しとしとと降り注ぐ雨粒は冬の冷たさを孕んでいた。近づく白銀の世界を肌身で感じる季節。
その日は妙に冷たい雨が降り注いでいた。
三期生達が街へ繰り出したのを見届けて執務室へ戻る。本来、自分の上官にあたる男が座る席を任されたのは、上官がドイツへ赴いているためだった。雛鳥達の面倒を任されてはたまったものではないと不満顔を向けたが、お付きの人間を寄越されれば首は自ずと縦に振られた。
ドアノブをひねった先、【彼女】はいつもそこにいる。そこで魔王、結城中佐の忠実な部下として働いている。
その日も、帰ればいつもどおりの、淑やかな相貌の彼女がいる【はずだった。】
「……嘘」
扉を開けた先、そこにいたのは一枚の電報を呆然と見つめている、彼女だった。
「──さん、神永さん」
「……ん。……あ、何?」
「何じゃありません。後藤の身柄ですが、小田切さんとこちらの班で確保するとのことです」
片眉を上げた彼女が神永を覗き込んでいる。車窓から夕暮れ時の街の様子を見ていた神永の意識はようやく戻ってきた。
雨粒がフロントガラスに打ち付ける。大粒のそれの音が過去へと自分を誘っていたのかと自嘲した。
運転席の彼女は──千歳は、信号が青になったため視線を前に据える。「呆けてないでください」と強められた語気に神永はからりと笑った。
首相秘書官、後藤拓真は現在、霞ヶ関にいる。文京区の後藤宅までを波多野と三好、甘利と田崎で尾行。後藤宅周辺で神永と千歳、小田切と福本、佐久間が待機。令状を持って佐久間が最初に接触するという筋書きだった。
改めて作戦確認をしていた千歳の話など上の空だった神永は、「ほんとごめんって」と再度軽く謝罪すると、彼女の横顔を見つめた。「何か用ですか」と神永の視線を感知した彼女が前を見据えながら問いかける。
「用ってほどじゃないんだけどさ、さっきそっちに呼び出されて、何聞かれたのかな、て」
「……何故、それを聞くんですか」
「帰ってきた時、少し目元腫れてたから。泣くほど怒られたわけ?」
赤信号で止まる。千歳の視線は変わらず前に置かれたままだった。
「神永さんに関係ありません」
「なくはないでしょ。一応、千歳ちゃんこっちの捜査情報握ってるし、横流しされるのはあまり気分良くないかな」
「共有しているのはどちらも同じです。それに、理事官も承認済みのはずです」
「それは、二重スパイってところかな」
「……何が言いたいのかは知りませんが、これ以上の会話は不毛です」
僅かな苛立ちが含まれた物言いに神永は口角を上げた。
「……千歳ちゃんはさ、戻りたいと思ってる?」
「は?」
「D課(こっち)にいたくないと思ってるのかなってね」
青信号で車を発進させる。千歳は、言葉の真意を図りかねるように眉根を寄せたが、神永を一瞥すると嘆息した。
「少なくともストレスが軽減されそうなので、戻りたいですね」
「うわお、辛辣だね。寂しくて俺泣いちゃいそう」
「……ふふ」
戯けた調子で肩を竦める神永の耳朶を、千歳の小さな笑い声が打った。ぱちりと目を瞬かせた神永が視線を彼女に遣れば、酷薄の笑みを浮かべた彼女は神永に歪めた口元を見せた。
「《嘘吐き》」
しかしそれは一瞬で、直ぐに能面を被った女の顔がフロントガラスへと向けられる。変わらない横顔を呆けた様子で見つめていた神永は緩慢に車窓の外へと視線を移した。
眉根を寄せて、目元を歪ませて、作られた不格好な笑み。物言いたげな相貌は、ひどく──
(……嫌なことを思い出す)
車体に打ち付ける雨粒の音が、やけに耳についた。
*
後藤拓真宅から百メートルほど離れた路上駐車場に車を停め、千歳と神永は指定された通りで待機していた。甘利と田崎の尾行を引き継ぎ、自宅までの二百メートルを千歳と神永が、自宅到着後の流れは佐久間、小田切、福本が請け負う。その後、二人は後藤の逃走を防ぐため裏口と中庭で待機する予定だった。
待機場所で待つこと十五分、前方を田崎が、後方を甘利が挟む形で後藤は現れた。神永と千歳の手前で先に田崎が、十メートルほど先で甘利が離れる。千歳は後藤の後方二十メートルほど、神永は前方に付けて住宅街へと進み、後藤宅手前のアパートに神永は姿を消した。
千歳はそのまま後を付けて後藤が自宅の玄関を開けて中へ入ることを確認すると、佐久間に連絡を入れる。
「後藤は自宅へ戻りました」
『分かった。千崎と神永は裏口へ回れ』
「了解」
後藤宅は中古の一軒家だ。もともとは祖父母と住んでいたらしいが、既に他界していて今は後藤一人しか住んでいない。駅も近く立地が良い上に小さな庭付きの家だった。
千歳が塀を伝って裏口へと回れば、既に神永が待機していた。
「裏口は千歳ちゃんに任すよ。俺は居間の窓のところにいるから」
「了解しました」
逃走経路はひとつではない。故に自宅内、外、近辺に人員を配置して事を運ぶ。
佐久間がインターホンを鳴らす音が耳朶を打った。数度鳴らしたが応答はない。気取られたかと思案したが、佐久間達が玄関扉を開ける音がした。
雨足が強まる。ウインドブレーカー越しに打ち付ける雨粒の音が煩い。大音量の雨粒のオーケストラを聴き流しながら千歳は思案した。
後藤を確保後、課の取調室へ連れ帰り、そこでの取調──もとい尋問を担当するのはおそらく三好だ。リストのアドレスの入手経路はおおよそ見当が付くため、聞き出すのは動機。動機が解明されれば上に報告し、あとは沙汰を待つ。情報の使い方を決めるのは自分達ではない。今も昔も、情報をあげるのが自分達の──『待て!』
(……佐久間さん?)
焦慮に駆られた一声が強く鼓膜を揺らした。物思いに耽っていた千歳は声に体が瞬時に反応できなかった。
その、一瞬の遅れは千載一遇の好機となる。
千歳の視線の先で勢いよく裏口が開いた。スローモーションのように見えたその視界の中に入ってきたのは、大柄な男だった。黒パーカーにジーンズ、目深に被ったキャップのせいで人相は窺えない。
しかし、男が少なくとも一般人ではないことは手に持った銃とサプレッサーで理解できた。
男が隠れた相貌を千歳に向ける。同時に、ぞわりと背筋が震えた。生存本能が告げた直感、殺意を検知した千歳の脳だが、彼女の判断は遅れた。
そのコンマ単位の判断時間が命取りとなる。
理解した時には銃口は真っ直ぐ千歳に向けられて、遮蔽物となる物陰に身を潜める間もなかった。何故、ここにそんな物を持った人間がいるのか。中にいるはずの後藤はどうなったのか。発砲音は、雨音でかき消されたのか。誰か撃たれたのか。中のメンバーは。
錯綜する思考が脳からの伝達信号を鈍らせた。向けられた銃口が一寸先の未来を知らせているというのに、千歳は動けなかった。
男の指先がトリガーを引いて──
「千歳!!」
耳朶を強く打った声と共に目の前に影が落ちる。肩を強く抱かれ、腕の中に閉じ込められた刹那、破裂音が雨音を切り裂いた。
「……え」
鮮血が体躯の先に見えた。視認した時には、自身を抱きしめる体ががくりと崩れ落ちる。
短い神永の呻きに、千歳はようやく反応した。崩れ落ちそうな体躯を体全体で支えつつ、腰のホルスターからベレッタを抜き、迷うことなく引き金を引く。利き手ではない左手で撃ったため、弾は狙った脚ではなく地面にめり込んだが、怯んだ相手に隙が生まれた。「千崎!」と屋内から聞こえた佐久間の声に、相手は千歳達に背を向けると一目散に撤退した。
「…追いかけて、千歳ちゃん」
「神永さん…っ、でもっ」
「いいから」
膝をつき、肩口を押さえる神永を支える。「ヘーキだよ」と歯を見せた神永に千歳は逡巡したが、佐久間と小田切が駆けつけたため、ぐっと迷いを呑み込んだ。
「すみません! あとをお願いします!」
逃げた方角の地図を脳内で俯瞰する。車両で逃げられたら追いつくことはできない。仮に車両だとしたらナンバープレートも偽造だろう。
塀を乗り越える瞬間、曲がり角で相手の背中を視認した。上背がかなりある、大柄な男だ。
『各位に次ぐ。マルタイ死亡、殺害された。犯人は水道橋方面に逃走。上は黒の無地のパーカーにキャップ、下はジーンズの大柄な男だ』
マルタイ、即ち後藤拓篤の死亡。イヤホン越しの佐久間の硬い声に一同に緊張が走ったのが伺えた。
重要参考人の後藤の死亡。これで後藤が事件に関わっていたことは疑いようがなくなった。リストの人間に爆破予告を送りつけた本人だとしたら、後藤の存在そのものを疎む、リストの意味を知る人間が後藤を消したことになる。
必ず、確保しなければならない。
車両での逃走ならNシステムで車両特定できる。偽造ナンバーだろうが、主要道路に張り巡らされた監視カメラの目から逃れるのはよほど土地勘がなければ不可能だ。
故に、多くの単独犯は移動が制限される車ではなく、各地下鉄を渡り歩くことが多い。乗り継ぎ、駅間を歩き、また地下へと潜る。捜査支援分析センター(SSBC)の創設により、防犯カメラの映像解析技術は飛躍的に向上したものの、カメラのない死角を動かれればせっかくの眼も意味がない。
道行く通行人が何事かと振り返る。人の往来が盛んな通りをスピードを落とすことなくすり抜けていく男の動きはとてもただの物盗りのそれではなかった。
逐一、犯人の逃走経路を無線で報告する。しかし、路地を抜け、建物内に入り裏口から逃走し経路を絞らせない。数人程度で楽に捕まえられるほどの相手ではないらしい。
予測のつかない上に底無しの体力とも言える犯人の逃走力に千歳の息が上がり始めた。
『っ、今、白山、通りに…』
雑居ビルの裏口を出た犯人の位置を無線で伝える。その背を追い、外へと飛び出した千歳はしかし足を止めざるを得なかった。
「……っ!」
そこは大勢の人で埋め尽くされていた。人人人、通りに溢れる群衆と天候の悪さも相まって男の背中が徐々に離れていく。
若い男女が興奮冷めやらぬ様子で歩く姿が散見された。故に、人混みに紛れ早足で往来をかける男のことなど誰も気に留めない。
ここまでの人混みは何だと思案したが、それも一瞬だった。群衆が出てきている先にあるのは、日本随一の収容人数を誇る、ドームだ。
そういえば、数日前から報道されていた。人気バンドのコンサートが、十年ぶり──
(やられた)
"これ"を知っての、逃走経路だったのか。
「……こちら千崎。対象を見失い(ロスト)しました」
『こちら波多野、悪い動けねえ』
『甘利同じく。人多いし雨だし傘だしで最悪だね、こりゃ』
『タイミングが悪かったな。いや、良いと言うべきか』
追跡していた波多野、甘利、田崎の声が無線に入る。
『……実井、水道橋の防犯カメラの映像を追えるか』
『言われると思って今解析していますよ。ただ、個人の物は使えないのでこちらが設置している物とネット回線通しているものに限られますが』
『構わない。……一旦、全員撤収しろ』
硬質な佐久間の声に滲む苛立ちに、千歳は自然と奥歯を噛み締めた。男が去った方角を睨みつけ、しかしどこにも見えない後ろ姿に忸怩たる想いが込み上げて拳を強く握る。
(追いかけていたのが、自分じゃなければ)
頭を過った思考にハッと目を見開いて首を振る。意味のない考えだ。終わったことを嘆く暇はない。
「おい、ぼさっとしてんな」
「え、…わっ、」
後頭部に鈍い痛みが走った。同時にぶっきらぼうな声と共に、波多野が千歳の横に立つ。「帰るぞ」と親指で指した先には甘利、田崎の乗った車が道路に横付けしてあった。
動きが早いと感心しつつ、しかし千歳は踏み出しかけた足を止めた。「千崎?」と訝しむ波多野に「先に帰ってて下さい」と微笑むと、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。くるりと来た道を歩きながら電話した相手は、佐久間だった。
「佐久間さん、すみません。教えていただきたいんですが──」
*
地下鉄を乗り継いで数十分。白を基調とした、こじんまりとした建物に千歳はやってきた。
警察病院ではない民間の病院。結城理事官が懇意にしている医者が経営している施設の一室に入った千歳は、雨粒打ちつける窓に視線を遣っている神永に近づいた。距離を詰めるにつれて消毒液と匂いが鼻をつく。
「佐久間さんから聞いたよ。大変だったね」
視線を据えながら話す神永に、千歳は一度目を閉じると「すみませんでした」と深々と頭を下げた。
「私の不注意で神永さんを負傷させました」
「謝んないでよ。俺としてはヒーローみたいに女の子助けてけっこう優越感に浸れたし、悪くはないでしょ」
「ほら、頭上げて」と促され、頭(こうべ)を上げる。手招きをされ、ベッドサイドの椅子をトントン叩かれたため隣へ腰を下ろした。鼻につく消毒液の匂いに釣られて嫌でも数時間前のことが思い返される。
患者服から見える包帯に視線がいった。
「……でも、痛いのは変わりません」
負傷したその時の出来事は網膜に焼き付き、記憶に鮮烈に刻まれた。
「皆さんは化け物じみてますけど」
「酷くない? それ」
「でも……同じなんです」
自然と拳を握る。傷口に遣られていた視線が、神永に向けられた。
痛みは、いつだってそこにある。
誰にだって、平等に感じられる。
「痛かったでしょう?」
生きてるから、痛い。
生きていれば、痛みは感じる。
死んだら、そこで終わりだ。
「それだけは、変わらない。痛いのも、苦しいのも、人間だから、だから──」
化け物であっても。
《死は、平等だ》
奥底で、魔王の面影が囁いた。
「……大袈裟だよ」
ふっと神永は笑い、「擦り傷だって」と傷口を軽く小突いて見せた。途端に顔を顰めたため慌てる千歳に「平気平気」と歯を見せる。
「大丈夫だって。……それに、言ったでしょ。これは俺のためでもあるの」
「……神永さんの?」
「そう。だってさ、」
神永は、綺麗に弧を描いて紡いだ。
「目の前で"仲間"が撃たれて死んだら寝覚悪いでしょ?」
さも、当たり前と言う風に宣った神永に対して、千歳は一瞬目を丸くしたが、直ぐに視線は鋭さを帯びた。
「それは、本心ですか」
眇められた目は神永の真意を問う。
「皆さんに仲間意識なんてないでしょう。互いが、結城理事官の命令を効率よく遂行するための駒に過ぎない」
「言うねえ。さっきまでけっこう心配してくれてたのに」
「それは……」
それとは話が別だ。吐き出しかけた言の葉を飲み込み、千歳は口を継ぐんだ。
彼の負傷を案じたのは事実だ。肉が裂ける瞬間、硝煙と鉄の入り混じる独特の匂い、苦悶に歪められた相貌をさせたのは自身の不注意だった。守らせた、その一点と人間としての彼の顔に自責の念がないわけではない。
ただ、それが"寝覚が悪い"から、など。あまりにも陳腐で馬鹿げている。どうせなら、死ねば目立つと、そう──
《死は最悪の選択だ》
「……なら、どっちだと思う?」
思案していた千歳の意識を神永が引き上げる。「え?」と口を開いた千歳は、神永の問いに固まった。
「俺の言葉が本心か、それとも真っ赤な嘘か。千歳ちゃんから見た俺達はどんな道化(ピエロ)に見えているの?」
見定めるような瞳に視線ひとつすら動かせなかった。しかし、僅かに笑った神永に硬直した体は反応し、顔を背ける。
「……知りません」
「なら、どっちがいい? 本心か嘘か。君はどちらを望んでいるの?」
今度こそ言葉に詰まった。
神永の問いかけは、千歳を完全に捉えた。
「君の望む俺達はいったい何? 本当は仲間想いの問題児? 本心から互いを利用している狡猾な奴ら? ねぇ、……教えてよ」
千歳、と、耳朶を柔らかな声が打つ。
問いかける声に、視線を合わすことが、怖かった。
暴かれると、直感した。
"暴かれたくない"と、本能が叫んだ。
どちらを、望むということを深く考えたことはなかった。否、"考えないように"していた。
だってそんな、手前勝手な決めつけ、いや違う。これは、私自身の問題。
私の望む、仮面(ペルソナ)。
本当を暴きたいのは──
「わた、し…」
知ることで、自分は──【貴女】は。
「わたし、はっ」
──どんな彼らを、望む?
「……ごめん、意地悪しすぎた」
ごめんね、と謝罪する神永をおそるおそる見遣れば、彼は眉尻を下げて千歳を見ていた。どこか哀しげに下げられた眉尻に、千歳は胸が詰まる想いだった。
その表情すら、本当かどうか判別はつかない。
(……こんなの、意味なんてないのに…)
本心だったら、と、考えてしまう自分に嫌気がさした。
それ以上、神永も言葉を続けず、無言となった二人はただ時間を消費する。
「──もう、行きます。抜けて来ているので」
沈黙の帳が下りていた二人の間を、強引に引き裂いたのは千歳だった。
立ち上がり、背を向けた彼女は室内を後にしようとする。
「ひとつだけいい?」
その背に神永が声を掛けた。
取手に手をかけたまま振り返った彼女に、神永は先ほどと変わらない相貌で紡いだ。
「嘘吐きじゃないよ、俺は」
言葉の一つ一つに想いを込めるような口調だった。神永の相貌を千歳は見据えた。
「少なくとも俺は、嘘は吐かない。寂しいのも寝覚が悪いのも、本当だ」
「……ほんとう、ですか」
「本当だよ。これは、本心だ」
凛とした声が耳朶を打つ。真っ直ぐな視線を受けた千歳は、ふと交錯させていたそれを外した。
一瞬、言葉に詰まった彼女はしかし、神永に──微笑んだ。
「それこそ、……残酷です」
その声は、震えていた。
29.想いの先