなく三好の身体は動く。思考を幾重にも伸ばして合理性、論理性を基に選択を摘み取る三好らしからぬ行動に三好自身が困惑していた。

三好は掌を顔に押し付けると大きく溜息を吐き、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏に蘇るあの日は、既に2ヶ月も前のこととなっていた。その間、何度も同じ夢を見るのだ。
異国の地で列車に乗り、何処かへ行こうとする。しかし何処かは分からず、それ以上の何かに触れようとすると胸に激烈な痛みが生じる。その痛みに顔を歪めながら、何故か自分は心が満たされていくのだ。そして、走馬灯のように何処かの景色が過ぎ去っていき、やがて霞がかりながらも人影が三好に微笑む。
何の暗示かも分からないこの夢を三好は幾度となく見ていた。これほどまでに同じ夢を見るのは経験のないことで、ここ数ヶ月の自身の行動を鑑みてもこれといった原因が思いつかない。強いて言うなら、彼女の存在そのものだと言える。

──馬鹿馬鹿しい。

湧き上がった苛立ちは拳に込められて布団へと押し付けられた。
好意でも抱いているといのか。劣情に囚われているというのか。
彼女はただの同僚でそれ以上でもそれ以下の存在でもない。仕事仲間、それだけの女だ。夫婦や恋人を演じようとも、それはただの偽経歴。そこに価値は見出されない。

──三好さんにもあるんですか。

それでも、あの相貌を記憶から消すことも、片隅に追いやることも三好にはできていなかった。儚く佗びしげに、どこか乞い願う切ない顔貌が三好の胸を締め付ける。
処理できない感情が、身体を動かす事実に三好は翻弄されていた。





「最近眠そうだが、大丈夫か?」

昼食を取っていた面々の内、小田切が千歳に声を掛けた。長テーブルを囲んでいたのはD課の数人で、千歳はというと個人のデスクでパソコンを前にゼリー飲料で栄養補充をしながら何か思案をしているようだった。
小田切の問い掛けに気怠げな視線が一瞬向けられ、直ぐに逸らされる。眉を潜め、案じる様子を見せる彼に千歳は平坦な声で返した。

「問題ありません。そんなに眠くないです」

空になったゼリー飲料をゴミ箱に投げ入れて、ディスプレイを見つめながら指を動かす。

「……覇気のない声で言われてもな」
「もともとこんな声です」
「食も細くなった」
「そうですか?」

小田切を援護するように口を開いた福本に、千歳は尚、声音を崩さずに答える。その間もキーボードを打つ音は一定のリズムを刻み、彼女の視線は液晶画面に向けられたままだった。
閉ざした会話をこじ開けるように、千歳と画面の間に缶コーヒーがねじ込まれる。

「ウダウダ五月蝿ぇよ。自分の顔見てから物は言え」

「隈できてんぞ」と目の下を指した波多野は視線を自分に移した千歳に半ば強引に缶を押し付けると手をヒラヒラと振って室内を出て行った。
千歳の前に置かれたのは缶コーヒーではなく野菜ジュースだった。
妙な優しさなのか、千歳は手を止めると無言で蓋をあけて口をつけると一気に喉へ流しこむ。空になった缶をデスクに置くと、天井を見上げてこめかみを抑えた。鈍痛が一定の間隔で走り、長く深いため息が出た。
確かに、少し身体が堪えている。
体の不調に自覚がないほど千歳は己の状態を把握できないわけでさない。自身のキャパシティと現実の仕事量を統合して考えれば、自ずと今現在の自分の状況を俯瞰することができる。
自分の身体は悲鳴を上げている。それは、理解している。
しかしながら、納得してはいけない。

「大丈夫です。倒れるほどではないですから」

躓くわけには、いかない。それを悟られてもいけない。
銀座の倶楽部への潜入捜査は深夜帯だ。昼はD課として動きながら夜は古巣の手伝いをするダブルワークに彼らも薄々気づいてはいるだろうが、特段口出しをしてはこなかった。個人行動の多いD課と公安はこのようなところで妙に気があうのかも知れない。
千歳にとってそれは僥倖であった。
ただ、それでも目に余るほど今の自分は疲労が蓄積しているからこそ、周りから声がかかったことも理解していた。

「倒れる前にひと休みしろ。そのままだと作業効率が落ちる」

バタン、と無情に閉じられたPCに目を眇めた千歳の眉間を小田切が小突く。

「無理をされて困るのは此方だ」

有無を言わせない声音に、千歳は視線を落として逡巡したが、そろりと小田切に視線を移すと短くため息を吐いた。
彼の言うことは間違っていない。有事に使い物にならなかったら、迷惑を被るのは同じ部署の人間だ。
千歳はパイプ椅子を引いて立ち上がると、「少し休みます」と彼らに背を向けた。向かった先はD課員の仮眠室。普段は神永、甘利あたりが惰眠を貪っているが、部屋に入ると、珍しく二人とも外出中のようだった。
室内にぽつんと置かれた丸テーブルの両脇に、人1人が横になることができるソファが備え付けられている。千歳はソファにもたれると、ズルズルと上半身を柔らかな布地に落としていった。身体を休めることで思考が微睡んでいく。

(駄目、だなぁ)

覚醒していたはずの意識は直ぐに深淵に飲まれていきそうで、その事実に自嘲する。
深い眠りにつくのは毒だ。それは、どこかで自分が此処に安堵していることの表れで、そんなものを認めるほど千歳の心は絆されてはいない。
意識の落ちる最中で、ふと誰かの掌が己に触れた感触がしたのは、夢だったのだろうか。



「随分と無茶をしているようだな」

仮眠室のソファに横たわる千歳の隣で同じソファに腰を下ろしていた神永は、壁に背を預けて此方に身体を向けている同期に語りかけた。「何がだ」と尖った声音で返す同期にくっくと口元を歪めると、傍に視線を落とす。

「昼も夜も大変だってことさ。あとは、此方と彼方を行き来するのも、振り回されるのも、何もかもだな」

「まぁ、そこが可愛いところだが」と艶やかな髪を梳くと、僅かに声を漏らして彼女が身を捩る。それでも、起きる気配のないという事実に神永はどこか満足感を覚えた。
無防備だ。常に気を張り一線を保つ女の、甘く繊細で、脆い一面が曝け出されていると思うとつい彼女を弄る手を止められない。梳くたびに身動いで、それでも深い眠りに落ちている彼女に自然と口角が片方だけ上がる。
ツツ、とそのまま肩に降りようとした指先を止めたのは、先ほどまで壁に背を預けていた同期だった。

「どうした、三好」

態とらしく惚けてみせれば、その相貌は盛大に歪んだ。瞳の奥に見える不快感は隠されることなく神永に向けられている。

「お前、何を考えている」
「何って?」
「彼女に近づいて、何を企んでいる」

ぎちりと手首を締め上げられたにもかかわらず、神永の顔から愉悦の色は消えない。むしろ、三好の顔貌に嬉々とした表情を見せた。

「近づく?同僚以上に千歳ちゃんと仲良くしてはいないぞ。むしろ、お前の方が親しいだろう」

絡みつくような視線で三好を見つめれば、三好の端麗な顔が歪み、眉間に皺が寄る。

「随分と入れ込んでいるじゃないか。初めは公安の犬だと毛嫌いしていたお前が、彼女の身を案じて顔を覗きに来るなんて」
「勘違いをするな。お前がここに入ったから、万が一が起こっても面倒だと思っただけだ」
「万が一、ねえ」

はん、と鼻を鳴らして神永は三好の腕を振り払った。

「それは、俺じゃない。お前だろう」

眇めた目を向ければ、怪訝な顔が返ってくる。何を言っている。そう問いかける相貌に神永は視線を外して彼女を見下ろした。
県外への視察任務が終わってからと言うものの、彼女と三好の関係に変化が生じていた。恋人という偽経歴(カバー)で件の首長の周りに探りを入れたあの一件から、特に三好から彼女への態度は軟化した。一匹狼な性質が課の中でもとりわけ強い三好が、何故か彼女を視線で追うようになった。その表情には綻びが生じるようになった。ポーカーフェイスが売りのあの三好が、だ。
とりわけ、彼女の《仕事》が増えて以降、その鉄仮面にヒビが入る回数が格段に増えた。
夜半になると夜の繁華街に消えて行く彼女の姿を課員の幾人かは目撃している。それが、どのような用向きであるかは彼女の古巣を鑑みれば自ずと見えて来る。
田崎が潜入している宗教団体、未来信教には、公安の若手捜査官も入り込んでいる。
その事実はD課でも周知されていて、さらに言えば、捜査官と彼女が同期であり旧知の仲なことも把握済みだった。

「まぁ、お前の前に食われる可能性はあるがな」

くつりと喉を鳴らした神永の視線は千歳へと落ちて、警戒心が露ほどもない寝顔を瞳に収める。無垢とも言える寝姿にざわりと神永の胸に昂揚感が芽生えた。

──いっそのこと、食われる前に。

どくどくと血潮が騒いだ。

夜の街で、対象と接触している彼女の仕事が容易にはいかないことは、彼女自身がよく理解しているだろう。接触している相手、未来信教のNo.2の幹部、熊谷修は警戒心の強い男だ。簡単に己の手の内を明かすはずもなく、であるからこその現在の地位なのだ。
生半可な探りでは情報は掴めない。懐に入り込んだ後の一歩はきっと必要になる。その時、彼女は迷いなく全てを利用して男の口を軽くさせるだろう。
心は鋼であっても、身体は柔い女のそれだ。
舐られる運命を座して待つくらいなら、その前に喰らってやるのも悪くない。

「……冗談だよ。そんなに睨むな、三好」

射殺すような視線が肌を刺し、思わず吹き出しかけた口元に弧を描く。神永の視線は愉悦に染まり、細めた目で見遣った先の三好がひくりと眉根を顰めた。
隠すことのない憤りと不満、溢れる苛立ちがたいそう愉快だ。
もし、彼の前で彼女が喰われたら、或いは喰ってやったらどんな表情を見せてくれるだろう。自分と同じ、化け物じみている能力を備えた彼に生まれた唯一の綻びがひどく愉快で堪らない。
「邪魔したな」と、ヒラリと手を振った神永がその場を後にする。寝入る彼女から離れて三好の傍を通り過ぎ、ドアノブに手を掛けた刹那、「神永」と三好の制止がかかった。

「……万が一、を起こすなよ」

再度の警告に思える言葉だったが、声音はやけに冷静だ。平坦に釘を刺した三好の声は先ほどまでの感情に囚われた男のそれではない。
ひどく、冷たい言の葉に神永の口元が歪む。
無言で締められたドアは何も語ることはなかった。



22.遠のく劣情