既視が導く記憶
少しだけ開けた窓から吹き込む風にカーテンがひらひらと揺れる。
数分前までは眩しい程の西日が差し込んでいたのだが、
まだ微かにブルーの空に茜の縞模様が彩られ、そして少しずつ少しずつ漆黒のベールが幕を下ろすように、二色のコントラストを覆い尽くさんとしている。
既に人気のない閑散とした教室を西日が照らす。
昼間の喧騒が一変してもの悲しさを与える沈黙は、まるでそこだけ切り取られたに、なまえはただ一人残っていた。
いつからか、ふとした日常の中に感じ始めた寂寥。自覚した違和感は日毎に積み重なり、なまえの精神を侵食していく。
席に座っていたなまえは不意に窓脇にまで移動した。先程まで不明瞭に視界に移していただけの景色を、今度は一つ一つ認識しながら眺める。
今どきの学生が下校中に立ち寄るには少々時代錯誤な店が軒を連ねるアーケード。憩いの場として親しまれる本丸公園。風情を残す景観を損なわない為か、政令都市の中心部でありながら高層建築物は街中には見当たらない。
なまえが通う七姉妹学園が建つ珠阯レ市蓮華台はなんの変哲もない住宅街だ。
岩戸山とアラヤ神社……特に後者には幼い頃から既視感を抱いていた。
私はこの場所を知っている……?
郷愁、自責、そして苦しいほどの愛情。
たくさんの感情が一気に溢れて息が出来なくなりそうな程だった。
それは日増しに強くなっていく━━━最近は得に顕著だった。
石畳の続く先にある木製の階段…そこ登れば小さな社の扉。
遠目から眺めるだけで、嗚呼……頭が痛い。
━━━なまえ
誰かに名前を呼ばれた気がした。
だが辺りを見回しても、なまえ以外は誰もいない。
茜色に染まる教室内は静けさを保っていた。
女とも、男とも、子供とも大人ともとれる、不明瞭で不思議な声。
なまえが周囲を見回す間、まるで狙っていたかのようにベランダの柵に黄金色の蝶々が一羽、止まった事に彼女は気付かなかった。
息を吐いて再びなまえが窓に向きなおった時には、その姿は跡形も無く消えていた。
感傷的な想いで夕焼けが夜の帳に吸い込まれていく様を眺めていたいたが、教室の引き戸が開かれる音によって動揺で体が揺れた。
「お前は……」
今度は空耳でもなんでもない、確かな人の声が耳に届く。
声のした方角を向いたなまえの目に映ったのは、この学園では不良と名高い一つ上の学年の少年だった。
「周防、達哉先輩…?」
話したことはないが有名な彼の名前はなまえも知っている。
柔らかい茶髪のメッティカットを夕焼けに照らして赤く見せている彼は、何度か見かけていた時の顔つきと何処か違っていた。
彼は確かに元から近寄り難かったが、その本質が異なったと思える。
見えない分厚い壁で全身を覆い尽くし、全ての人を拒絶するかの様なその佇まい。
壮絶な体験してきた者の貫禄を持ち、孤高の雰囲気を放つ。
━━━だが、なまえを見る瞳は、何故か憂いを帯びていた。
「…あの、周防先輩?」
どうしてそんな顔をして私を見るのだろう?
彼とは一度も関わりを持ったこともないのに、まるで━━━愛しい者を見るような面持で。
そんな達哉と向き合い、ふとある事に気付いて驚いた。
自分の中に生まれた気持ち、これは……アラヤ神社を見る時に抱くものと同じだ。
暫くなまえを見ていた達哉だったが、不意に気まずそうに視線を反らした。
辛そうに眉を潜めながら。
「すまない」
通りかかったら誰もいないと思っていたのに人がいたから、驚いただけだ。
そう言う達哉は、やはり今までの彼と何かが違うように見えた。
彼でありながら彼ではない……まるで違う人格が出てきたかのよう。
それから沈黙が戻ったその場には、校庭から部活動に勤しむ学生達の声が微かに聞こえて来る。
空は一気に薄暗さを増していった。
そうなると街は先程とはまた違う光景を作り出す。
岩戸山が悠然とした夜の姿を晒す姿に見とれていると、隣に達哉が移動している事に、彼が窓枠に手を置いた事で気付いた。
彼もまた、どこか苦し気眼差しで外を眺めており、凛としたその横顔になまえの動悸が微かに乱れた。
「先輩は、デジャヴって感じた事ありますか?」
何故いきなり彼にそんな事を尋ねようと思い至ったかは分からない。
なまえの問いに達哉は息を呑んで一回り背の低い彼女を見下ろしたが、なまえは窓の外に視線を向けていた為気付かない。
「お前は、あるのか?」
なまえが無心に見つめる先を見て、達哉は己の右手首を掴んだ。
いや、握り締めた。
「アラヤ神社、岩戸山……」
いつか見た、現実の様な幻影。
仮面をつけて、社の前で遊ぶ子供達。
数は5、そしてその子供を見て微笑む制服姿の少女。
赤い仮面をつけた少年に名前を呼ばれた、白い仮面をつけた少女。
━━━なまえ
そして白い仮面の少女も赤い仮面の少年の名を呼ぶ。
━━━ ……
「なまえ」
びくり、体が揺れた。
今私の名を呼んだのは、隣にいる人?
「、私の名前を……」
知っていたんですか?
そう聞こうとした言葉は、不意に体を包んだ温かい温もりに溶け込んで消えてしまった。
突如吹いた強い風に揺れた白いカーテンが、抱き合う男女を包み込んでしまう程大きく広がる。
押し付けられた達哉の胸元から、少し早い彼の心音が直に鼓膜へ響き、なまえにまでそれが伝わってしまいそうだ。
校庭からの喧騒を遠く感じる。
此処が見馴れた教室であると言う事すら忘れてしまいそう。
遂に日が沈み、灯りの付いていない室内が暗いせいだろうか。
他に何もない、ただ二人だけの空間にいる錯覚をしてしまう。
「なまえ……」
名前で呼ばれる仲ではないのに。
だが不思議と違和感は生まれないのだ。
それどころか達哉の低い声で紡がれる事に、懐かしさを感じる。
━━━同時に違和感も。
なまえではない"なまえ"を彼は呼んでいるようだった。
誰かを重ねている。
そしてその誰かを達哉は抱き締めている。
身を任せたままぼんやりと思った。
これは先程達哉を見た時に自分が抱いた違和感と似ている、と。
周防先輩だけれど、私が知る先輩とは違う先輩……
私ではない私……
もう一つの、私達
もう一つの……、今いる此処とは別の……
「━━━悪い」
溢れ出て来る不可解な思考に苦しくなったなまえが制服の袖を摘まんだのを機に、達哉は彼女の体からゆっくりと離れた。
気まずそうに視線を外す彼は、今や触れる事すら躊躇ってしまう程の憂いを身に纏っている。
故に次々と浮かび上がる疑問を問う事が出来ない。
なまえが言葉を発する事を良しとしない空気が彼から放たれていたのだ。
そんな達哉の眼差しが不意になまえに再度向けられた。
何やら固く決意をした凛々しい目つきに、なまえの心臓が震える。
圧倒されると同時にやはり懐かしいと、そう思ったのだ。
達哉のこの目を、自分はいつか何処かで幾度も見た気がしてならない。
「今の事は、忘れてくれ」
迷いの無い真っ直ぐな乞いだった。
先程の己の行動、言葉、一切忘れろと。
これから何が起ころうと、決して関わろうとするな。
お前は何も思い出す必要はない。
全て忘れろ。
全て━━━忘れたままで……
「、それは一体……」
##NAEM1##が全てを言う前に達哉は背を向けてしまい、それ以上続ける事は出来なかった。
無言で教室を去る達哉の背中に、教室の暗闇以上にどす黒い何かが張り付いているように見え、恐怖で心臓が一瞬で萎縮する。
呼吸が苦しくなる程の息苦しさは、達哉の姿が見えなくなった途端に収まった。
……忘れろと言われて、忘れられる訳がない。
あれ程身が引き裂かれてしまいそうな切ない思いを、どうすれば忘却する事が出来るというのだ。
それになまえは見てしまったのだ。
達哉の袖を掴んだ瞬間、電撃が流れるが如く脳裏に走った映像を。
あれは誰の記憶?
達哉の?
それともなまえの中に眠っていた記憶?
本来の記憶というべきか、別の自分の記憶というべきか……
かちりと、失われたパズルのピースが嵌め込まれたみたいだった。
きっと時折襲われる既視感と関わりがあるに違いない。
なまえはそう確信していた。
「達哉、先輩……」
達哉の名を呼ぶのは本当に"なまえ"なのか、今の彼女には自信を持って"自分"だと言う事は出来ない。
突如心に芽生えた苦しさを伴う恋慕の念も。
今は、未だ。
━━━呼吸が止まるかと思った。
なまえを視界に納めたその瞬間。
彼女は記憶の中の"彼女"と一切変わらない姿でいる。
今まさに、自分の目の前に。
世界が壊れたあの忌まわしい日、儚く美しい涙を浮かべながらも微笑み、達哉の名を呼びながら消えていった彼女。
だが"此方"のなまえは"彼方"のなまえと同じだが非なる存在。
達哉も、この世界の誰もがそうであるように。
達哉の知るなまえではないのだ。
なのだが……
先輩は、デジャヴって感じた事ありますか?
そう問うなまえの瞳は間違いなくアラヤ神社を捉えていて。
先ず達哉の身に宿ったのは戦慄だった。
もしもこの出会いもアイツによって仕組まれたものだとしたら。
なまえが自分と接触した事で、彼女が彼方の記憶を取り戻してしまったらどうなる?
なまえも巻き込んでしまう事になる。
自分一人で、全てを解決すると心に決めたのに。
だが溢れる感情は、達哉の懸念を呑み込んでしまう程巨大だった。
「なまえ」
他所他所しい表情で達哉を見るなまえに、微笑むなまえの姿が重なっていく。
笑んだままなまえが名を呼ぶ。
━━━達哉先輩━━━
記憶の彼方から聞こえるなまえの声は、張り詰める達哉の精神を弛緩するには十分過ぎた。
達哉の理性に小さな闇が翳る。
この機を逃さんとばかりに、囁いてくる己の中の悪魔。
邪悪な緋色の鋭い瞳をした、影であるもう一人の自分。
もし彼女が彼方の記憶を思い出せば、なまえは"彼方のなまえ"になると。
そう、耳打ちしてくる。
足許からゆっくりと影が這い上がって全身を呑み込んでいき、達哉の思考を隅々まで侵し尽くそうと手を伸ばして来る。
━━━だが、なまえが達哉の制服の袖を掴んだ瞬間、漆黒に包まれ掛けていた意識がクリアになった。
甘い誘惑は一気に成りを潜める。
再び己の深層の、更にその奥へと。
戦うのは己一人。
全ての記憶を取り戻した日にそう決意した。
絆と記憶と引き換えに新たに造ったこの世界、もう一つの世界、居住する人々、そして仲間達の為だ。
例え刺し違えてでも、あの全ての根源を屠ってみせると。
ヤツに付けられたこの痣に誓った筈だ。
なまえは何も知る必要はない。
思い出す必要もない。
全て護ってみせる……それが彼女との本当の訣別に繋がるとしても。
何か言おうとするなまえを遮るように教室から抜け出し、窓の外から入り込む街灯のみを頼りに薄暗い廊下を歩く達哉の体には赤い炎が揺らめいているように見える。
窓ガラスには彼に被って、深紅の衣と仮面を身に付けた神々しさすら抱かせる半透明の男性が映っていた。
これは七姉妹学園及び珠阯レ市で妙な事件が度重なって起きる、およそ数日前の出来事である。
事件の渦中で再び二人が邂逅を果たすのはもう間もなく。
混沌による奸計か。
或いは普遍的無意識の化身である者達が見極めようとしていた、人間の秘めた可能性が引き起こした奇跡なのか。
吉と凶どちらに転ぶかは、彼等の此れからの行動に委ねられている。
戻る