こいっていうからあいにきた


はて、恋を知らなければよかったのか、それとも彼女という存在を知らなければよかったのか。璃月の法律家である煙緋は頭を悩ませていた。

「煙緋さん、大丈夫ですか?」

眉を下げてこちらを覗き込む顔には、いかにも"心配だ"という感情が滲み出てている。

「ああ、大丈夫だ。何もないぞ」

煙緋は彼女に向き直ると、口角を上げ笑顔を顔に貼り付けた。

分厚い璃月百法通則を暗記できるほどの頭脳を持つ彼女でさえ悩ませるような事。所謂"恋慕”というやつで。僅か二年程前の事だろうか。今でも目を瞑ればつい先日のように鮮明に思い出せる。
璃月に来た稲妻からの商船。そこの一員として彼女は来た。

「それの契約はあまりフェアなものとは言えないな」

煙緋の声に振り向く彼女の顔は困惑そのもので。その隣にいた璃月の男も同じような顔をしたが、すぐに罰の悪そうな表情に変化した。

「あの、」
「お嬢さん、あの商船から来たんだろう?」
「はい、稲妻より父と共に商いを……」
「そうかそうか。璃月に来るのは初めてかな?」

突然話しかけたせいで不安を与えてしまったのだろうか。彼女はとても小さな声で肯定した。

「ふむ。お嬢さんもある程度の相場は調べてきたんだろうが、正直その品質での値段となると随分高い買い物になるだろうな」
「え、煙緋さん!」
「品質、ですか……?」

男の持つ石珀に目を向ける。璃月の特産である石珀や夜泊石は、各国からも人気は高い。高品質な物であれば希少値も高くなるのでそれなりの値段がつくが、男の持つソレはお世辞にも高値がつくような物とは言えない。より良い品質の見分け方、そうでは無い物の値段の相場などを淡々と伝えていると、男は何やら焦ったように 用事を思い出した。 とそそくさと消え去って行った。

「おや。どうやらかなり急ぎの用事のようだ」
「あ、ありがとうございます!あなた様のおかげで不当な売買をせず済みました!初めて外国に来たとはいえ、商い人として物の価値を見抜けぬとはお恥ずかしい……」

火照る顔を抑える。しかし、先程の小さく控えめな声とは思えぬ程の声色の変化に、煙緋は思わず笑いが漏れる。そして、お役に立てて何よりだ。と笑う様を見て、彼女は更に頬を赤く染めた。

それが煙緋と彼女とのはじめまして。それからもう二年。本来ならば、もっと早く璃月を出国する予定だったらしいのだが、彼女たちの故郷である稲妻が鎖国令を出してしまい、帰れに帰れず二年。困り果てた商人たちに手を差し伸べたのは、璃月七星の一人である天権こと凝光だった。近年の稲妻事情を知り、璃月での規定を守ることを絶対条件に彼らの期間未定の滞在に許可を出したのだ。

「まさか、本当に稲妻に帰れる日が来るとは……!」

破顔するその顔に何とも言えない気持ちが、煙緋の心を支配する。

「ようやく、故郷に帰れるな」
「はい。天権様たちはもちろん、煙緋さんにも大変お世話になりました」

二年など仙人の血を引く煙緋にとっては少し目を瞑る程度の時間感覚だろう。しかしその少しの瞬きの間に、ただ一人の人間に随分と情を寄せてしまったのだ。

「故郷に残した母にはとても心配をかけてしまって……。幼い兄弟たちの顔もやっと見られます」
「……そうだな。手紙だけでは心許なかっただろうに。お前や父君の元気な顔を見れば安堵するだろうな」

はやく見せてやらないとな。そんな言葉に、どの口が言うんだ。と自分自身に悪態をつく。

「出国は明後日だったか」
このままお前だけでも残ってはくれないか
「はい。明日は天権様方に、近隣の皆様にご挨拶を。明後日は朝から出国となります」
「そうか。寂しくなるな」
二日後にはお前がいない日常なんて考えたくもない
「私も煙緋さんとのお別れは寂しく思います。……しかし、二度と会えぬわけではありませんから」
「……そうだな」
璃月と稲妻。どれだけ遠いか。簡単に会いに行けるような所でもあるまいし。また将軍様とやらの気が変わって鎖国してしまうかもしれない
「また必ず貴方様に会いに来ます」
「……ああ。その時を待ってるぞ」
今はその笑顔すらも憎らしい。いっそこのまま攫ってしまおうか

なんてまた思ってもいない事を考えては、頭の隅に追いやった。

商船が出国の日。煙緋は彼女に会いに行かなかった。女々しいと言われるだろうが、笑顔で見送る自信がなかったからだ。その日一日はただ、ぼうっと港の方を見て過ごしていた。
次の日だった。ピンばあやが一通の手紙を持ってきた。聞けば、出国日に煙緋に渡そうと彼女が認めた物だという。

「今更虚しくなるくらいなら、やはり顔を見ておけばよかったな」

せめて此方も何か贈り物でもしてやればよかったな。と後悔を抱えて手紙を読み始める。中身はまあ、何となく予想がついたもので。世話になったやら商い人としての経験やら楽しい思い出も沢山できた等々。彼女らしいなと、不思議と笑みが溢れる。
最後の一枚になった時だ。煙緋から笑みが消えた。

『最後になりますが、本当ならば直接会って言えぬ私の臆病を許してください。煙緋さんと出会い、心から貴方様を、お慕い申しております。もし、もしお返事を頂けるのであれば、この身璃月に骨を埋める所存です。
では、どうかお身体に気をつけて。』

見間違いではないだろか。何度も同じ行を繰り返し読んでみる。うん、間違いない。そして暫くすると、ガタガタと忙しなく引出しの中を漁った。
はて、一番良い便箋はどこにしまっただろうか。手紙とついでに何か贈る物でも……。どの色の物が好みだったか……。
いろいろと頭の中にリストが溜まっていくが、まずは返事を書こうと羽根ペンに手を伸ばす。おかしいかな、先程までどんよりとしていたように見えた空が、今ではこれ以上にないくらいの青空に映る。

「今度は私から会いに行ってもいいな」

ぽつりと呟いた声が弾む。

知らなければ、なんて思っていた恋がいつの間にか愛に変わっていったのだった。


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