26.闇の一端
自宅へ戻り、スーツに着替えて登庁した千歳は、スーツの中のスマートフォンが振動したため、画面を確認した。差出人は、S。佐伯省吾記者からだった。件の首長と地元建設会社との官製談合の証拠について探ってもらっている最中の佐伯から連絡が来たということは、有益な情報が上がったということか。 
視線を左右に走らせた千歳は手近なトイレに入った。個室が全て空いていることを確認して、通話ボタンを押す。「千崎です」と告げれば、少しばかり興奮した声が返ってきた。

『見つけたぞ、嬢ちゃん』
「嬢ちゃんはやめて下さい」
『硬いこと言うな。で、肝心の物だが、福祉課の主任が持ってた事業の内訳書だ』

連絡を取り合う中ですっかり千歳のことを気に入ったのか、敬語からくだけた口調になった佐伯は千歳のことを嬢ちゃんと呼ぶようになっていた。仕事に支障はないが、親密すぎるのもやり辛いため苦言を呈す千歳にしかし彼は聞かない。
意味がないことを悟った千歳は嘆息しつつ、内訳書についての話を聞いた。行政が発注する公共工事などの事業には必ず内訳書がある。材料費や人件費などが記載されていて、入札価格の決定に重要な文書だ。

『この内訳書だが、実際の価格が記載されたもん、つまりは正規の値段のモノだ。実際に表に出ているのは、これとは別の談合用に調整済みの文書だ』
「本物が見つかったんですね」

談合用ではない、正規の予算価格が記された文書などは、証拠隠滅のため基本的には破棄される。佐伯曰く、件の主任と担当課長の仲は日頃から良好と言えず、いざと言うときの─つまりは脅しのため─に保管していたとのことだった。『俺もそれくらいのことしてやりてぇよ、上に』と本心がたっぷりと込める佐伯に苦笑する。
しかし、千歳は妙な違和感を覚えていた。

「……佐伯さん、つかぬことを伺いますけど、談合ってそちらでは珍しいことですか?」

千歳の問いに、佐伯は一拍置いた後に短く唸った。

『珍しい……と言うには無理がある程度だな、表に出てるものも出ていないものも含めると』

佐伯の答えに千歳は思案する。
談合自体は【良くあること】なのだ。よくあって、良い、かは別として古今東西、特に建設談合は行われてきた。横の繋がりの強い建設業界となれば特にその数は跳ね上がる。昨今、全国各地の地方議会の談合を特捜部が鼻高々に逮捕劇を繰り広げているが、氷山の一角に過ぎない。
行政側からの情報漏洩、口利きは双方にとって旨味がある。誰もが損をしないシステムの中での綻びはその中にいる燻っている人間だけで、しかしそんな人間をチマチマと探すくらいなら別の事件でも追った方が建設的だ。そもそも、誰もに旨味があり、損をしないとなれば口を割らせることは容易ではない。
千歳は、それを理解しているからこそ解せなかった。

(リストに記載してあるのは官製談合に関わった人間達だけど、記載してあった理由はそこじゃない)

官製談合はリストに記載してある全ての人間に共通する話題ではない。ともすると、官製談合以上の【何か】共通点があるのかもしれない。

『もっと、やべぇことがあるってことだな』
「え」
『そんなことを聞くってことは、コレは序の口ってことだろ?』

敏腕記者というのは伊達ではないのか。千歳の声音一つで思惑を読み取る文屋の嗅覚に舌を巻く。厄介な相手を取り込んだかもしれない。

「……取り敢えず、資料は直接下さい。くれぐれも、メールは避けて」

いつ何時、どこで【見られるか】たまったものではない。
脳裏に掠めた海を隔てた協力者の相貌に苦い思いを抱いた千歳に、『来週頭に東京出張あるからそんときな』と佐伯は続け、『美味い飯屋でも紹介してくれや』と冗談か本気か分からない誘いをかけてきたが、にべもなく断った。

『そういやあ、もう一つ』

まだ何かあるのか。いい加減デスクに行かないと時間もない。「手短にお願いします」と沈めた声音となった千歳に、佐伯が苦笑する。

『一個だけだよ。…その主任な、俺が接触した時に妙なこと言ってたんだよ。「またですか」てな。俺が接触する前に誰かが一度訪ねていたのかもしれない』

そういやぁ、で済むような内容ではない気もするがひとまず置いておいた。

「誰か、ですか」
『さすがにそこまで突っ込んでは聞いてねぇからな』
「……了解しました。少し、こちらでも調べてみます」

終話ボタンを押し、部署へ行く道すがら、思考は頭を巡る。
談合の可能性を探る、こちらが認知していない勢力があるのは予想外だった。あのリストの意味を知るものでないと、わざわざ地方の片田舎の談合を調べようなどとは思わない。

(私達以外、リストの意味を探る…あちらが何かアクションを? いや、それなら片田舎じゃなくてもっと国の中枢…)

ふと、思い当たったのは自分が仕事と依頼をかけた海を隔てた先にいる男の組織だったが、だとしても、ピンポイントで同じ人間に行き着くとは考えにくい。リストに記載してあった人間の数は膨大だ。
思考がまとまらない。枝葉のように伸びる可能性を一旦切り、千歳は一度部屋の前で立ち止まった。ひとつゆっくり瞬いて、深呼吸をする。大丈夫、と自分に言い聞かせて、ドアを開けた。

「おかえり」

公安第四課。多くの紙媒体、及び電子媒体の資料の山に囲まれた一角にあるデスクに荷物を置いた千歳に声をかけたのは雪村だった。ぴくりと肩を震わせた彼女が緩慢に振り向く。視線を下げ、戸惑いがちに合わせた彼女は、きつく結んだ唇を解いた。

「……申し訳ありませんでした」

言うべき言葉は、それだけだった。言い訳も何も必要がない。
一方、雪村はふと笑みを溢し、彼女の頭に手を置いた。

「謝る必要はない」
「けど」
「むしろ、謝りたい奴は他にいるみたいだぞ?」

雪村の視線が自身の後方に向く。釣られて転じた視線の先にいたのは、自分に熊谷修への取り入りを依頼した、橘だった。視線があった瞬間、橘は罰が悪そうに俯く。
互いに沈黙したままの二人に嘆息した雪村は、橘の背を押した。「言いたいことあるんだろ」と呆れ口調の雪村に橘が口元をまごつかせる。逡巡するように視線を彷徨わせていた橘より先に口を開いたのは千歳だった。

「……ごめん。ごめんで済む話じゃないけど、ごめん」
「ッ、違うッ」

言下に橘が千歳の言葉を否定する。

「謝るのは俺の方だ。嫌なことはさせないようにするつもりだったのに、結局お前に押し付けた」
「そんなの仕方ないじゃん…依頼された時から覚悟してたし」
「それでもだッ! 俺は…ッ」
「はいはい、ヒートアップしない」

図らずも語気が強くなる両者を雪村が分かつ。うっと言葉を詰まらせた橘に雪村が苦笑した。「少し落ち着け」と柔らかな声で諭されれば、橘は無言で頷くしかなかった。

「……未来信教に色を使って取り入る提案をしたのは俺だ。責任問題で言えば、俺にある。だが、収穫が全くなかったわけじゃない」
「……どういうことですか?」

熊谷修への取り入りは失敗した。金回りのデータを一手に管理する男から関係する情報を引き出すことは容易ではなくなったはずだ。
怪訝な顔つきとなった千歳に雪村は口角を釣り上げた。

「昨日の夜、熊谷は目黒区のマンションに行っている。こちらが把握しているセーフハウス以外の場所だ。数時間そのマンションに入った後に出てきた時には、女を一人連れていた。奴の好きそうな、おぼこい子だったよ」
「…宅配業者を装ってこちらからその部屋に行ったら、中には他にも複数人の女がいた」
「……まさか」
「憤慨した熊谷が向かった先は、奴が【囲っていた】女の寝床ってことだ」

色狂いの男が一人の女に固執するとは思えない。しかし、まさか部屋一つを借りて女を囲っているなどとは千歳も想像していなかった。仮に未成年者や監禁紛いの事実があれば、別件で引っ張ることもできる。
「クソ野郎ですね」と肌に蘇る忌まわしい感触に顔を歪め吐き捨てた千歳に、雪村が情報を重ねた。

「で、そのマンションの一室の名義を調べると、さらに面白いことが分かった」
「面白いこと?」
「部屋の名義は、野党第一党、民生党の幹事長の後援会、代表者のものだった」

ガンッ、と頭部を強打したような感覚に襲われる。ぐらりと揺らいだ脳に頭を抱えた千歳は「…待ってください」と声を絞り出した。

「………確か、未来信教は」
「民生党の支持母体」

低く唸るように橘が答えた。
政治と金が、一気に結びついた。
野党第一党の民生党の集票組織、支持母体のひとつが未来信教だ。政教分離の原則などは形骸化していて、この事実は特に取り沙汰されることもない。一説によると、メディア、芸能関係者にも多数の信者がいるという。

「票田工作に女を使っている証拠が思わぬところで見つかったんだ。収穫としては悪くない」

爆破予告リストに載せられていたのは、政財界のトップにいる人間達から地方の首長や議員など。政界と経済界を結ぶ線として最も濃厚な黒い糸といえば──

「贈収賄、汚職の告発リストってことですか」

古今東西、政治と金、政治と色は切り離せないものだ。誘致、施策、あらゆるところで金は湯水のように沸き、流れていく。
地方首長の一件は官製談合の疑い、そして今回は贈収賄。リストの人間の内訳で見ても、千歳達の読みは外れていないと見られた。

「果たして、犯人はどこからあの情報を仕入れたのかね」

雪村の軽薄な声が耳朶を打つ。
権謀術数渦巻く政財界の闇が、隠微な色を見せ始めていた。





「げ」
「あ」

かち合った視線にあからさまに顔を歪めた橘に対して、千歳は目を丸くした。二人の視線の先にいた波多野はというと、橘と似たり寄ったりの相貌で二人を見据えた。

「何か文句でもあるのか?」

ガコンと自動販売機から缶コーヒーを取り出して口を付ける。カップ片手に話し合いをしていたろう二人を尻目に長椅子に腰を下ろしてスマートフォンをつつく波多野に、橘は「なんでもねぇよ」と吐き捨てた。
えも言えない沈黙が下りる。リストについての話も出来やしない。
「千崎」と、ふと、波多野が千歳を呼んだ。視線をやれば顎をしゃくられる。ついて来い、というふうに歩き出した彼に当惑しつつ、隣の橘に「ごめん」と伝えれば、橘は肩を竦めた。

「行って来いよ。こっちは雪村さんとやっとくから」
「ごめん。なんか、結局そっちの仕事何も出来てない」
「出向先の仕事の方が大事だろ。いいから、行って来い」

あやすような声にむず痒さを感じる。いつもの軽薄さが薄い同期の言葉に首を捻りつつ、千歳は背を向けて走り出した。

「──千歳」

背中にかけられた名前にぴくりと反応する。
緩慢に振り返った先の彼は、快活な笑みを湛えていた。

「頑張れよ」

ざわり、と。どこか覚えた胸騒ぎ。
立ち止まり、踏み出そうとした足はしかし前方を歩いていた波多野の声によって止められる。さっさとしろ、と言わんばかりの歩調に千歳はついていくしかなかった。

「……古巣は居心地が良いか?」

D課への道すがら尋ねられた内容に一瞬躊躇する。意図を図りかね、「なんのことですか」と冷然とした声音となった彼女にしかし波多野の声もまた冷え切っていた。

「随分と信頼を置いていると思っただけだ」
「もともと私は公安です。出向しているだけでD課の人間じゃないですから」
「俺達よりはそりゃあ信用できるだろうな」
「……ねぇ、なんなわけ」

ピタリと立ち止まり、敬語口調が一転する。片眉を上げて波多野を睨め付ける千歳は、小柄な背中の彼に不信感を募らせた。
数歩歩いた波多野は、ゆっくりと振り返った。

「なんでアイツ、俺の顔を知ってたんだろうな?」

含意のある瞳が千歳に向けられる。質問の意図が分からずに怪訝な顔つきとなった彼女から視線を外して波多野は続けた。

「俺たちの存在を知っていても、個々人の顔なんざ出回っていない。三好のことも俺のこともD課と知っていたのは、さて、何故だろうな?」

はた、と千歳も気づきを覚えた。
そういえば、そうだ。自分はD課について概要を聞いた際に【想像がついていた。】知る前から知っていた。
しかし、公安部の中でもD課の面を知っている人間は多くない。組織の存在そのものを認識していても構成員の顔を何故、橘は知っていたのか。

「……そんなの、上の誰かが写真が何か見せたんじゃないの」
「俺達個人のデータは結城理事官しか持ってねぇよ。公安に分かるはずがない」
「……何が言いたいの?」
「別に? とるに足らない疑問だ」

ニヒルな笑みを絶やさない波多野に対して、千歳は渋面を崩さなかった。
再び歩き出した波多野の背についていく。投げかけられたとるに足らない問いが頭の中を巡る千歳に、波多野が再度振り返った。

「どちらにつくもなにもねぇけど、自分がやるべきことを見失うなよ」

真っ直ぐに見据えた瞳に軽薄さはない。薄らと細められた怜悧な眼に、一瞬、息を詰まらせた千歳はしかしすぐに奥歯を噛み締めた。

「……分かっ…てます」

囚われるなと、暗闇の奥で魔王が囁いた気がした。