記憶の中の彼らはいつも笑っていた。種類は違う、嘲笑、冷笑、微笑、大笑。様々な笑いを彼らは顔に貼り付けていた。
それは彼らの矜持だったのかもしれない。なんてことはない、と笑って全てを受け流し、軽やかな足取りで世界を駆けることが彼らにとっての常でなければいけなかった。
彼らは化け物であった。しかし、自分ならば出来なければいけない、と疑わないその姿はひどく人間的であった。
『千歳さん』
『千歳』
『千歳ちゃん』
掛けられる彼らからの声、眼差しを『私』は静かに受け止めていた。彼らの真意も、想いも何もかもを呑み込んでただ彼らの全てを受け入れていた。
嘘か真か、そんなことは関係がない。
「虚構の世界に意味なんてあるの?」
問うた私に響く言葉。
『偽の経歴とカバーの人格。それがなんだと言うんですか』
私から発せられる言葉。
そう、彼らと同じだった。なんてことはない、と『私』は笑っていた。
二度と帰らぬ彼らを、明日を生きるその姿を目に焼き付けた日々は『私』にとって、ーー
寝覚めの悪さに千歳は顔を歪めた。掛け時計が示す時間は起床より2時間ほど早い。時間になれば自ずと目覚める体内時計が狂う筈はなく、彼女は目覚めてしまった原因をじろりと睨みつけた。
電子音と振動。画面に映っているのは『取引先』の文字。鳴り止まないそれに舌打ちをすると、乱雑にそれを掴んだ。
『何コールかかってるんだい、君』
通話ボタンを押すと同時に耳に入ってきたのは若い男の声。
電話の向こうにいるその人物に千歳は吐き捨てた。
「……今何時か分かっていないなら今すぐこの電話を切る」
『日本だと朝の4時かな?ニホンジンは仕事熱心だからこのくらいの時間に起きるんだろう?何だったかな……あぁ、シャチクだっけ?』
「下らない俗語ばかり覚えないでくれる?」
『流行りの言葉は世相を表すからね。覚えておいて損はないだろう?』
電話越しに伝わる皮肉めいた笑みに千歳は眉を顰めた。
カーテンの向こうからまだ朝は迫っていない。闇が支配する時間ではあるが、既に目は冴えてしまった。
電話の主に悪態をつきながら起床する。初夏の足音が近づいてきているこの季節の朝は時折ひやりとした空気を孕んでいた。
「……ひとつ確認なんだけれど、」
千歳はベッドから身を起こすと、スマートフォンをスピーカーに切り替え声の主に問いかけた。
『何だい?』
「この回線は傍受済み?」
低く探るような声音を出せば、電話の先で一呼吸置かれる。たった数秒の間さえ、彼らにとっては駆け引きだ。
『疑り深いところ悪いけど、この会話聞かれてたら俺だってタダじゃ済まないんだから』
「そう?そうとは思わないけど」
『どういうことだよ』
パサリと寝間着を床に投げ、下着を着ける。
「同盟国の協力員の情報を上げることが、CIAの優秀な工作員さんの仕事でしょう」
何気ない風を装い再度念を押すと、ハァ、とわざとらしい溜息の後に続いて憮然とした声音が届けられた。
『情報は精査して上げるものだろ?それに、俺たちに漏らすようなヘマを君はしない』
無闇矢鱈に情報を上げはしない。そこに価値があるかないか、それを見極めた上で見越した上で傍受はしないと意味がない。
ーー分かりやすくて助かる。
鼻を鳴らす相手に千歳は薄く笑みを作ると、手にした端末を洗面台の端に置いた。ノズルを捻りまだ肌を刺す冷たさが残る水を顔に打ち付ける。
「まぁ構わないけど。それで、どうだったの?」
基礎化粧品で肌を整え、手早く歯を磨きながら端末に向かって問いかければ、
『準備が終わってから喋りなよ』
呆れ声が返ってきた。
「そもそも、貴方がこんな時間に掛けてくることが悪い」
『だから起きてると思ってたんだよ』
ごめんって、と悪びれた様子もない声音に何度目かの溜め息が千歳から漏れた。購読している新聞は3つほど。地方紙、全国紙、経済紙。それらの紙面の文字を追いながら『取引先』との会話は続けられた。
「もういい。それより、頼んでいたことは分かったの?」
『そうじゃないと傍受回線を避けて君に電話なんかしないよ。人使い荒いんだから』
「今度こっちに来たら労ってあげる。それで?」
続きを促す千歳に電話の主は一等声を低めた。
『エシュロンに引っかかった通話履歴、メール履歴はなかったよ。相手さんは、こちら側のことをよく知っている人間だ』
その情報に千歳は、やはり、とひとつ息を吐いた。湯気の立つカップに手を遣り喉を潤せば同時に身体の芯から温まる。
エシュロン。世界的な通信傍受システムである。赤道上に配置された商業通信衛星の電波を受信し、無線や携帯電話などあらゆる電波を傍受している。
さらに、インターネット上で世界中の電子メールとファックスも傍受しており、全世界で使用される通信の90パーセントが受信可能という試算も出ているなど正に世界の情報を牛耳る存在だ。
主体の運営はアメリカのNSA国家安全保障局だが同国はそれを認めてはいない。
そんな、最強の盗聴機関の目を掻い潜る輩が現れた。
「薄々分かっていたけれど、素人ではないのね」
『そりゃあそうだろ。というか、君ら公安が僕らに依頼するくらいの人間だし。こんなところで引っかかるようならわざわざ此方に頼まないだろ?』
「まぁ…それもそっか」
嘆息した千歳は改めて紙面に視線を落とす。新聞の一面に大々的に載せられた文字に目が細められた。
『国の政経のトップに爆破予告なんて大胆なことしでかすなんて、最高にクールだけどね』
外野は状況を楽しむだけだ。
カラッと楽しげな声音を寄越す『取引先』に感じた僅かな苛立ちに、千歳の指は通話終了ボタンを押した。
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4.胎動する気配