ーー綺麗な人だと思った。
男にしては赤過ぎる唇はどんな妖艶な女も嫉妬するほど艶めかしく、その微笑みは女だけではなく男でさえも魅了した。
三好という名が与えられた彼はたいそう美しく、初めての邂逅で見せた怜悧な笑みに千歳は震えたのだ。
線の細い身体と思いきや、男らしく程よい筋肉のついた肢体。しかしワインレッドのスーツを纏った彼はそこらの男連中よりよっぽど魅力的であった。
息を呑むほどのその姿に見惚れていた千歳の意識に男は、三好は形の良い唇を歪めた。
「初めまして」
彼のその姿が、彼本来の姿なのかは分からない。カバーとして渡された人格を演じているだけかもしれない。
けれど、と千歳はかぶりを振る。
ーーそれでもこの美しさは本物。
彼という存在がひどく面白く、興味深かった。
それが、『千歳』が彼に抱いた初めての印象だった。
小銭を入れ点滅するボタンの前でにらめっこをする。コーヒーか紅茶か、そんな至極単純な選択に時が過ぎる。どちらでも大差は無いが、千歳のルーティーンとして毎日代わる代わる紅茶とコーヒーを飲んでいる。
昨日は紅茶だったから今日はコーヒーにしよう。人差し指がボタンに触れようとした刹那、
「遅え」
ぬ、と背後から伸びてきた腕が指したのは彼女が選ぼうとしたもの以外、微糖の缶コーヒーだった。ガランと無情に出てきた品物を一瞥し、千歳は抗議の視線を遣る。
「私甘いコーヒー嫌いなんですけど」
「さっさと選ばねぇからだろ。遅えよ」
「せっかちな男ですね、器の小ささが知れます」
「可愛くねぇ女」
「取り繕う必要がありませんから」
殺伐とした会話を交わす。手にした缶コーヒーは仕方がないと蓋を開け、ほの甘い千歳にとっては苦手とする味を喉に流し込んだ。
やはり甘い、と右手に握る無機物相手に顔を顰めた刹那、握っていたはずのそれは己が手から離れた。するりとあまりに鮮やかに離れたものだから一呼吸置いてから状況を理解した。
ごくりと喉が潤される音が届く。隣に立つ小柄な男は何食わぬ顔で千歳が購入したはずの微糖のコーヒーを飲んでいた。
最早憎まれ口すら叩く気にもなれない。呆れた視線に気付いた彼は口角を上げた。
「いらないんだろ?」
奇人変人、社会不適合者の掃き溜め。
警視庁特殊事件捜査部、通称D課の一員。それが千歳の目の前で人の購入品を悪びれる様子もなく奪った波多野亮祐という男だった。
「貴方にあげるくらいなら飲むか捨てますので返して下さ、」
「ほらよ」
ずいと目と鼻の先に突きつけられたのは、千歳の望んでいた品だ。
「同じメーカーのコーヒーと紅茶を毎日代わる代わる飲むなんて変人、中々いないからな」
「……貴方に変人と言われる筋合いはないです」
乱雑に目の前の品を受け取る。不遜なその態度に何処か満足したのか、波多野は喉を鳴らして笑うと傍の長椅子に腰掛けた。
資料整理の合間に千歳は度々この場所に来る。人気もなく何か考え事をする際には最適の、仄暗い空間。
仕事のことを考える際にはうってつけだ。記憶として蓄積した統計データを分析する作業はデスクでなくても出来る。
千歳はちらりと波多野を見遣った。
とんだ邪魔が入った。千歳にとって彼らは極力会うことを避けたい輩だった。
ジジ、とジャックされた視界と重なった相貌は寸分違わない。皮肉めいた笑みと垂れた眉、ただ少し背は高くなったか。
ーー変わらない。
だから嫌なのだと手の中のものを喉に流し入れる。ほろ苦い味が咥内に広がった。
「お前が持ってきた資料さ」
徐に口を開いた波多野が虚空を見つめながら紡ぐ。
「意外と役に立った」
目を丸くしたのは久方振りだ。千歳は彼、彼らに似つかわしくないその発言に首を捻った。
「どうしたんですか」
「は?」
「らしくないですから」
「お前なぁ」
「だってそうでしょう。他人を認めるなんて死んでもしなさそうですから、貴方方は」
今も昔も。
そう言いたい言葉を飲み込み代わりにコーヒーを喉に流し込む。
噂で聞いたD課の評判は、ゴーイングマイウェイ。帳場に現れたと思いきやいつの間にか居なくなる。捜査の報告は各々だけで合同捜査なんてやった日には情報は他部署に届かない。
散々な言われようだった。
(…まぁ、私達も変わらないか)
そう思い直して千歳は苦笑する。
事件を未然に防ぐ、個人を足掛かりに1つの団体、組織の全貌解明などを目的とした公安部と、事件が起きた後に個人を確保する他の部署は相容れない。そもそも、対象となるのは国家転覆を図る大規模な組織だ。根本的に追う対象が異なる。
D課に負けず劣らずのプライドの塊の集団。
公安部もD課に似たり寄ったりの反応を庁内ではされていた。
溜息を吐いた千歳を波多野が興味深そうに眺めていたことに気づき、何ですか、と訝しげな眼差しを向ければ肩を竦められた。
「別に?」
小生意気な笑みでそう返されたものだから、千歳は顰めた顔に更に深く皺を作る。寄せられた眉根に波多野は、ただ、と続けた。
「お前も俺たちと似たようなもんだろ」
『お前も此処の人間か』
刹那重なった記憶の欠片に時が止まる。サスペンダーを付けたニヒルな笑みは寸分違わず彼だった。
違う。
彼は覚えてはいない。
時を進ませるように千歳は紡ぐ。
「一緒にしないで下さい」
冗談じゃないと吐き捨てた。
波多野は空になった缶を片手で握りつぶすと、器用にゴミ箱へと投げ入れた。カランと吸い込まれた缶が音を立てる。
「まぁ、俺たちと同じチームなんだけどな、お前も」
ぼそりと呟かれた言葉に、千歳は先日の出来事を思い浮かべた。
「結城…」
その名を紡ぐのは初めてというのに、追いかける記憶がそうは感じさせない。
「警察庁の名簿から名前も消えてない。所属も名前も偽名なので探ろうと思っても無意味ですよ」
釘を刺すようなその物言いはどうとでもよかった。それよりも、聞き間違えかと思ったほど千歳は彼の言葉を理解することを拒んだ。
理事官直属の作業班など聞いたことがない。作業班は常にチヨダの課員による管理の下、求められる情報を上げ、それをチヨダが精査し最終的に理事官へと渡る。会社と同じだ。構造は警察でも変わらない。
理事官直轄の作業部隊、嫌でも思い出す半世紀以上前の記憶。
コンクリート造りの古びた建物、ヒビ割れた壁、薄暗い廊下と裸電球。談笑する顔のない男達、そして、ーー
『囚われるな』
それは、今の自分への言葉か。
追想していた千歳に三好の声が響く。
「新たに彼直轄の作業班として任命されたのが僕らと貴女だ。作業班としての名はゼロ。」
「っ、待って下さい!どうして私が」
「さぁ、僕は知らないですよ。ただ、この試験をパスしたら貴女を入れろとしか」
「なんで…」
彼は覚えているのか、彼の記憶はあの時を捉えているのか。年号が変わり、時代が変わり、移り行く景色が眼前にあるというのに、その瞳に映るのはあの時の色だというのか。
あまりにもできすぎている。まるで、千歳がこの時代に生を受け、記憶に追われ、此処まで逃げるように仕向けられていたかのようだ。全て彼の手の上だったとしたら。
「私は公安の人間です。チームだなんて」
「今まで通りですよ。貴女は公安4課の人間であり、そして僕らのお仲間だ」
仲間、という言葉など貴方たちには似合わないではないか。そう吐き捨てたい思いをグッと呑み込んで、千歳は下唇を噛み締めた。
置き去った過去が絡み付く。過去とリンクした現在は千歳にとって歪な時間だった。
変わらないということが、これ程不安感に襲われることだとは思わなかった。
彼らに会うたびに千歳は己の輪郭が認識できなくなる、漠然とした不安に襲われていた。
鮮明な記憶の中に居るのは千歳ではなく『千歳』。その中で『千歳』といる彼らは、しかし目の前の彼らではない。
彼らも自分も、かの時代、とは隔絶した位置にいるにも関わらず、鏡合わせにその存在を見ている、そんな錯覚に陥る。
手を伸ばせば、溶けてしまうようなそんな、ーー
「聞いていますか」
苛立ちを含んだ三好の声に千歳の意識は現実へと引き戻された。慌てて顔を上げた千歳の表情を見た彼が訝しげに眉を潜める。
「……何か不安なことでもあるんですか?」
「え」
「そんな顔をしています」
怪訝な相貌を三好は向ける。合わさった視線の先、彼の瞳の中にひどく狼狽する己を見て取れた。
自分の動揺を感じ取ったこの三好という男は大層優秀だと、千歳は改めて認識する。
ひとつ、千歳は目を閉じた。心を落ち着かせる。
今此処に居るのは紛れもない己自身。そう、
(私は、私だ)
そして、彼は、彼だ。
今目の前に、誰がいようとも、それがどんな存在であっても、今を生きる自分には何も関係がない、何も、何にも、
囚われるな。
ゆっくりと、目を開いた。
「何でもありません」
見据えた彼が、薄っすらと笑った気がした。
「籍は互いの課に置いたままの出向。どうだ、来週からウチと行動を共にする気分は」
くつくつと厭らしい笑いを向けてくる波多野に千歳は視線を合わさない。
「もう、どうでもいいです」
「ほお?」
「……いつまでも」
ガラン、と屑かごに空き缶が投げ込まれる。
「引きずっていても仕方ないですから」
割り切ろうとした想いは、時が経てば追い縋ってくる。何度も何度も逡巡しながら、それでも進むしかない。
囚われ振り払い、気づき進み、そうしてまた囚われる。
まるでそうなる運命のようだと自嘲した。
千歳は繰り返す自嘲を横に置き、波多野に問いかけた。
「それで?」
「ん?」
「要件はそこではないでしょう?」
惚ける波多野に言い放つ。
「追加資料」
短い一言に波多野がニヤリと口元を歪めた。戯けた調子で肩を竦める。
「察しが良くて助かるな、お前」
「念押しなんてしなくても、必要なこちらの資料は私が何時でも用意するのでご安心を」
「大嫌いなD課のために悪いなぁ」
出向の身のとなる自分は、公安部とD課の連絡係のようなものだ。そして、同じ警視庁内であっても部外には見せることのない資料。それを纏め直し、彼らに渡す役も担うだろう。
(言われなくても分かっています)
じとりと向けた千歳の眼差しは、爽やかな笑みで相殺された。文句を垂れることすら億劫だと、大きく溜息を吐く。
「そういえば、お前さ」
鬱々とした空気を放つ千歳に波多野が思い出したように声をかけた。
「何ですか」
まだ何かあるのかと、睨みを利かせれば、それだよ、と人差し指が千歳に向けられる。
「それ?」
「敬語」
「敬語?」
「気持ち悪いんだよな、お前の敬語」
「……意味がわかりません」
「年同じのくせに敬語なのも、その態度で敬語なのも気持ち悪りぃから、やめろ」
ーー違和感しかねぇんだよ。
その波多野の一言に、千歳は目を見開いた。瞬いた後、口元の緩みを認識し、それを隠すように俯く。
(違和感なんてあるはずないのに)
そして彼女を追想する。
『波多野さん』
その一言は、過去との断絶だった。
「千崎?」
降ってきた疑問符にゆっくりと顔を上げる。
「歴が違うので、此処では外せません」
あからさまに歪んだ顔に、ただ、と付け加えた。
「プライベートなら、その限りではないよ」
波多野、と初めて呼んだその名に、彼は矢張り笑った。
「ほんと、可愛くねぇ」
心地良い響きに、千歳は微笑んだ。
ーーーー
確かにある世界