目を閉じて耳を塞げば聴こえてくる。彼等の声、街の喧噪、軍靴が地面を鳴らし、軍艦が雄叫びを上げる。歓喜の声はやがて悲哀の叫びとなって、そして消えていく。
暗闇に蘇る記憶が瞼の裏に投影され、まるで今目の前にあの光景があるかのように錯覚してしまう。手を伸ばせばその時代に触れることが出来る気がした。広がる光景を、聴こえる音を手に掴み時代を超えて自分が顕現出来るのではないか。
『千歳』ではない千歳として、其処にある今に足を踏み入れたら、
──私は解放されるんだろうか
海鳴りが聞こえた。
「何を黄昏ているんだ?」
聞きなれた声に千歳の意識は深層から上がってきた。瞼の裏に投影されていた過去から目を開けば、見えてくる現在。
現実を認識した千歳は緩慢に声の主を振り返った。
「海って黄昏たくなりませんか?」
「なんだそれ。現実逃避に持って来いと?」
「違いますよ。ただ、頭の中がごちゃごちゃしている時に見るとすっきりするんです」
「そんなものか」
「そんなものです」
会話の先に意味などなく、ただ、ぼぉ、と千歳は海と、そして鎮座する鉄の巨体に視線を向けた。
青空を背景に黒光りする船体に乗るのは子連れの親子や艦隊オタクなど様々だ。かつてのように、軍人が棺桶として乗り込んだそれとは意味が違う、いや──棺桶と思っていない人間の方が多かっただろうか。
不沈艦と讃えられた武蔵、大和の大型戦艦は日本の誇りだった。十代から二十代の若者を中心としていた乗組員のうち、武蔵において戦後まで生き残ったのは五十名ほど。艦隊戦を生き延びた六百余りのうち殆どはフィリピン・ルソン島における地上戦に投入され命を落とした──上層部からの口封じの意味も含めて。
確かに夢見て、確かに信じた明日のために乗り込み散った彼らもまた、今晴れやかな笑顔で船上を駆ける子どもたちと同じだったのかもしれない。時代が違うだけで得る明日が違う。その時代ごとに様々な形の、戦争、はあるが、命の灯火が塵の如く消えていたのがあの時代だ。『進め一億火の玉だ』臣民の価値などそこらの兵器より低かったというのは何とも馬鹿げた話だと、千歳ははしゃぐ子どもたちに目を細めた。
「お前、子ども好きだったっけ?」
さも信じられない、と訝しむ彼に千歳は笑う。
「雪村さんよりは好きだと思いますけど」
「どういう意味だよ」
「地域イベントで子どもに囲まれて焦っていたエピソードは山本部長から聞いたことがあります」
「……あのジジイ…」
苦い顔をする雪村に千歳はしたり顔を向けるが、向けた先の彼の表層に首を傾げた。
「雪村さん……?」
当の彼は船体、護衛艦の背後、地平線が広がる海原へと視線を移していた。水面に乱反射する陽の光が彼の顔を照らす。
ドクンと、心臓の音がひどく鮮明に伝わった。
(何だろう…)
その視線が、海原ではなく何処か別の場所へと向けられている。そのようなえも言われぬ不安感に千歳は襲われた。遠く、彼方を見つめる双眸に目を奪われる。瞳の中に、歪み澱んでいる色が見える気がしてならない。
ふと、彼と同じように、視線を平行にして地平線を見つめても見えるのは広々とした海で、変わらぬ景色がそこにある。
さざ波の音が耳についた。
「……悪い、呼んだか?」
柔らかな声に千歳は雪村に向き直る。相変わらず幸の薄そうで、警察官にしては細身の、しかし朗らかなその笑みに胸を撫で下ろした。
「いいえ、何でもないです」
首を振れば、そうか、と彼はそれ以上何も言わなかった。
しかしやはり、向けられた視線の先にあるのは海原と、そして青空に映える護衛艦と黄色い声をあげる人々で、懐古するように見つめる瞳に宿る色は何色なのか分からない。
千歳は先程の彼の眼差しを思い浮かべた。
「雪村さんは嫌いなんですか?」
「は?」
「海、嫌いなのかなと思って」
強烈な負の感情だとは感じなかったが、海原を見つめる彼の中に千歳が見たのは何処と無く冷たく、暗く、それでいて浮かべるのは、切なさ。そこにある景色を眺めているようで眺めていない。遠く、まるで違う景色が彼の眼前には広がっているようだった。
たったの数カ月仕事を共にした、雪村幸一、という男が初めて見せた新たな顔が目に焼き付いた。
千歳の問いに雪村は彼女を一瞥して、そうして口を開く。
「好きだよ」
一言。消え入るような声で紡がれた言の葉に続き、自嘲するように口角が上がった。
「俺は…やっぱり、好きなんだろうな」
薄っすらと眼を細め、地平線を眺める彼の目にはいったい何が映っているのだろう。
儚げなその姿に、彼らの姿が重なった。重なるはずのない二つが交錯したことで、千歳ははっと我に返り、首を振った。
何故、今そんなことを思い出すのか。
「黄昏ているのは雪村さんの方じゃないですか」と、わざとらしく肩を竦める。過去の亡霊を振り払うように千歳は努めて声を明るく保った。
季節は既に冬を目前に控えていた。港湾に吹く風は肌に刺さる寒さを孕んでいる。本格的な冬の到来を控えて人々の装いも厚いものに変わっていた。
海原を眺めていた雪村は、ふと視線を喧騒へと向けた。一瞬、その瞳の奥に鋭い眼光が灯ったと思えば、彼は千歳に目配せをして喧騒の中へと消えていった。嗚呼、彼の【仕事】の時間だと、千歳も腕時計で時間を確認する。
外事課の雪村は【外】と情報をやり取りすることが多い。そして、千歳もまた同じように仕事としてこの場に来た。
スマートフォンが振動する。見計ったかのようなタイミングに怪訝な顔つきになりつつタップした画面を見れば、位置情報が送信されていた。
*
「こんなところで油売ってていいわけ?」
不遜な態度で言い放った男は、千歳の座っているベンチに腰を下ろした。ブロンドが陽の光を浴びて煌き、碧眼と併せると端正な面立ちが一層際立っている。一目で美青年と分かる男だった。「そっちこそ」と、ツンとした返事を返しながら千歳は周囲に視線を走らせた。
フランス庭園様式を取り入れた公園内には散歩する家族連れなどの姿が散見される。入港した護衛艦と大海原、透き通った青が映える絶好のシャッターチャンスを逃すまいとカメラ片手に散策する人々。
警戒線を張り巡らせていれば、隣の男はくっくと喉を鳴らした。
「誰もいやしないよ。他人も身内も」
緩慢に千歳の視線が男に転じられる。それが交錯した刹那、見下ろされた瞳に自然と彼女の目が眇められた。
男の態度は、実にふてぶてしいものだった。
(お見通しってわけ)
ふい、とそっぽ向いた千歳を、男はつま先から頭のてっぺんまで眺める。
「君も私服着るんだ」
「こんなところで、スーツ姿で油売るわけないでしょ」
「シャチクに疲れた精気のない女がいてもおかしくはないと思うけど」
弾んだ声で軽口を叩く男にわざとらしく嘆息する。「否めないところがむかつく」と睨め付けた千歳の視線を受け流し、男は薄っすらと目を細めた。
「馬子にも衣装、だっけ? 今度から俺と会う時は私服にしてよ」
「私に何の得があるの、それ」
鼻を鳴らした刹那、腰を引き寄せられた千歳の耳元で男は低く囁いた。
「降りかかる火の粉を払ってあげる」
仲睦まじいカップルと家族連れの声が聴こえる。目を瞑り、数秒間を置いた千歳はゆっくりと男を見据えた。にこりと向けられた相貌は邪気の一つも見えないほど澄んでいるようだったが、内実は真反対ということを千歳は知っている。互いに綺麗な笑みを見せ合う時は大概ろくでもないことが起きる前兆だった。
さざなみの音が、空気を揺らした。
「……リストに記載されていた人間達は贈収賄に関わっているような人間達だったけど、あれはそちらにも都合が悪いの?」
「悪い人間にとっては悪い。どうでも良い人間にとっては取るに足らないってところ」
「……どういう?」
「忠告だ。手を引け」
空気が軋む。軽薄な声音から一転、一等声を低めて男は千歳を見据えた。有無を言わせない眼光にしかし千歳も「私だけの問題じゃないのに、理由も分からずやめられない」と食い下がる。
「こっちも、俺の一存でどうなるものでもない。ただ、大統領選控えて上がピリピリしてるんだよ」
来年開かれるアメリカの大統領選。現大統領である共生党、ローランド大統領は主力対立候補がおらず候補者に選ばれるのが確実の見通しだ。対する民進党は現在五人の候補者が各州での遊説に走り、しのぎを削っている。どちらの党も無駄な火種を撒きたくない状況下だった。
「トモダチ(partner)に随分と冷たい国なこと」
「よせよ。親子の方がしっくりくる」
嘲笑を含めて男は吐き捨てた。
確かに、戦後のその時から日米の関係は決して友達(対等)と言えるものではなかった。
戦後、日本の共産化を阻止するために凡ゆる政策が投入された時から、二国間には明確な主従関係が誕生した。アメリカの東アジア戦略のための程の良い基地として機能させられ、戦後国体とも言える【親米保守】が今も幅を利かせている。アメリカは、自分達を裏切らないという【妄想】の結果、戦後、如何なる要求にも首を縦に振る為政者達が多数を占めるようになった。
自分の家と家族を、他人に守ってもらう。他人に【住んでもらい】、報酬も支払うという至れり尽くせりの結果、その他人から【見返りが少ない】と文句が言われようが、家族への【暴力】が発覚しようが、守ってもらっているから仕方がないと口を噤み続けてきたのがこの国だ。従属関係を、トモダチ、思いやり、などという言葉で包み、中身を見えなくしている。
「絶対的な主従関係がある相手の顔色くらいうかがえるだろ? 駄々を捏ねて噛みつくことはそちらの上も望まない筈。まぁ、噛み付いても結果は同じなんだから、大人しくしといた方が無難だとも思うけど」
二国間の体質をよく理解した物言いに、千歳は肩を竦めた。
「難民受け入れで非難轟々の中、あのリストについてバラされたらいよいよ虫の息ってこと?」
ローランド大統領が去年暮れに実施した大規模な難民受け入れと緊縮財政により、中下層の労働者の支持率は著しく低下している。かといって民進党はといえば、ローランド大統領を突き崩す決定的な政策力に欠けている。
アメリカは移民の国だ。清貧をウリにするローランド大統領自身もアフリカ系移民とアメリカ人の両親のハーフで、その生い立ちもあり大規模な難民受け入れを行った経緯がある。非難轟々だったとはいえ、自身の面子はある程度保たれた。
「清貧なイメージが反転したりして」ぼそりと呟いた千歳に、男の掌が彼女の上に被さる。瞳の奥に見えた光はギラリと千歳に向けられていた。
「忠告はした。あとは君次第だよ」
冗談(ジョーク)抜きの言葉であるとその目は饒舌に語っている。君次第ではなく、つまり手を引けという意味だ。
「俺はね、君のこと気に入ってるんだよ」
「それはどういう意味で?」
「友達(パートナー)としてさ。なんなら、それ以上になったって良いけど?」
手の甲に乗っている男の手が動き、無骨な指が千歳のそれに絡められる。柔和に笑む男に千歳もまた優艶に口角を上げた。
「嘘つきは嫌いだから、私」
「じゃあね、アルフレド」と立ち上がり、踵を返した千歳の手首がくんと引かれる。振り返った先の男の双眸はしっかりと彼女を見つめていて、気圧されそうなそれにふっと笑みを溢した千歳は眉尻を下げた。
「ありがとね、アル」
柔らかな声音が届けられれば、男は何かを紡ぎかけた口を噤み、結局その手を離した。逡巡する視線に背を向けて、千歳はその場を後にした。