その生命を鎖す

 夜の女神が広げた天鵞絨の外套には星の欠片が一つも見当たらない。そんな中、まるでそこだけ穴が開いたかのように、青白い光を放つ満月がその姿を艶然に浮かび上がらせている。
絵画に描かれても可笑しくない美しい深更。しかし、やけに薄気味悪い印象をなまえは抱いた。胸に宿る一抹の不安。生暖かい筈の夜風に寒気を感じ取って、無意識に銃器を握る手に力が籠る。
目に見えぬ恐怖に惑わされている場合ではないのに。危惧の念を払拭する事はどうしても出来なかった。朧げな筈の月光が、じわじわと身の内に侵食し、何処かへ引き摺り込まれてしまいそうで。きっとこれを、"虫の報せ"というのだろう。

 厳粛に閉められた正門の先にある、大理石によって建築された荘厳に聳え立つその建物はこの国の中心部と言える場所━━━国会議事堂。人工的なライトの光によって夜の闇の中で白い姿を照らし出される様は美しく、そしてどこか不気味でもある。
 玄関前庭は手入れの行き届いた大木や茂みが連なった遊歩道が広がり、その中央には涼やかな水音を立てて流れる噴水が鎮座する。本来であれば心穏やかになる筈の荘観が、今は酷く様変わりしていた。
 辺り一帯の空間を充満するには、むせ返りそうな強い鉄の匂い。赤く濁り切った噴水の水は、夜の薄暗さのせいでどす黒く視界に映る。深緑には赤い血飛沫が上塗りされ、舗装された地面には肉片が飛び散っている。人であった物が、国会議事堂を背景に幾重にも重なり、まるで人形のように横たわる。
 その中で一人、なまえは茫然と立ち竦んでいた。凍り付いた表情を浮かべる彼女の頬や、身に付けている衣服には、今目の前で息絶えている者達の血液がべっとりとついている。死体にはなまえを含む侵入者が片付けた、行政府の制服を着た者達も含まれているが、その殆どが彼女の仲間達である。
数十人いた彼等は一瞬にして、物言わぬ肉片と化した。この惨状を引き起こした人物は、なまえから少し離れた場所に、議事堂とその上空に浮かぶ月を背面にして立っている。

 今この場で生きて立っている者はなまえとその人物のみ。シルエットが徐々になまえへと近付いてくる。頭では今までにないほどの警鐘が鳴り響いているというのに、体は少しも動いてくれようとしない。
 遂に後数メートルの距離まで迫ってきた。
白いフード付きのコートを頭から被っている為その顔は分からないが、この場全員を殺した者にしては意外なほど華奢な体つきをしており、それが余計に恐怖心を煽っていく。
何もかもが予定外過ぎた。
こんな奴がいるなんて聞いていない。あんな強い威力を持った異能は……見たことがない。

「お前を、殺すには惜しい……惜しいな」
 歌っているような響きでフードの陰から聞こえてきた言葉。少し低めの声から、性別は男だと判断出来た。しかし、今は性別などどうだっていい。
「な、何故……お前は一体…!!」
 なまえの恐怖のあまり惨めにも引き攣り掠れた声に、男が嗤った気配がした。嘲りが混じった、人を人と思わぬ非情な笑い声。
「こんな異能者がいるなんて聞いていない…!!データでは、コード:ブレイカー達の異能は、」
「その疑問への解は簡単だ。俺はコード:ブレイカーではない」
 男が告げた言葉はなまえを奈落に落とすには簡単すぎた。
 "コード:ブレイカーではない"?!
ならば政府は、コード:ブレイカー以外の異能者を従えているというのか。しかもこの男の能力…あのコード:ブレイカー達よりも強く、凶悪さを持っている。一瞬で広範囲の者達の命を奪ったあの力……。
誰も何も出来ず、苦悩の叫びを上げて死んでいった。
「俺はコード:ネームが一、"コード:クローザー(終末ヲ告ゲシ者)"。より強く、より隠された存在の異能者で形成されたエデンの飼い犬」
 なまえは力の抜けた膝を、堪える気力もなくそのまま地面に付けた。仲間達が流した血液がじわじわと服に染み込んでいく。同時に彼女の心も失意のあまり闇へと染まっていく。
 ━━━甘かった。自分達は甘かったのだ。
コード:ブレイカーとエデンに家族や知り合いを殺された者達の集まり……ただ奴らを抹殺する為だけに今まで血の滲むような訓練を重ねてきた。情報を集める為に薄汚い手段を使う事も厭わなかった。
だが、その全てが無駄だった。
 絶望から一変、潔さを思わせる表情でなまえは懐から小さな懐紙の包みを取り出した。
 この場でどれだけ抗おうと、自分がこの男に敵うとは到底思えない。死ぬのなら、この男に殺されるよりは自らの手で生を終えたい。家族を殺した奴らの仲間に殺されるくらいなら……。
 自嘲的に笑うなまえは、僅かに浮かんでいた涙が目を閉じた事で頬を伝って地面に落ちたのを感じた。水滴が地面を弾く音がやけに大きくその場に響く。
懐紙に包まれていた錠剤を取り出し、呷ろうとしたなまえ。
祈るように両目を閉ざしていた彼女は気付いていなかった。不穏な男の動きに。
 男がなまえの目の前で片膝を付いた。
「ん……っ!!ぐ、」
 なまえが錠剤を含んだ途端、男の指が突如口の中に押し込まれた。ぐちゅりという嫌な音が脳内に直接響いているように、なまえの聴覚を侵す。咄嗟の事で阻む事も、また抵抗する事も出来ない。好き勝手に口内を蹂躙し尽くした後に引き抜かれると、なまえの唾液で濡れた彼の指は錠剤を摘まんでいた。
「は、っはぁ……」
 しっとりと濡れた唇から荒い息を吐きながら、なまえはフードの闇に隠れる男の顔を睨む。そんな彼女を嘲笑う気配。
「敗者が勝者に従うのは世の理。今のお前の命は俺のもの。つまり、お前を生かすも殺すも俺の自由だ」
 その言葉はなまえの誇りを全て踏み躙るものだった。仲間の敵である男に命を握られるなど、屈辱以外の何物でもない。殺されるくらいなら、気紛れで生かされて生き恥を晒されるくらいなら、自らの手で死を選ぶ、のに。
「っ、貴様……っ!!」
 ただ全身を満たす激情のまま、何も考えずになまえの体は動き、男の胸倉を掴み上げた。意外にも男はされるがまま。
衝撃で被っていたフードが外れ、その中からさらりとした長い銀糸が零れ出る。
 月明りの下晒されたその素顔は息を呑むほど美しかった。年の頃は十代後半。ちょうどなまえと同年代くらいだろうか。女性と見紛う繊細な美貌で、切れ長の青い瞳の下にある泣き黒子は色気すら感じる。思わず怒りを忘れて茫然と魅入るなまえに彼は目を細めた。
そして次の瞬間、なまえに息苦しさが襲う。
 みしり……と、骨が鈍く軋んだ。
男にしては細い腕のどこにそんな力があるのか。ぎりぎりとなまえの首筋を鷲掴んで絞める男の手。酸素が思うようにとれない苦しみに歪む女の顔を眺めるその表情には、嗜虐的な悦びがくっきりと刻まれている。なまえがもがいても、腕を掴んでも、引き剥がす事が出来ない。
「言っただろう、お前を殺すには惜しい」
 薄い唇から放たれる言葉はどれも残酷。苦しむなまえに、まるで睦言のように男は囁いていく。有無を言わせぬ圧力を込めて。
「俺の許可もなしに勝手に死ぬ事は許さない。お前の生死は俺が決める。俺の為だけにお前は生きろ」
 なまえの顔色が青白くなり、腕を引き離そうとする力が抜けかけてきた所で……男はなまえをやっと解放した。
 地面に這い蹲り、無様に呼吸を繰り返して涙と唾液で顔を汚す己自身が、情けなくて溜まらない。
彼への憎悪にもまして、自身への苛立ちは大きかった。首を絞められていた時、死への恐怖を抱いた自分に。男の白い腕に刻まれたなまえの爪痕が彼女の生への執着を表している。敵に対して命乞いのような真似など、何も出来ず殺されるよりも恥ずべき行為だ。今や完全に打ち砕かれたなまえの誇り。
 蹲って自責の念に咽び泣くなまえを見下ろしていた男は、不意に銀髪が地面に水溜まりを作る血で汚れるのも構わず、なまえの顔を覗き込む。その顎下に指を添えて顔を上げさせると、なまえの暗く濁った目と男の嗤う目が重なり合った。
「お前の名……名はなんという?」
 反抗的な意思は最早生まれなかった。素直に開く唇は酸欠のせいか青褪め、震えている。
「……なまえ…」
 虚脱したまま呟かれたその名を男は舌に乗せて幾度か繰り返す。麻薬のような甘さを含む声。まるで恋人の名を呼ぶようだ。その瞳には優しさの欠片も、温度も何もないというのに。
「俺の名は冴親、冴親だ」
 冴親……それがこの男の名前。
頭上に未だ輝いている、美しくも凄惨さを匂わせる満月そのものような男。作戦前に感じた寒気はただの杞憂ではなかったのだ。
 多数の死体が寝ころぶ中、血の海の中、その身を赤く染めた二人が重なり合うその光景は、何故か神聖な誓いの瞬間のように見える。実際にはそんな美しいものではない。執着という名の歪な鎖で戒められ、女にとって恥辱な日常の始まりを告げた瞬間なのだから。


 悪夢のあの日から、幾月かが過ぎた。なまえは冴親の自室だという部屋にほぼ監禁状態で過ごしていた。衣食住が十分すぎるほど整った豪華な部屋。完璧過ぎるこの部屋は個性というものがなく、その存在が知れぬ冴親という男をよく表しているように思える。
 冴親はなまえを己の任務に連れて行く様子もなく、ただ部屋に閉じ込めて共に生活を過ごさせていた。勿論、なまえは心から冴親に従属したわけではない。今までの生活で幾度彼の寝首をかこうとして失敗し、彼の粘着質な報復を受け続けた事か。もう最近では、冴親の逆手をとろうとする意欲は消え失せかけてきた。
だが、彼やコード:ブレイカーへの憎しみが消え失せたわけではない。どうせ生かされるのならそれを利用し、いつか確実に彼等に報復できるその日まで生き延びてやると、そう吹っ切れたというのが正しいだろうか。それ故表面的には当初とは比べ物にならないくらい、両者の関係は落ち着いていた。軽い雑談をするようになるまでに。
 そんなある日、彼等の妙な関係に変化を及ぼす出来事が起こった。
大きな任務が入ったという事で数日間部屋を開けていた冴親が久しぶりに姿を現した時、彼の様子は今までに見た事がないものだった。
「……冴親?」
 怪訝ななまえの問いかけに何も答えず冴親はベッドに座った。俯いている為その表情は分からないが、明らかに可笑しい。
思わずその肩に手を伸ばした時……
「っきゃ…!!」
 逆に手首を掴まれて強く惹かれると、気付けばなまえの体はベッドのシーツに沈んでいた。そんな自分に覆い被さっているのだろう、冴親の髪がさらさらと頬や体にあたって軽い刺激を感じる。
 目を開けたなまえは、予想以上に近い位置に彼の顔が迫っていたのと同時、浮かんでいる表情に驚いて目を見開いた。
「っ…、!おお、がみ…っ!!」
 苦しそうに引き締められた唇、切れ長の瞳は怒りというより…深い悲しみが見て取れた。
「やっと会えた、姉さん…なのに何故……!!」
「"姉さん"…?」
 冴親には"姉"がいたのか?
今までそんな話は少しも聞いた事がなかった。
それに何より、先程彼が憎々しげに放った名は……
「おおがみ……、大神、零?」
 聞き覚えのある名だ。
確かコード:ブレイカーの一人、CODE:06。青い炎の異能の持ち主。立場としては冴親の仲間なのだろうが、先程の口振りは憎い相手の名を呼んだとしか思えない。嘗て、なまえがコード:ブレイカーを仲間と追っていた時と同じように。
「何故姉さんは悪に…!!敵である大神を……っ!!」
「冴親、どうしたの?ねえ、」
 彼らしくないその様子になまえが頬に手を添えて呼び掛けると、はっとしたように冴親の瞳がなまえを捉えた。
 やっと此方を見てくれた……。
 それにほっと息を吐くと同時、シーツに押し付けられていた体が軽く解放された。焦りや憎悪、そんな負の感情に塗れていた青い瞳は、普段の静けさを取り戻している。
「……なまえ、」
 しかし、その瞳はまだ揺れていた。
まるで幼い子供が親に縋り付きたいけれど、出来ない……そんな切なさが見え隠れしているそれになまえの胸も何故か絞めつけられた。彼は敵である事に何も変わりはない筈なのに。
 思わず、下からその体を抱き締めると、華奢でありながらも、筋肉質で固い胸板の感触がした。一瞬全身を固くした冴親だったが、やがて瞳を閉じると、彼もまたなまえの体を柔く包み返す。女の香りを漂わせる彼女の首筋に顔を埋めると、細く小さな声で呟く。
「なまえ、お前はどこにも……どこにも行くな」
 "俺の傍にいろ"
 "俺の前から姿を消さないでくれ"
 憂いに満ちた、独白の様な呟き。 
なまえの体がびくりと揺れる。純粋な渇望が込められた、その言葉に。
ただ気紛れで生かしているだけ……冴親にとってはなまえという存在は、玩具のようなものだった筈だ。
なのに何故、こんなに優しく、壊れ物に触れるように包み込んでくるのか。
そして私も何故、心地よさを感じているのだろうか。
今までなら、気の迷いと一蹴しただろうに、見過ごす事が出来なかった。心に現れた一点の温もりが、ささくれ立った感情を融解していく。
 見つめ合った両者はどちらからともなく、その影を重ね合った。
ただ欲望をぶつけるわけではなく、秘めた感情━━━己自身も気付く事が出来ない気持ちを、その唇越しに相手に伝えようとするように。
伝わる事を願うように。


 暫くして、冴親は再びこの部屋から姿を消した。
恐らくエデンから長期に渡る任務を言い渡されたのだろう。そうでなくても最近の冴親は慌ただしくしていたように思える。
 あれから表立って両者の関係が変わったわけではない。
だが、明らかになまえが冴親に向ける気持ちは変わっていた。
認めたくない、あってはならない変化だ。罪の意識に何度苛まれ、己の不甲斐なさを悔いても、隠しきれない程その感情は大きくなってしまっていた。
 冴親がもう一つの顔をなまえに見せてから、二人は時たま男女の触れ合いをするようになっていた。互いに何を告げる訳でもなく。傷を舐め合うように寄り添う。
なまえはあの日、彼の姿に自分を重ねた。家族を失った悲しみに浸り、全てを奪った者を憎み、そして誰かの温もりを渇望する。
 鏡を見ているように同じだったのだ、なまえと冴親は。だからこそ彼に寄り添うのは、自分と似た冴親に同情しているからだと思うようにした。自分を今まで散々好き放題に扱った彼も、所詮は玩具であった筈のなまえと変わらないのだと、そう嘲る為だけに過ぎないと。もう忘れかけていた暖かいものが、胸に小さく芽生えている事には気付かないふりをして。

 冴親が家を開けてまた幾日かが過ぎた頃だった。ふと気紛れにドアノブを捩ったなまえは心臓を大きく高鳴らせた。当たり前のように固く閉ざされていた扉が呆気なく開いたのだ。今までなまえをこの空間に閉じ込めていたのが嘘のように。
……施錠をしないで外出したのか。
あの冴親が忘れるわけなどない、"態と"だ。
一体、何故。
まるでなまえはもう自由だと告げているようだ。
そして、こうも感じ取れた。
 もう冴親は、この部屋に戻る事はないのだと。
彼は何かを予期していたのだろうか。
今回の任務で己の身に何かが起きると?
だからなまえが部屋から抜け出せるように鍵を閉めずに立ち去って行った?
分からない、彼の考えている事が、彼の事が。
唯一つはっきりと彼女が理解できたことは━━━
 冴親と二度と会えないかもしれないという事態に直面し、まるで家族を亡くした時のように張り裂けそうな痛みを抱いている、という事だった。
「冴親……」
 こんなに感情も露わに誰かの名を呼んだ事はあるだろうか。
連れて来られたばかりの頃には牢獄のような印象を抱かされた空間なのに。逃れたいと思っていた、筈なのに。
認めたくない感情だった。嘗ての己の目的を思えば許されない気持ち……家族や仲間に顔向けが出来ない程の裏切り行為と同じだろう。だが、もう無視する事が不可能なほど膨れ上がってしまっていた。
 未だベッドには彼の残り香が微かにある。その白いシーツに身を包むと冴親の腕の中にいるような気がした。そうして一人ではあまりにも広い寝台の上で蹲り、なまえが部屋から抜け出す事は終ぞなかった。


 最初はただの気紛れで生かしただけだった。
数多いる悪の中で彼女だけが何故か冴親の眼には異質に映った。数多の人間を屠ってきたとは思えない儚い印象を与える彼女が恐怖で顔を引き攣らせる姿、屈辱に体を震わせる姿、惨めに地へと伏せる姿、全てが冴親の予想通りに彼を愉しませた。
あくまで玩具を好き放題に出来る征服欲が満たされる快感に夢中になっていただけ。厭きれば当然、殺してそのまま捨ておうと思っていた。
 しかし━━━
「いつの間に、だろうな…お前に別の感情を抱くようになったのは」
 渋谷壮の地下にある、その寂れた外観とはかけ離れた設備が整う医療室。そこに拵えられているベッドに体を横たえ、苦しそうな呼吸を繰り返す冴親は自嘲気味に笑うと、今己の心を占めている少女の姿を思い起こしてその眼を細めた。
 まるで遥か遠くの物を必死に見ようとするかのように、時折霞む視界をなんとか現世に留まらせようとしていた。冴親の全身には、彼の異能である影がその身を食らい尽くさんと絶えず絡みついている。
 コード:エンド。異能の終わり。
つまり死が近付いているのだ。
 なまえはもうあの部屋からは抜け出したのだろうか。まさかあの鋭い彼女が鍵が開いている事に気付かないわけがないだろうが……
それに姉に、自分が死んだ後であの部屋の様子を見に訪れて欲しいと伝えてある。もし仮に出ていなくても、衰弱死する事はないだろう。死ぬ前にせめて一目、逢いたくないと言ったら嘘になるが、なまえにとって冴親は仲間を殺した敵であり、散々屈辱を与えてきた人間。せっかく自由になってもそんな男とまた会っては辛い思いをするだけだろう。
それに冴親自身も、彼女に会うのは躊躇われた。
 折角決めた覚悟が覆されてしまいそうだったから。
彼女の姿を見ると生への執着が一気に膨大するだろう。もうすぐ死ぬ運命だというのに、なんて馬鹿馬鹿しい……。
だからこれで良いのだ。姉との別れはもう済ませた。刻達への真実の告白と忠告も終わり、後はコード:ブレイカー達の為に為すべき事を為せば、それで俺の役目は全て終わる。
増していくコード:エンドの苦痛を少しでも紛らわそうと冴親は目を閉じた。
 
 不意に、治療室の扉を叩く軽い音が耳に届く。暗闇に落とそうとしていた意識を、ゆっくりと浮上させた。
━━━姉だろうか。
冴親はノックの音に応えた。返答の後に開かれる扉。
しかし、現れた人物は冴親の予想を大きく裏切っていた。
「な……っ!!」
 痛む体を構わずに上体を起こすと、その切れ長の目を大きく見開いて入って来た人物を凝視する。
「なまえ…!!」
 なまえは最後に見た時より少しやつれていた。
しかし彼女以上に弱り切り、自らの異能に蝕まれている冴親の姿に、なまえの表情は泣きそうに歪んだ。 
 冴親の驚愕は畏れと拒絶へと変化していく。それは奥底へと眠らせたなまえへの激しい恋情への裏返しともいえる。
「何故、何故お前がここに…!!」
「―――冴親、」
 ベッドに近寄ってきた彼女へ、もう容量僅かの異能を扱い、影で作った槍を向ける。当然彼女の歩みは止まるが、その表情に刃を向けられる事への恐怖はなかった。
冴親が満身創痍だからだろうか。それとも……彼の怒りの表情の裏に深い憂いを見出したからだろうか。
「何故ここへきた…?俺のこの姿を笑いに来たか?」
 なまえの表情を見ればそんな理由ではないと分かるだろうに。それを信じる事が出来なかった。
「喜べ。お前を散々甚振った男はもうすぐ死ぬ。……お前はもう自由なんだ、だったらこんな場所にいないでさっさと俺の前から消えろ」
 そう吐き捨てて力無く笑うと、冴親はなまえへ向けていた槍を消すと、腕をだらりとシーツへ落とした。
もう武器を持てないほど体は衰弱している。
同時に精神も弱ってきているせいで、これ以上なまえを見ていると彼女に縋ってしまいそうで嫌だった。だから逃げるように視線を落として目を閉じた。
 そんな冴親を見つめるなまえは、冴親の姉だというコード:ブレイカーの一人、八王子泪の事を思い出していた。
冴親の部屋にいたなまえを此処まで連れてきたのは彼女だった。なまえの名を聞いた彼女は、妙に何かを悟ったような表情を浮かべると、冴親が今死にかけている事、そして彼がなまえの名を譫言のように呟き続けていた事を彼女に伝えた。ずっと殺したいと思っていたコード:ブレイカーの一人、八王子泪……そんな彼女の言葉を素直に信じ、誘導されるがままについてきたのは、彼女の容姿が冴親によく似ていたからかもしれない。
 コード:エンドの苦しみで額に汗を浮かばせて、顔を青白くさせて俯いたままの男にもう一度一歩近寄る。気配を感じ取って小さく体を揺らしたが、もう刃を向ける気配はなかった。それくらい限界が近いのだろう。
 だが今は例え凶器を向けられようが、拒絶されようが、距離を縮める事を止めるつもりはない。
遂に手の届く目の前まで来ると、なまえは静かに身を屈めて冴親の顔を覗き込む。
美しい満月が浮かんだ真夜中、初めて出逢った時の事を思い出す。あの時の二人とは何もかもが違うが。
 抵抗しない冴親の短くなった前髪を掻き上げると、しっとりと冷汗で濡れた額に己の額を軽く合わせる。体温がないのでは、と思わせるほど冷たい。合わせた肌を通し、彼の全身に熱が伝わるように強く念じた。
体の奥底から己の熱……命の源を湧き上がらせ、それを触れた部分から徐々に徐々に、移していく━━━
 冴親が突如絶句した。そして、骨が軋むほど強くなまえの肩を鷲掴むと、そのまま己が横たわっていたベッドへとその体を押し倒す。激しい息切れのまま己の下にいるなまえを見下ろす彼の顔は、今迄見たことがない程の怒りで歪んでいた。反してなまえの表情は凪いでいる。それがより一層、冴親の怒りを増長させた。
「お前っ、一体何を…何をした……っ?!!」
 冴親の体に纏わりついていた影が今は消え失せている。先程まで彼の全身を満たしていた倦怠感、苦痛、全てが消え失せ、変わりに冷たい体には温もりが戻り、僅かだった己の命が増幅された事が冴親には分かった。
終わりを迎えた異能が蘇る事はない、第三者から与えられる以外には。
「なまえ、お前は…っ、」
 "異能者"だったのか……?!!
 その問いに肯定も否定もせず、ただなまえは微笑を浮かべた。
それだけで冴親には答えがわかる。ぎり……と、更になまえの肩をシーツに押し付ける力が増した。同時に冴親の表情も歪んでいくが、それすらなまえには美しく映った。
己の異能を誰かに与えるということは、即ち己の命を削っているという事でもある。
「ふざけるな…!!何故俺がお前などに命を救われなければならない?!こんな屈辱……!!」
「私は貴方を救ったんじゃない、生かしたのよ」
 全く動じずにそう告げると、なまえは冴親の頬に手を添えた。その冷静さに逆に気圧された冴親に更に続ける。不穏な言葉と裏腹に、包み込むような慈愛の笑みを浮かべながら。
「貴方は私を理不尽に生かした。自らの手で生を終わらせようとした私を」
 だから貴方にも生きてもらう。
簡単に死なせやしない、死なんて甘い道、まだ貴方に与えるわけにはいかない。
「私の心を勝手に掻き乱して……誇りも目標も全て滅茶苦茶に壊しておきながら、私から離れるなんて赦さないわ」
 これは呪詛だ。雁字搦めに命へ絡みつく言葉に鎖。
同時にもう一つ別の意味が含まれていると、本能で理解した。彼女の一部がこの身に流れ込んだ影響なのかもしれない。
愛なんてそんな温いものじゃなく。
執着なんて生易しいものでもない。
血濡れていて綺麗な関係など相応しくない自分達には、お互いの身を焦がす程のこの想いの方が妥当だろう。
 やがて肩を掴んでいた冴親の手から力が抜けると、なまえの両腕が彼の背中に回り、己の胸へと引き寄せた。されるがままに彼女の胸に顔を埋めると、その温もりに浸りながらゆっくりとブラウスのボタンを外していく。
そうしてなまえの上半身を晒すと、己のシャツも脱ぎ捨て、素肌同士をぴったりと寄せ合った。先程まで以上にはっきりと伝わってくる彼女の異能。全身を頭の先から指の先まで巡り渡り、痺れるほどの快感ともとれる生気の満たされていく心地よさに身を委ねる。白い胸元に唇を這わしていた冴親が顔を上げると、僅かに頬を上気させたなまえと目が合った。そうして体の熱によって瞳を潤ませ、唇を幾度も重ね合う。
恋人の交わりにもよく似た命の受け渡し。似ていながら情交よりもより激しく、熱く、深い。互いへ抱く彼等の心情がそうであるように。
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