25.見えない顔
奇人変人の巣窟、社会不適合者の掃き溜め、ろくでなしの住処。
警視庁特殊事件捜査部、通称D課。公安部でも、その存在は設立から一ヶ月あまりの間、認知されることはなかった謎多き部署。聞くところによると、課員の経歴の一切は黒く塗り潰されているらしい。庁舎内ではD課の存在すら知らない人間も多く、ましてや面が割れているなんてことはほぼない。知っているのは上層部の人間でも一握りで、公安部の中でも接触が多いのは、『出向中』の四課の巡査、千崎千歳、ただ一人。それも、かなり異例の人事だった。

終電間近の地下鉄に飛び乗り、乗り継いで戻ったのは自宅のアパート、ではなく室内灯が点在しているのが確認される本庁だった。橘は、重い足取りで裏門を潜るとフロアへと戻った。数人の同僚が死んだような目を液晶画面に向けている。件の事件の捜査報告書が追いつかないとボヤいていた。

「おかえりか」

背中のザックを椅子に置いたと同時に耳に届いた声に、橘は扉へと視線を転じた。
腕を組み、壁際へ身体を預けて立っている男はどこか疲れた様子で橘に笑みを向けている。
橘は視線を逸らし、沈痛な面持ちで口を閉ざした。

「……少しいいか」

男、幸村からの遠慮がちな提案に橘は小さく頷くと、同僚を尻目に仮眠室へと向かった。幸い、使用中の人間はいないため、入室中の札を掛けて中へと入る。ソファとベッドが置かれている場所へ別々に腰かけた。
しばらくは二人とも無言のままだった。重苦しい空気が室内に充満し、窒息するかのような息苦しさに橘がギリっと歯を噛み締める。陰鬱な面持ちに、口を開いたのは雪村だった。

「……千崎はどうなった」

単刀直入な問いに橘は拳を握り締めた。紡ごうとしたのは見聞きした情報だったが、言葉にすることは彼には憚られた。
「橘」と促す上司に、彼は顔を歪めながら答える。

「……熊谷修への取り入りは失敗しました。ホテルから熊谷が憤懣を露わにして出ていったところを見ましたが、何をされたかは…」

言葉を濁した橘に、雪村が押し黙った。
理解していたことだった。熊谷修の性質上、彼女が演じた女は、熊谷の餌食となる。セックススパイを警戒している熊谷に対して、中長期的に取り入ることができる素質のある人間など、橘が頼める同僚の中では彼女しかいなかった。
嫌なことをする前にカタをつけると豪語しておきながら、結局、彼女が熊谷にホテルへ連れ込まれるのを止めることはできなかった事実に、橘はくしゃりと前髪を掴む。

「……アイツがやってきたこと、全部無意味になりました」
「……何故、失敗したのか分かるか?」
「それは、」

橘は脳裏に浮かんだ男の相貌に口を噤んだ。
【何が起きたかなんて、想像に難くない。】だからこそ、それを口にすべきか迷いが生じた。「橘」と、しんとした空気を揺らした硬い声音に、橘は瞼を下ろし、重々しく上げた。

「D課の三好が、ホテルに入って行きました。その後、熊谷がホテルから出て行きました」

食われそうになった女、乱入した男。初物を好む男が憤懣を露わにして出てきたということは、お手付きだとでも宣ったか。しかし、そんなことをすれば彼女の月単位の仕事は徒労に終わることを奴も分かっていたはずだ。
それでも、その後、二人がホテルから出てこなかった。その事実が全てを物語っている。
瞑目していた幸村が、ひとつため息を吐いた。

「存外、奴も人間だな」

苦笑混じりに呟いた彼に、橘は俯く。
人間、というのは当たり前で、しかしそれは言葉通りの意味ではない。奇人変人の巣窟、社会不適合者の掃き溜めにいるが、しかし内実は恐ろしく優秀。D課の男達は、人間とは思えない、まさに化け物というべき存在だった。

「俺は……、分からなくなりました」

下げた相貌から、困惑の色が濃い声が漏れる。
橘が思い浮かべたのは、三好の相貌だ。

「あいつらはいつだって仮面を被っている。俺達のことを【見る】ことなんてない。だから、こちらもまともに相手をしたって意味がありません」

どれだけ見つめようと、見極めようと、仮面の内側にある個人に辿り着くことはできない。同時に、彼らもまた相手を【見ようとはしない】。彼らが見るのは個人に付随する情報であって、そこに在る人間の性状など、利用するための道具【ツール】に過ぎない。

「けど、あの時、ホテルに入っていく奴の顔が、仮面を被っていたとは思えなかったんです。まるで、素顔のようで」
「素顔、ねえ」
「……自我が、見えた気がしたんです」

橘の脳裏に蘇った三好の相貌。自分を突き飛ばし、憤懣を吐き捨てた男の相貌は確かに、そこにあった。
仮面だとは、思えなかった。

「……あの男にとってアイツって何なんですかね」

くしゃりと手で顔を覆い、やるせ無い想いを吐露した橘に、雪村は言葉を紡がなかった。





身体が重い。頭もひどく重い。五感に感じる全てが重く、気怠く感じるのは昨晩の記憶のせいか。痛む腰が物語る現実に千歳は重い瞼を上げた。朝陽はとっくに上っていて、カーテン越しにも、陽光が燦燦と部屋を照らしていた。

「起きましたか」

びくりと肩が揺れる。同時に、千歳は手にしていた掛布団を胸元まで引き上げ、しっかりと握った。おそるおそる声の方向へ視線を遣れば、半裸の三好が眇めた目を千歳に向けた。「取って食ったりしませんから」と、嘆息交じりに吐き捨てた彼に、千歳は「わかってます」と口を尖らせる。わかっている。ただ、心情的にそうしたかっただけだ。思い起こされる情事に、首を振って頭を抱える。
三好はシャワーを浴びていたのだろう。湿った髪を乱雑にタオルで拭いている。そのまま、テレビを点け、朝のニュースにチャンネルを切り替えた彼を尻目に、千歳はそそくさと脱衣所に向かった。
設定温度をやや高めにして勢いよくシャワーを浴びる。ボディソープを手に取り、肢体をなぞる過程で、股座へといった指先に息が詰まった。

(何を思い返しているの…)

アレはそんな感情じゃない。彼は、一片たりとも想いなど込めない。込める【はずがない。】理解している現実をもう一度俯瞰して咀嚼して呑み込むように、態と荒々しく身体を洗った。何もかもを洗い流したい衝動に任せて、全身をくまなく洗い尽くす。脱衣所で心ここにあらずの相貌で髪を乾かし、部屋に戻ろうとした千歳はふと気づいた。
テレビの音が消えていない。

「随分と悠長にしていますね」

何故、まだここにいるのか。目を丸くする千歳を他所に、髪を乾かし終えた三好は視線をタブレット端末に落としながら淡白な声を出した。

「任務が失敗したことを、お仲間に知らせた方が良いのでは?」
「……貴方に関係ありません。それに、とっくに気付いています、あの人達は」

自分と違って優秀だ。喉元まででかかった言葉をすんでのところで呑み込む。
これ以上、醜態を見せたくはなかった。

「どうして、こんなことをしたんですか」

情動を押し殺し、三好に問い掛ける。睨め付けた視線を受け流し、三好は端末から視線を上げた。「どうして、ですか」と、思案顔になったがそれも一瞬だ。直ぐに仮面を被り直した相貌が、ニヒルに笑んだ。

「躾、ですかね」
「……は?」
「随分と【大切に】育てられてきたみたいなので、少し躾けただけです」

にべもない答えだった。さも、当然のような口調。それは、月単位の仕事、古巣からの依頼をたった一夜で水泡に帰された人間には、あまりにも──

「……そう、ですか」

息を呑んだ。理解が追い付かなかった。それでも、現実を納得させないとどうにかなりそうだった。内に蠢く怒りの感情を押し殺して、ただ一言、紡ぐ。それだけの行為に、ひどく精神力を使った。
あのまま、熊谷修に食われていれば、取り入って、自宅へと招き入れられてデータを押収できたかもしれない。しかし彼は、鼻で笑った。性に翻弄される女がハニートラップなど笑わせるなと。故の躾だったというのだ。
冷静に考えれば、詭弁だ。そもそも【あの場で】躾けるなんてことは愚策でしかない。もっと前に千歳の躰を仕込むことは可能だった。それこそ、彼ではなく手慣れていそうな神永でも問題はなかった。
しかし、それを正しいと認識しないと、千歳は頭がどうかなりそうだった。
これが本当に躾というなら、あの視線は、表情は何だ。触れた唇の暖かさと、指の感触。そして何より──

『千歳』

耳朶を打った声は、まだ反芻させることができる。頭の中で呪詛のように響く声を、ゆっくりと目を瞑り、外へと弾き出す。これは躾であり、感情は灯らない、ただの遊びに過ぎない。
何も、感じるな。

「ただの躾なら、リスクを犯さないで下さい」

しかし、内から溢れ出る憤懣は舌に乗って吐き出される。ぶつけどころが分からない激情を、当の三好は涼しげに受け流した。

「いっそ、付き合ったことにしますか」
「……は?」
「それなら、リスクも何もないでしょう?」

この男は、人の神経を逆撫ですることしか考えていないのか。妖しく細められた眼に、喉から出かかった怒声をすんでのところで呑み込んだ千歳は、ゆっくりと息を吐いて、瞬いた。

「……そうですね。そうした方が、ここから出てきた言い訳も多少はしやすいですね、お互いに」

冷然とした声に、三好が僅かに目を見開いた。

「……意外ですね。全力で拒否するものだと」
「利用できるものは全て使え。そう、教えられました」

提案したにも関わらずあっさりと了承の意を表した千歳に、三好は目を瞬かせた。
流されるな。感情を曝け出すな。

「そうした方が、何かあった時、に都合が良いでしょう?」

三好の脇を通り、ベッドサイドに投げ捨てられた衣類を身に纏う。皮肉を込めた声音に、この日初めて三好の声色が変わった。

「……間違いがあった時、とは言わないんですね」

しんとした物言いだった。外していた視線が向けられ、彼の顔を見る。

「──間違いと言った方が、幾分か救われるんですか?」

どこか、憂いを帯びた相貌に見えるのは諦念か。皮肉に歪められた口元は彼の何を伝えているのだろう。
その相貌に、胸が、なぜか騒ついて。
語気が僅かに強められた声で千歳は彼に問いかけながら、近付いた。

「貴方の行動を全部、間違いだと断じたほうが気が安まりますか? 私を抱いたことも、中に出したことも」

──名前を呼んだことも。

吐き出されそうになった言の葉はすんでのところで躰に留まった。
三好の相貌が曇る。「貴女は、」と口を開いた彼の言を遮るように、千歳は不格好な笑みを向けた。

「ねぇ、三好さん」

間違えるはずがない、と。
縋る気持ちを隠して、紡ぐ言葉は、とても空虚だった。

「間違えないでしょう? 貴方は」

握り締めた拳を、悟られたくなかった。
三好の端正な顔が歪む。逡巡するように下げられた視線はしかしすぐに戻され、ヒビ割れた面は修復された。

「……当たり前だ」

緩慢に紡がれた言葉は、冷然としたいつもの彼を演出していた。

「そもそも、きちんと外している」

ただ、違ったのは、彼の口調がいつもの慇懃なものではなかったことだ。取れた道化の仮面に、千歳は目を細めた。

「なら、良いんです」

くるりと三好に背を向ける。ポシェットから万札を取り出してテーブルに置き、掛けてあったコートを手に取る。露出の多いドレスの上に秋物のコート、普段なら身につけないそれが昨晩の情事を思い出させて、千歳の顔を歪めた。

考えるな。
深く考えたらいけない。

記憶を沈めるように静かに目を閉じ、ゆっくりと瞼を上げる。「先に行っています」と、振り向かずに告げ、千歳は部屋を後にした。





いったい、自分は何をやっているのだ。

塵ほども己の足しにならない思考に、三好は苛立ちを込めた拳をテーブルに叩きつけた。テレビから漏れる音は対照的に楽しげだ。人気バンドのコンサートが─十年ぶりに─、と和やかに進む液晶画面の世界に苛立ちが募り、無造作に取ったリモコンで画面を消した。
なんの意味があって彼女を抱いた? 躾などという詭弁を用いてひた隠しにした感情は何だ。
奥底で冷徹な瞳を湛えた自分が三好に問いかける。

(煩い、黙れ)

ガンッ、とテーブルが揺れる。叩きつけた拳から鈍い痛みが伝わった。
理性で感情を抑えようとしているのか、感情で理性を壊そうとしているのか、もはやどちらなのか三好には判別がつかなかった。

『間違えないでしょう?』

あの瞬間、薄らと『何か』が見えた。何かが定かではないが、確かに、彼女と『誰か』が重なった。あの、光の群集の中で儚げに佇んでいた彼女を見た時と同じだ。
自分の知らない、否、【思い出せない】何かがある。この数ヶ月、彼女と過ごした日々の中で三好の中に靄のように漂っていた疑念が、確信に変わった。これは、気のせいなどという曖昧さを孕んでいない。確実に、自分の記憶には、思い出していない何かがある。そうでなければ説明がつかない。
何故、彼女を目で追ってしまうのか。
何故、触れたあの時から見続ける夢があるのか。
何故、彼女と【誰か】が重なるのか。

何故、彼女に手を出したのか。

全てが繋がる理由が確実にある。
しかし、今の三好はその理由を知る術を持っていない。

「……【俺】が、こんなことに振り回されるとはな」

ソファに背を預け、掌で顔を覆いながら漏れる苦笑。諦念すらある声音に、化け物ではない何かの色が見え隠れした。