茹だるような暑さに千歳は読みかけの本を静かに閉じた。じっとりとした首筋に纏わり付く髪に眉を顰める。幾ら髪を纏め上げていても短い数本ははらりと落ちてくるのだ。

溜息をついて再び纏め直すと、開け放たれた窓に近づいて顔を出した。
夏の日差しが街に降り注ぎ、通りを歩く人々はこの暑さにうんざりした様子で項垂れていた。

部屋を通る風も夏特有の熱さを含んでいる。ふわりと顔に当たったその熱気に千歳は再び眉を顰めた。


昭和20年8月15日。この国は戦争に負けた。主要な都市は空襲により多くが廃と化し、其処に生きていた人の命も営みもいとも簡単に消し去っていった。

それでも、人というものは逞しいものだ。焼け野原の大地にバラックの小屋を建て、ある物を掻き集めて商売を始めた。生きることに貪欲で、絶望的な状況だからこそ前を向いて歩いている。這い上がるしかない状況に置かれた日本人は、ただ豊かになることを求めて、ただ明日を生きる為に地に足をつけた。


チリンチリンと青を基調とした風鈴の音が響く。敗戦の翌年の夏だった。
木造平屋建ての質素な住宅。空襲で焼け野原になったこの国でも、戦火を逃れた地域は少なからずあった。
自分にまさかそんな住宅を充てがわれていたとはと、千歳は苦笑した。


「千歳」


鈴の音に耳を傾けていた千歳は意識を声の主へと遣った。
出会った時は幼さを残していたその相貌も今では少しばかり年相応となっている。それでも、小生意気な態度は相変わらずだ。

「おかえりなさい、波多野さん」

木椅子から立ち上がり駆け寄れば、ただいま、とハットを渡される。この暑さの中でも見ているだけで参ってしまいそうなスーツに彼は身を包んでいた。
ハットを千歳に預けた波多野は乱雑に上着を脱ぎ捨てる。本当に暑かったのだろうと千歳は苦笑した。

「今日も暑いですね」

そんな波多野を尻目に千歳は木製のスタンドにハットを掛けるが、波多野の気難しげな表情に気づき小首を傾げた。

「波多野さん?」
「お前も波多野だろ、今は。いい加減止めろよな」
「……何だか慣れなくて」

不機嫌な理由に眉尻を下げれば波多野はわざとらしく溜息をついた。


共に生きると誓い合ったあの日から、千歳には姓が生まれた。
元々なかったものだ。千歳という名だけを与えられていた彼女にとって、誰かの証を刻むという行為は慣れないものがあった。

波多野亮祐、千歳。

カバーだったその名を名乗るようにしたのはこれが自分達の存在を確定させた名だからだ。
偽物でない、これこそが自分達の本物なのだと。

凡そ一般的な日本人とは掛け離れた生活を送ってきた2人は、戸籍上夫婦となった今でもその感覚が身に沁みていない。
共に過ごしてきた期間もある、けれど時代の荒波の中で彼らは人並みの感情を理解することも表に出す事も叶わなかった。

最初から想いを伝え合っていたらどうなっていたのだろうかと思案したが、千歳は直ぐに首を振った。


(考えるだけ無駄ね)


馬鹿馬鹿しいと、千歳は苦笑した。


「なに笑ってんだ?」


訝しげな波多野の声に、いえ、と返せば更に難しい顔が返ってくる。
千歳はそんな彼を見つめて、胸の内に暖かさを感じた。


(これが、愛しい感覚)


感情をひとつひとつ確認していく感覚は存外悪くない。

相手の様々な顔を見る事、向けられる感情、全てが心地良く感じる事ができる現状は、幸せというものなのだろう。


「千歳」


ふと、名前を呼ばれて彼を見遣ればすっぽりとその胸に身体が収まった。
蝉の鳴き声が耳につくこの季節に密着する行為は暑さを助長させるだけだ。じぃ、と正に蝉のように固まる波多野に千歳はぽつりと口を開く。

「暑いです」
「だな、ほんとあちぃ」
「ならこの状態はいささか不適切だと思います」
「なら名前呼んで」

悪戯っ子のように耳元で囁く波多野に、千歳は眉尻を下げて困り果てた。暑いのだ、しかしながら改めてそう言われると、名を紡いだ瞬間今度は熱くなる。

「夜はいつも呼んでるだろ?」

更にそんなことを波多野が宣うものだから、千歳は思わず彼の顎に盛大な頭突きをかましてしまった。予想外の出来事に波多野から呻き声が漏れる。

「お、まえなぁ」
「っ、変なこと言わないで下さいっ」
「本当のことだろ?」

けろりと悪びれる様子もなく言ってのける波多野に千歳はぐっと言葉を詰まらせた。「千歳」と、強請るように甘い声を出した波多野に目を逸らしたが、ちらりと遣った視線が彼のそれと交錯すれば逃げることは叶わなかった。

千歳は観念したように溜息をつくと、ぼそりと消え入りそうな声音で紡ぐ。


「……亮祐…さん」


ーーあぁ、駄目だ居た堪れない。


顔が火照っていく感覚が自覚できて千歳はその姿を見られまいと波多野の身体に顔を押し付けた。
くつくつと笑いを押し殺す波多野に負けたような気分になる。

「……やっぱり違和感があります」
「なら慣れろよ」
「無茶言わないで下さい」
「お前が、波多野、になって1年近く経つんだけど?」
「それ以上の期間波多野さんと呼んでいたんですよ。波多野さんは波多野さんです」

子どもじみた返しだと我ながら呆れてしまう。互いが、波多野、と、千歳に分かれていた頃の距離感とは違う感覚に未だ慣れないことを、この呼び方は如実に表していた。
ひとつになる、夫婦になる。愛しい人と結ばれたというのに、嬉しさに入り混じるこの違和感は何なのかと首をひねる毎日だ。


(…それでも、)


ちらりと千歳は波多野を見上げる。かち合った視線に波多野ははにかんだ。
釣られて千歳の口元にも笑みが零れる。


(これは、幸せなこと)


彼を愛することが出来るこの幸せは何にも代えがたい祝福だ。

暑さを告げる鳴き声が遠くに聞こえる。
つぅと滴り落ちる雫など気にもせず、千歳はその唇に口付けた


―――


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