千歳が本庁に戻ると解析用のパソコンの前で実井と三好、佐久間が液晶画面を確認していた。佐久間に戻ったことを報告すると神永の容態を聞かれたため、「思ったより元気そうでした」と早口で答える。実際、銃弾は三角筋に当たっていて上半身の動脈を傷つけたわけではなかった。「一週間程度で戻ってこれるでしょう」と冷然と言い放つ実井に佐久間が冷や汗を浮かべたが、「数日あれば問題ない」と被せた三好に顔を青くしたので、心内で合掌した。
ディスプレイには複数の防犯カメラの映像が映し出されている。佐久間曰く、カメラに映り込んだり、死角をついたりと逃げ路を絞らせないように移動しているとのことだった。厄介な相手どいうことが嫌でも伝わり、千歳は顔を伏せた。
「……すみません、駅に入られる前に確保していれば」
「いや、あの場の人員だけでは困難だった。君だけの責任じゃない」
顔に影を落とした千歳に佐久間がすかさずフォローを入れた、が。
「謝罪されたところでフォローするのが面倒なので、その辛気臭い顔を洗ってきてもらえませんか」
柔らかな佐久間の声とは対照的に辛辣な言葉を投げつけたのはディスプレイを見ていた実井だった。ギョッとする佐久間をよそに、彼は一度目頭を押さえて天を仰ぐと千歳を睥睨した。
「貴女ひとりがどうこうして対処できるなんて思っていたのなら思い上がらないことですね。逃げ果せると思っていましたよ、こちらは」
「おまっ、実井!」
「人員を割いていなかった上に天候不良、おまけにあの人の流れ。犯人があの時間を狙っていたのなら、準備をしていないこちらが出遅れるのは当然です。まぁ、相手にとっても僕達がいたことは想定外だったでしょうが、あの時間を選んだのは少なくとも他の人間がいた時の保険でしょう。どちらにせよ、過ぎたことです」
一気にピシャリと言い切った実井に佐久間も口を噤む。閉口した二人に実井は「ですが」と続けた。
「カメラの死角をつこうがつかまいが、いずれ割り出せます。映らないのなら逆に路は絞ることができる」
コキリと指が鳴らされる。口角を上げ、眼を細めてディスプレイに向き直った実井の瞳はぎらついていた。「腕が鳴りますよ」と笑みを浮かべる実井の顔には多少の疲労が色が見られるが、指は軽やかにキーボードを叩いた。
(……これは、フォローなのかな)
そんな生優しいものではないかもしれない。が、「さっさと行ってください。貴女がいても意味はない」と苛立ちを込めた声音で言われれば、頭を下げて部屋を後にするしかなかった。
犯人を確保し損ねた後、そのまま神永のもとへ向かったため、ウィンドブレーカーは湿気を帯びている。冬の雨は凍てついていて、濡れた頭髪は乾いたものの、体は冷え切っていた。
顔を洗った後、両腕で体を抱きながら仮眠室へ入る。暖房をつけると同時に、三好も室内へ入ってきた。
「シャワー浴びて仮眠でも取るといい。神永の手術が終わるまで、その体で待っていたんだろう?」
「…他の皆さんは?」
「実井の解析が終わるまでは待機命令。空き部屋で仮眠でも取っているだろう。何人かは帰ったがな」
犯人の居場所を掴めば全員が動くことになる。指示班の佐久間、ルート選定の実井を除いた八人…否、七人での確保だ。
休めるうちに休む。いつ動きがあるか分からない。
三好に一言断り、シャワー室へ向かった千歳は湯の温度を四十度近く設定した。冷えた体が一気に熱を上げ、緊縮した手先が緩んでいく。
掌に残っていた冷えた体の感触が洗われ、熱が体に戻る感覚がした。
──神様っているんでしょうか。
ぽつねんと呟いた彼女に彼はきょとんと目を丸くした。虚を突かれた相貌に彼女は穏やかに笑むものだから、彼は少しだけむっと眉を顰めたがすぐに澄ました顔を作った。
《Gott ist tot. (神は死んだ) 論ずることそのものに価値がないですね》
《私たちが、【殺して】しまったから?》
《分かっているなら聞く必要がないでしょう?》
肩を竦めた彼に彼女は苦笑した。
科学技術が進歩し、人は神を否定し始めた。
ニーチェは著書、『Also sprach Zarathustrat』の中で己の分身であるツァラトゥストラを使って人々に神の死を説いた。
始めと終わりを描いている神への挑戦。生きる指針を決めていた社会への反抗。
《神は人が作り出した虚構にすぎなくて、超人的な何かは存在しない。ふふ、三好さんはお好きでしょうね》
《……どういう意味ですか、それは》
彼女は、ツンとした彼に優艶に微笑んだ。
《とってもひねくれていて、でも…とっても人間的だなぁ…て》
茶目っ気のある瞳が彼に向けられて、彼はひとつ大きくため息を吐くと、彼女の躰を抱き寄せた。
月明かりが格子越しに室内を照らす。しっぽりとした空気にのまれるように二人の躰が重なり、ところどころ見える露出した肌が淫靡さを醸し出していた。
嬌声が響く。くぐもった声が耳朶を打つ。熱気は肌をなぜて、淫猥な匂いは鼻孔を抜けていった。
《──私、神様っていると思っているんです》
一糸纏わぬ彼女は三好の背中にぴたりと肌を重ねて囁いた。意図を悟らせない口ぶりに、三好は《なぜ?》と問う。
彼女は、いとしそうに答えた。
《そのほうが、幸せだから》
背中から回した手が、三好の心の臓を撫でた。
《分からないことは、ぜんぶ神様のせいにしていいから》
その声は震えていた。
鈴の音のようなか細い声に三好は、勢いよく振り返ると彼女を組み伏せた。
視線が交錯して、彼女が息を呑む。言葉を発しようとした口はしかし逡巡の後に閉じられた。
《三好さん》
──ごめんなさい。
「……三好、さん?」
目元に感じた掌の感触に目を覚ます。ぼんやりと不明瞭な視界の中でも彼の顔を視認できた。
シャワーを浴びた後、ソファに深く沈みこんだ体は途端に眠気に襲われ、そのまま意識を飛ばしていたらしい。
短い夢見の後に目を開ければ、彼が目の前に屈み、己の目元をぬぐっているのだから千歳は状況把握できずに混乱した。目を瞬かせる千歳をよそに三好は顔を背けると向かいのソファに腰かける。
上体を起こした千歳は肩からずり落ちかけた毛布を慌てて掴んだ。数秒それを見つめた後に三好を見やれる。何食わぬ顔でスマートフォンを操作している。
「あの、これ」
「体を冷やしたくせにそのまま寝てどうする」
「……はい…すみません」
やはりかけたのは彼なのか。何の気まぐれだと首をひねった彼女だが、聞いたところで意味はないかと自身を納得させた。
シャワーを浴びて二時間は経っている。実井の作業がまだ続いているのかと起き上がり、作業部屋へと戻ろうとした矢先、三好が独り言のように問いかけた。
「神永は、君を庇ったと聞いた」
ドアノブに伸ばした手が止まる。
真一文字に結んだ口をゆっくり開いた。
「……私の、不注意です。異変は察知できたはずなのに反応が遅れました」
「だろうな。……だが、意外だった。あいつが他人を庇うとはな」
「寝覚めが悪いと、言われました。庇ったのはただ自分がそうしたかっただけと」
「ハッ。寝覚めが悪い? あいつが言ったのか?」
ありえない、という風に鼻を鳴らし、首を振った三好にしかし千歳は俯く。
嗤う彼に振り返ると、その瞳を見つめた。
「嘘じゃなくて本当にそう思っている。自分は、嘘は吐かない。神永さんは、そう…言ってました」
本心か嘘か、どちらを望む。
リフレインする神永の問いが千歳の顔に影を落とした。
嘘ではない、本心から彼は千歳のことを案じた。案じたからこそ、身を挺して彼女を守ったと、口にした。これは本心で、嘘偽りない真実であると。
──ありえない。
峻拒する脳はしかし判断を下せられない。
孤独を愛し、孤独を受け入れ、自分ならばという自負を胸に虚構の世界を生き抜いてきた男達。その魂が宿るはずの人間が吐いた言葉としてはあまりにも──
「くだらない」
ひどく、冷めた声音が千歳の耳朶を打った。底冷えする声に体が緊縮する。
声の主を、三好を見遣れば、俯き気味にゆったりとソファから立ち上がり、口元を歪めていた。「三好さん?」とおずおずと問いかけても、視線は交錯しない。
「あの、三好さん…」
「嘘じゃないだと? 嗤わせるな。【奴】ほどのペテン師が真実を吐く? くだらない」
「……え」
低く唸るような声の中で、三好の発した言葉に硬直する。
近づきかけた体を止め、三好を凝視した千歳に彼はゆったりと視線を移した。
「…っ、いっ…みよ、しさんっ」
刹那、距離を詰めた三好は千歳の腕を引くとロッカーに体を押し付けた。手首に力を込められ、痛みに顔を歪める彼女をよそに、荒々しい声を上げる。
「【奴】がそんな戯言を吐くのは、相手が君だからか。……君は、何を知っている」
「……な、にを」
「君も奴も、"俺"の認識外の何かを知っている。そうだろう」
確信を持った声に、咄嗟に取り繕うことは叶わなかった。
目を見開き、息を呑んだ千歳の表情に三好が舌打ちする。「話せ」と迫る三好に千歳は首を振ったが、三好はうっすらと目を細めた。
「……また、躾ければ思い出すか」
ぞわりと、悪寒が背筋を走る。躾という単語で思い返されるのはひとつしかない。
冗談ではないと、千歳は身を捩った。
仮眠室、しかも隣室には作業にあたる同僚がいる現状だ。彼がそこまで短慮なはずはない。
しかし、自分を押さえつける彼は明らかに正常ではなかった。仄暗い瞳の奥に光はなく、底冷えする相貌に言葉が詰まる。なぜ、どうして。疑問が疑問を呼ぶ中で、ふと千歳は気づきを覚えた。
「……思い出すって、どういうことですか」
躾ければ、思い出す。その主語は、文脈からして彼だ。
思い出す。言葉が意味するところはひとつしかないのではないか。
千歳の問いかけに三好は答えなかった。代わりに逸らされた視線が言葉以上に彼の心情を語っていた。
「三好さん」と再度問いかけた千歳の腕を掴む力が強められる。顔を歪めた千歳に三好は感情を削ぎ落とした声を出した。
「質問しているのはこちらだ。君は何を知っている? 俺の知らない何がある?」
「っ、それよりっ、思い出すって何ですか。なんで、そんな……一体なにをっ」
「そんなことはどうでも」
「よくないっ!」
冷たい三好の声とは対照的に、千歳は彼の言葉を感情で遮った。ピリリと空気を揺らした声音に三好の詰問が止まる。
「ふざけないで…自分だけ腹の内を見せずに散々振り回して、なのに、思い出したって…なんなの、それ」
内に押し殺していた感情が溢れ出していた。
知らなかったはずだ。思い出していなかったはずだ。かつての記憶を置き去った彼は己のことを綺麗さっぱり忘れている。
忘却の彼方に手が届かない彼に、優越感を覚えていたのは事実だった。なぜなら、そう──
"千歳"は彼を愛していたのだから。
その感情は千歳の記憶に刻まれ、発露が自身であるかのように錯覚するほど鮮明だった。
故に、覚えていないというのは心が落ち着いた。
"千歳"は彼を愛していた。
しかし、想いあっていたかは定かではなかった。
「貴方も、神永さんもみんな…人のことを暴いてそれで終わり…? 自分達のことは悟らせないなら、そんなの私にはどうしようもないじゃない。私は、」
──わからないことはぜんぶ。神様のせいにしていいから。
あの言葉は、彼女の精一杯の足掻きだった。
手の届かない不確実な感情。しかし暴かれる己の内実。利用されているのか、遊ばれているのかすら分からない中でそれでも彼女は愛していた。
女は殺すと魔王は口にした。感情に揺り動かされ、論理的思考を放棄した選択を取るのが女だと論じた彼の言葉は間違ってはいなかった。順序立てて選択を絞っていく思考体系から外れた感情、特に愛情は最も厄介なものの一つだということを、彼女は理解していた。
《それでも、これだけは私のもの》
しかし彼女は、愛していた。
彼女は愛していた、三好という人間を。彼の本質を理解【してはいけない】と分かっていながら彼を愛した。
彼が自分を愛する演技をしていようと構わない。人形と思っていても良い。理解できないことは、神のせいにすれば良い。
しかし、自分の感情だけは本物なのだ。彼らとの生活が全て虚構の上に成り立っていたとしても、彼らを見る自分の心だけは何人にも侵せやしない。
(そんなの、貴女の我欲(エゴ)だ)
作られた環境で感情を操作され、都合良く使われているに過ぎない。それを理解した上での思考なら、それは手前勝手で惨めな我欲に過ぎない。
それでも彼女は、千歳に微笑むだけだった。
「私は、」と言葉を続けようとした千歳はしかし口を噤む。感情的に問い詰めたところで意味はない。彼も、自分もまた冷静ではない現状ではまともな話ができるわけがなかった。
「──お取り込み中のところ悪いが、実井がお呼びだ」
ガチャリとドアノブをひねる音がしたかと思えば、勃然とした波多野が二人に声を掛けた。意味深に細められた眼。その視線が千歳に、そしてロッカーに縫い付ける三好へと向けられる。
お取り込み中、という単語に悪意を込めた言い方に三好がバツが悪そうに千歳から身を引いた。拘束が外れた千歳は脱兎の如くその場から離れて波多野の横をすり抜け、作業部屋へと走り去る。
後ろ姿を横目で追った波多野は、拳を握りしめた三好にせせら嗤った。
「二度目は失敗か?」
「……煩い」
「やるなら外でやれよ。お前がヤった部屋で仮眠をとるなんざごめんだ」
皮肉に口元を歪める波多野を睥睨した三好は、舌打ちをすると「黙れ」と一言、低く唸るような声を発して作業部屋へと向かった。
波多野はやはり、ニヒルに笑むだけだった。
「監視カメラの映像を分析した結果、マル被は台場方面に向かったことが分かりました」
プロジェクターに映し出されたのは、水道橋から台場までの地図と犯人が辿ったと思われるルートだった。
ポインターが指しているのは、臨海副都心、青海。
場所を指し示しながら実井が説明する。
「マル被は地下鉄、個人タクシーを乗り継ぎ最終的にこの埋立地に行ったことが、海運業者の倉庫カメラから分かりました。オリンピック需要を見込んで建設が進められていた大型複合施設の一角ですが、地元住民からの反対運動と元請企業の業績不振が重なって開発が頓挫。今はただの資材置き場になっている場所です」
「業者しか入っていなかったところに建設計画の頓挫となるといよいよ廃墟に近くなるな」
波多野がくっくと喉を鳴らした。
なるほど、人目を避けて活動するにはもってこいの場所だ。施設面積もさることながら、建設用の資材置き場が幾つもある。人が簡単に立ち入る場所でもないため、施設内に監視カメラなど存在しない。
対象の居場所が分かったところで、佐久間が面々を見渡した。
「二班に分かれる。甘利、田崎、波多野、福本はモール街を。三好、小田切、千崎は資材庫をローラーしろ。実井は庁舎内で待機、奴を逃した場合の対応を頼む」
「公安に応援要請した方が良いのでは?」
ディスプレイを見つめていた三好が佐久間に問いかける。思わぬ提案に面食らった佐久間だが、短く嘆息すると首を横に振った。
「逆だ。要請をかけたが断られた」
「……それは、」
「公安部長より上からのお達しだそうだ。結城理事官が鼻で笑っていたよ」
結城理事官曰く、色々と困るところがある、とのことで、肩を竦めた佐久間に一堂は皮肉を含んだ笑みを浮かべる。
困る、の意味するところは大方予想がつく。
まず第一にD課は上層部からの評判がすこぶる悪い。理事官直轄の作業班という過去に例を見ない人事は反発も起こったが、結城理事官が上層部を黙らせたことは千歳も小耳に挟んでいる。
困るというのはその意味合いも多分に含んでいるだろう。
「増援が期待できないならできないなりのやり方を選択するだけですよ。逃走した場合の経路も取り敢えずは選定してありま……」
す、と言い切る前に実井の眉間に皺が寄った。寄った意味を理解するのに、時間はかからなかった。
実井の視線の先、ディスプレイに突如、ブロックノイズが散りばめられた。瞬く間に広がったそれは、映像を送り続ける監視カメラの映像をひとつまたひとつと潰していく。
「これはまた、面倒なことになったね」
昼行灯のような甘利の声音とは対照的に実井は鉄仮面を被って作業に当たっていた。
無言でコマンドキーを叩く実井に視線が集まる。カタカタとノック音が切れ間なく流れる中、「実井」と佐久間が焦慮に駆られた声を出した。
実井は軽く舌打ちする。
「プログラムがランタイムエラーを吐き出しています。応答を拒否されていますね。非認証コマンドで上書きされている。ハッキング…いやウイルスか」
「ここの回線、本庁から切り離された独自のものだろ? 保守も協力業者しかできないやつ」
「やり手だねぇ」
半ば感心している面々に対して焦りを見せているのは佐久間だけで、対処している実井も既に涼しい顔を見せたいた。
「解析プログラムも応答拒否。ちょっとこれは復旧まで時間かかりますよ。やってくれますね」
「何とかなるのか?」
「ネットワークは遮断しましたし、必要なデータ類はスタンドアローンの方に常時移動、保管してありますから特段の問題はありません。けれど、本体の掃除と相手の特定に少し時間がかかりますね」
若干、弾んだ声音なのは気のせいか。ちらりと千歳が視線を走らせると、実井の口元が僅かに歪み、眼は爛々と輝きをチラつかせていた。
新しいオモチャ、飽きない好敵手(ライバル)、相手をそう定義するような様相に内心溜息を吐く。
「各班の指揮は、甘利、三好が取れ。準備が整い次第、状況を開始する」
30.感情の行方