ピッフル国
拠点の丸窓はカーテンが取り付けられない構造になっていて、晴れた朝は眩しいくらいである。健康的な活動と休息の時間を強制されているようで癪だったが、今日は一層腹立たしく感じる。
「ファイ……もう起きるの」
「起きないのー?」
起きなければならないのは分かっているが、引き留めるように声を掛けていた。問い返されてその事を自覚し、黙りこくる。既に起き上がっている彼に倣い、私も緩慢に起床動作を始める。
「いつもウサギなのに、カメさんになっちゃったねー」
「ウサギよりはカメかも」
「え――それでも、ウサギさんだよね――」
揶揄するような声色に、言わんとしていることを理解しかけたが、敢えて思考を放棄した。
あっちこっち跳ねている寝癖を手櫛で適当に梳きながら部屋を出ると、何故か二階から上がって来た黒鋼と出くわした。当然二人で部屋から出るところを見られているが、これも間の悪い男である。
「おはよー」
「おはよう」
「……」
「今何考えてる?」
「それ、聞くんだー?」
無視するわりに信じ難いものを見るような目で見てくるから、聞かずには居られなかった。
「手ぇ出してないから怒らない、でっ!?」
「余計なことばっかり喋んじゃねぇ!!」
「あはははは」
朝イチの拳骨は今までで最高の威力だったかもしれない。
洗面所で支度をしながら今日の予定を確認し、私とファイは一度別れて各々身支度を済ませ、キッチンで再会した。マシンの調整と運転が順調な私たちが家事に携わることが多いため、いつもの流れである。
その内サクラが起きてきて、今日の彼女の予定を聞いている内に黒鋼も降りてきたので朝食が始まる。小狼は大抵サクラより前に起きてくるのだが、今日は食事を終えても、マシンを出して作業の準備を終えても、起きて来ない。
「パーツ、先に買いに行っておいでー。作業進めたいでしょ」
「ありがとうございます!」
「モコナ、小狼起こしに行くー!」
「黒ぽっぽ、運転よろしくー」
「行くぞ」
「はい!」
サクラと黒鋼はいいペアである。ああいう純朴な若人たちには優しいらしい。
彼らを見送る私が余程物言いたげな顔に見えたのか、頭を撫でる手がある。
「よしよし、黒むーの拳骨痛かったねぇ」
「痛かったー」
「ウィズ、何したの?」
「何もしてなーい」
「何かした顔だー!」
「あはは、バレてるねー」
モコナも嘘を見抜くのが得意――いや、もしかして私は嘘が本当に下手なのだろうか。
小狼はモコナが起こしに行って間もなく降りて来た。私は洗濯を終えた衣類を畳むためリビングに居るが、ファイは外でマシンを見守ってくれている。
「おはよー、もう外にマシン出しちゃったー」
「おはようございます。家の事も、ありがとう」
マメ。可愛い。百点。
外からはモコナとファイが数分ぶりの感動の再会を果たしている声が聞こえてくる。小狼を起こしたモコナに褒めチューかましているようだ。褒めチュー。
ちら、と外を覗く。
「すみません、寝坊して」
「疲れが出たんでしょ――」
「いつも小狼いっぱいがんばってるもんね」
「ね――」
「おかえしのちう♡」
モコナに”ちう♡”私もされたいのだが。小狼が何やら不在のメンバーの所在を確認しているようだったが、詳細はモコナの”ちう♡”の破壊力に全て掻き消された。私も、されたい。モコナ用の布団を用意して毎夜待てばしてくれるだろうか。
耐えきれず、洗濯物を畳む手を止めぼやく。
「モコナの”ちう”はいくら払えばいいのかな?」
「ウィズさん、それは、あの」
「うぅ、不健全ですよね……やっぱりお金で買えないよね、愛って」
小狼はいつの間にかリビングに戻っていて食事の用意をしている。彼の表情は雄弁である。
大して汚れていない部屋の掃除も終えたところで、私も外に出て一度マシンを点検し始める。何度か飛ばすことで見えてくる脆さもあるので、毎日飛ばして確認する必要があるのだ。ファイは今特にやる作業が無いようで、自分のマシンの上でしゃがみ込んで太陽を浴びている。
食事を終えた小狼も片付けを終えて外に出てきたようだ。
「しかし、今度もまた変わった国だねぇ」
ドラゴンフライは勿論、ファイにとっては車も新鮮に感じられるようである。車体のデザインは未来的に変容しているが、機能的には概ね一度目の人生における車と変化が無いので、私には馴染みがある。
「でも、なんかぽかぽかした国だね」
「特に表立った争い事は起こってないみたいですし」
「修羅ノ国と夜魔ノ国は大変だったからねぇ」
モコナの言葉に二人も同意するよう、紗羅ノ国に続けて飛んだ二つの国について語り始める。小狼の表情は次第に険しくなり、黙りこくるので頭の上のモコナがその眉間をさすった。
「小狼、ここんとこきゅ――ってなってる」
「そ……そかな」
「モコナ!あそこの箱持って来てくれる――?」
「はーい!おてつだいー♡おてつだいー♡」
うーん、可愛い。遠くの荷物にぴょんぴょんと跳ねて行ったモコナの姿を見ながら、二人の会話を妨げないよう、作業を控えめにする。
「紗羅ノ国で起こった事……ひっかかってるのかな」
「おれ達が”過去”である修羅ノ国に行った事によって、紗羅ノ国の”今”が変わりました。
たとえいい結果になっていたとしても、時間の流れに干渉してしまった事に違いはありません……」
「……そこにあった未来を変える事が許されるのか。……か」
答えの出ない問題かもしれなかった。積極的に関与するべきことではないと思っていて、だからといって今後何も干渉せずに居られる自信も無いのだろう。小狼の真面目さが彼の首を絞めていた。
「今後また過去の世界に行くかは分かりません。でも修羅ノ国であったような事を続けたら、他の世界の歴史はどうなってしまうんでしょう」
小狼の懸念に概ね賛同の意見を持つ私は脳内で”バタフライ・エフェクト”という言葉を思い出していた。遠い地の蝶の羽搏きが竜巻を起こしうるのか。そして、小狼の放った一言と、紗羅ノ国に与えた影響。これはまさにバタフライエフェクトを象徴とする出来事である。
遺跡や歴史に関心のある小狼ならば一層、その責任を感じるのかもしれない。
彼にかけられる言葉は思いつかない。しかし、ファイはその俯く頭に手を置いた。
「それは小狼君が考えても、今はどうしようもない事なんじゃないかなぁ。
だったらとりあえず、今は考えないで、ちょっと横に置いとくのはどう?」
俯いていた顔を上げた小狼はきょとんとしている。その考えが彼になかったのだろう。
そして、それは私にも無かった考えである。考えてもどうしようもない事を”今は”考えずに置いておく。ファイが昨夜私に辛抱強く説いた言葉の意味が、今になって落ちてきたような気がした。ファイだって優しいだけの人間ではなく、秘密主義で弱さのある人間だ。それでも”今は”共に在りたいと思ってくれていることは真実である。そして、いずれ訪れる不可避の死を寒々と眺めているくらいならば”今は”温め合っても、誰かに凭れても、いいだろう。
「出来ない事は出来ないって、ちゃんと認めるのも大事だよ。
今、小狼君がまず考えなきゃいけない事は?」
「レースに勝つ事です」
小狼の表情から迷いが消え、活気に満ちた微笑みを見せてくれる。ファイもそれを見とめ、微笑み返している。
私は自分のマシンから離れ、その細長い背中につんと触れる。
「帰ってきたかな――サクラちゃんと黒りゅん。ん?」
「ファイ、あのね」
プロロロ、と間の抜けた走行音は聞きなれている。しかし、それが重なって聞こえてくるようだ。様子がおかしいと気付いて一旦言葉を止めて音源を辿る。
「えっ!!?いっぱい!?」
「先頭は黒鋼選手ですね」
「がんばれ、黒鋼ー!」
「あはははは、お客さんかなー」
どう見ても客の人数ではない車の大行列を見て、ファイは私を手招いて拠点に向かった。カフェ”猫の目”を思い出すような手際で、冷蔵庫に常備してあるアイスティーを取り出している。グラスは席に着く人の分だけで、他はプラコップをあるだけ。氷を入れて注げば、アイスティーは売り切れるがどうにか量も足りたようだ。
「あのね、ファイ」
「ん」
今が話すチャンスなのかと思い口を開くが、横顔を見てから”今じゃないようだ”と口を噤む。
「ゆっくり聞きたいから、また夜にね」
前髪に落ちた柔らかい感触と鳥の鳴くような――そう、”ちう”の音。
「んっ?ん!?」
「溢さないようにね――」
「あわわわ」
桜都国でも無かったくらいにガタガタと揺れるトレーを手にしながら、私は失敗の許されないアイスティーの提供のことだけを考えるようにした。
「お待たせ――」
「アイスティなの、モコナも手伝ったの」
「まぁ、それは素晴らしいですわ」
アイスティーをゲストに配るモコナの可愛らしいアピールにぱちぱちと拍手をくれるピッフル・プリンセスカンパニー社長”知世=ダイドウジ”氏。うちのモコナは可愛いですよね。
「それにしても、これ程精巧なロボットが作られるなんて。あなた方の国はとても科学水準が高いんですね」
「えへへ――」
「うちの会社でも是非つくってみたいですわ」
うちの精巧なロボット・モコナと”よろしくあくしゅ”をしているダイドウジ氏はすごく若く見えるが――ビジネスに相当明るいのだろう、その手腕は彼女自身に聞くまでもなく、この街全体が証明している。大量に押し寄せた車たちとそれに乗るスーツ・サングラスの集団は全て彼女のボディーガードらしい。威圧感があるが、私たちの提供するアイスティーを腰を折って受け取ってくれる辺り、気のいい人々なのだろう。
「ひょっとして”ピッフル・プリンセスカンパニー”って、あのレースの」
「ええ、我が社が主催しています」
小狼の質問に彼女は意気揚々と返答をくれる。
「せっかくの”ドラゴンフライ”のレース!そして豪華賞品!!
スタートから最後にチェッカーフラッグが振られるその瞬間まで!その全てを記録に収めたい!」
演説めいた彼女の表情豊かな変貌ぶりと説明に、黒鋼は唖然とし、サクラやモコナは見入っている。
「その為には!!レースに出場してくれるヒロインが必要なんですわ――♡」
サクラの手を取って立ち上がり、ボディーガードの拍手喝采を浴びたダイドウジ氏はスカートの裾を摘み優雅に一礼した。サクラの愛らしさはヒロインに抜擢されるのも当然なので、私も一応拍手に参加しておく。黒鋼には再び信じられないものを見るような目を向けられたが。
「どちらのマシンに乗られるのですか?」
「あ、この子です」
「まあ!もう完成しているのですね!」
運転方法は教えているし、試乗も行ってはいるが。たじたじとした現状説明にキラキラと目を輝かせるダイドウジ氏を止める者は誰もおらず。サクラもレース自体にはやる気満々なので、私は改めて操作方法を説明し、着陸までの手順を詰め込む。
「気を付けてね」
「はい!」
エンジン音を聞いたところで離れると、サクラのマシンは景気よく飛翔した直後、萎れたようにふらつき始める。
「きゃっ!?きゃ〜〜〜」
走って行く小狼に彼女を任せ、私は工具箱を抱え上げて後を追う。
「サクラちゃん、大丈夫かなぁー」
「コケっぷりもかわいいですわ♡」
怪我が無さそうなので、かわいいで良し。寛容なダイドウジ氏にこくりと頷く。
マシンの調整のためかかりきりになることを告げようとした途端、彼女はそれを悟ったように挨拶をして場を辞して行った。多忙なこともあるのだろうが、察しがいいのだろう。
「大丈夫ー?」
駆け寄って行くと、なんとかマシンから抜け出したサクラは地面にへたり込みながらも未だ気合十分である。これは長い一日になりそうだが――
「怪我ないかな?」
「はい、大丈夫です」
「練習前に、マシン一回見ておこう。壊れてたら危ない」
こくりと反対で頷いた小狼にサクラとマシンの調整を任せ、私は一旦来客後の片付けに戻ることにした。後は若いお二人で、ってやつだ。
二人は夕食後にもマシンの操縦を確認しに出て行った。夜間の飛行がサクラにはまだ心配なのは小狼も同様らしく、エンジンを掛けないままシミュレーションをしているようだ。私はリビングの窓からそれを見守っていた。
丁寧に何か説明している小狼の姿と、それを聞いて返事をしながら実際にハンドルを切ってみるサクラ。勢いのいいサクラのハンドル操作は下手するとスピンし兼ねないな、と思っていると小狼がその手に触れて何か優しく言い伝えたようだ。そして、二人でおろおろと何か慌てている。
「ん〜〜〜良い……!」
「なんだ急に」
「あはは、微笑ましいねぇ」
急も何も無いが、この朴念仁まさか見逃したというのか。横で眺めていたはずなのに。
「そういえば、今日の黒たんも微笑ましかったー。はい、おかわり」
「ああ?」
「ありがとう」
確かに、今日の黒鋼はおろおろとして落ち着きがなかった。
ファイが私たちにくれたビールの飲み口にはライムが切られて挟まっている。本当に細やかなことだ。ちゃんと絞って瓶に押し込み、泡を眺める。
「知世ちゃん。黒たんの国のお姫様にそっくりだったんでしょ?名前も一緒ー」
ファイの口からも、今日の黒鋼は彼女を意識しているのがよくわかったと語られる。桜都国において草摩の一件で黒鋼は既に経験しているはずだが、余程彼にとって重要な相手なのだろう。一国の姫と、国一番の社長。確かに立場は違うが、彼女の魂が同じなのだと感じざるを得ない才女である。
「でも、結構会うもんだねぇ。姿は同じでも同じじゃない人に」
日本国の知世姫について聞くファイに黒鋼が答えることはない。
「可愛い子だったねぇ、面白いし」
全くだ。こくりと頷いてビールを煽る。
「おまえはまだ会ってねぇようだな。逃げ続けなきゃならねぇ理由と」
「……」
黒鋼が黙って言われっぱなしでいる訳がないとファイも分かっていたのではないだろうか。もうこのギスついた空気には慣れてしまった。
酒だ、酒。
「同じ顔でも、同じ奴とは限らねぇけどな」
「……分かるよ」
聞いたことのないほど、ファイの声は硬い。湧き上がる感情のせいか、思い出した過去のせいかは分からないが、柔和な表情すらも消えている。昨夜、産まれた国について一言だけ明かしたときよりも、押し殺した感情が強いものだと感じさせる。
「ただ同じ顔をしているだけなのか、それともあの人なのか。オレには分かる」
ファイの言う“あの人”は、彼に傷を残したのだろう。ただ硬いだけの表情から悟った訳ではない。これまで関わってきたファイという人間がこう頑なになるというならと、予想しただけに過ぎない。
これ以上の追求を許さないのに、これまで見えずに感じていただけの壁の実態を捉えた感覚は、それでも彼に何歩も歩み寄ったような感覚がある。
「君に知世姫が分かるようにー」
ダイドウジ氏について語っていたときの笑顔に戻ったファイを黒鋼は暫し睨みつけたあと、こちらを見る。私が何か知っているとでも思うのだろうか。無論知らないわけだが、仮に知っていても、私は仲人のような役割を担うガラではない。
「お前はどうなんだ」
「え?」
「旅をしてたんなら、一人くらい見たんじゃねぇのか」
同じ魂の別人。遠い一度目の人生の記憶に関しては朧気で、出会ったとしても分からないだろう。二度目の人生では長く生きて旅をしていたため多くの人々と出会ってきたが、この旅の途中で出会ったことはない。
それに、二度目の崩壊した世界の人々の魂は、恐らくそのまま呑まれただろう。黒く塗り潰されていく景色の中、魂ばかりは救われるという幸運など考えられない。それだけの暴力的な絶望感があの終末にはあるのだ。
もし、会えたら。何かの間違いでも、彼らが一人でも生きていて再会したら。或いは、魂が無事で他の世界を生きられていたら。それは無論安堵するだろうが、私はきっと有終への羨望と喪った彼らへの罪悪感で狼狽することだろう。
「まだ、見てないね」
「……めんどくせぇ奴らだな」
直球で困る質問ばかりする黒鋼も面倒臭いと思う。歯に衣着せないわりに機微に敏いのが心底厄介な男である。この強引さに救われている自覚はあるし、尊敬も感謝もしているが。
外から聞こえてくる大きなエンジン音に気付いた直後、サクラの慌てた悲鳴とモコナの歓喜の声が近づいて来た。事故る、と予想はついたが咄嗟にできたのはビールの口を手で押さえることだけだった。
「ごめんなさい〜〜〜!!」
拠点がグラついたので恐らく当てたのだろう。顔を出した私たちにサクラはペコペコと何度も頭を下げている。それより、マシンが煙を上げていることが余程危険である。
「怪我がなくてよかった」
マシンと壁の応急処置に当たっている三名が外に、モコナとサクラは私と中に。昼間のこともあるので、一度入念に身体を診たが、擦り傷すらなく問題無しである。
モコナはスリル満点のアトラクションを満喫したようだが、小狼は気が気じゃなかっただろう。
「私ね、一生懸命にやってるサクラちゃんが大好きだけど、同じくらい……ううん、それよりもっと、元気でいてほしいなーって思ってるんだよ」
キョトンとしたサクラだが、心配の気持ちが伝わった後は寧ろ萎れて落ち込んでしまったようだ。
「すごく意気込んでるもんね」
「……はい。私でも出来ることだから。一生懸命やりたいんです」
サクラは、そういう子だ。記憶を取り戻す度に見えてくる一面が、サクラという一人の人間として今でははっきりと解る。
サクラはもう眠り姫では無いのだ。
「明日、私と一緒に二人乗りしてみようよ。飛ぶ感覚、きっと分かると思うから」
「いいんですか!?」
「うん。二人分の体重だし、あんまり高くは飛べないけど……」
「嬉しいです!本当に有り難うございます!」
長身マッチョの黒鋼も乗れるドラゴンフライである。本番のような動きは無理でも、簡単な操作を理解するくらいならば参考になるだろうと提案したが、サクラは弾けんばかりの笑顔を見せ喜んでくれた。
明日練習する約束を取り付けて本日はしっかり休むよう伝え、サクラをモコナに任せ寝室に見送った。
「マシン、どう?」
「もう大丈夫そうだよー」
「あとは明日、また動かしてみないと」
ライトで内部を照らすファイ、作業する小狼、黒鋼は道具を渡している。素晴らしい連携プレーである。
「壁は……ははは、いい感じ」
「このまま残しておきたいねー」
「サクラちゃん、気にしそうだから直しちゃうけどねぇ」
どう刺さったかがはっきりと残る壁の凹みは趣があったが、これを見るたび慌てる彼女の顔が浮かぶので、工具箱から取り上げた道具で応急処置を施す。快適ではあるが、例に漏れずいつまで居るか分からない拠点である。きっとこのまま応急処置でこの世界を発つことになるだろう。
一仕事終えた後はシャワールームを譲られ、手早く済ませたあと、丁度リビングから上がってきたファイと二階の廊下で出会す。
「ファイ、次?」
「うん。オレの部屋で待っててー」
家主不在の部屋に居座るのは、許可があっても気が引ける。日中に話すつもりだったことを聞いてくれるのだろうが、そう長い話をする予定ではないし。
色々と言いたいことはあるが、ファイはそのままふらっとシャワールームに行ってしまうし、残された私は言われたままにする他ない。
ベッドとサイドテーブルしか家具が無い部屋の座る場所なんて決まっている。ベッドの端に膝を抱えて丸くなる。
沈んだ布団から、嗅ぎ慣れた匂いが舞った。洗濯物とファイ自身の匂いは癒される。同じ物を使って同じ物を食べていてもサクラとも違う、小狼や黒鋼とも違うのは人体の神秘である。ファイが生物学上お兄さんであることは分かっているが、その柔和な物腰とこの仄かに甘い香りによって錯覚しそうになる。
背中から倒れて布団を嗅いでみるが、匂いは微かである。それはそうだろう。いつも本人から漂う香りを嗅いでいるのだから。
ノブが回る音で直ぐさま布団を手放す。急で驚いたが、確かにここは彼の部屋なのだからノックもなくて当然である。起き上がった直後にドアは開いた。
「お邪魔してます」
「ふふ、いらっしゃい」
やっぱりファイはお姉さんかもしれない。温かい空気を纏いシャンプーの香りを振りまく柔和な微笑みの美女だったかもしれない。瞑目して頷き、自分の感覚を肯定した。
彼の手には二つのマグカップがあり、一つ手渡されたものを覗くと中には甘い香りのホットミルクが入っている。やっぱりお姉さんである。
「今、何考えてる?」
「ファイって……」
続けようとした言葉を一度止めて、隣に腰掛けた彼を見上げる。綺麗なお兄さんである。言うのはやめておこう。
「……内緒にしておく」
「そこまで言ったのに――」
「いただきます」
「もー」
やさしい甘さが美味しい。自分で作ってもこうはならないだろう。
「おいしい」
「よかったー」
顔を見なくても、その一層柔らかい声からあのふにゃりとした笑顔が浮かぶ。
ファイは昨夜、私が彼に何か親切にしているようなことを言っていたが、日頃そうしてくれるのは寧ろ彼の方だと実感する。これが所謂“無自覚どろどろ”なのかと思うと末恐ろしいお兄さんである。私は彼のこういう際限のない優しさが身を滅ぼすと忠告していたのに、今からそれを飲み込もうとしているのか。
微かに湯気の残るマグカップの中を見ていると、底の見えないところも、温かさも、黒鋼の嫌がりそうな甘さも、ファイそのもののようで胸が少し痛む。きっと、私は彼を失った後で、この時間を思い出すだろう。そして、自分では作れないホットミルクの味をいつしか忘れ、喪失感に苛まれるのだ。
悲しみ、恐怖、寂しさ、憤りも。終わりの見えない時間を憂いたとき、目を閉じて一呼吸する。負の感情が渦を巻くことに意味はない。それらを全て腹の底に押し込んで、腐って忘れるのを待つ儀式だった。
「今、何考えてる?」
「……ファイ、今日はそれよく言うね」
「朝、ウィズちゃんが言ってたでしょ」
確かに。この部屋で目覚めて、一緒に部屋を出て鉢合わせた黒鋼の渋い顔に、私はそう投げかけた。
「あのとき、答えが返ってくるって思ってた?」
「どっちでもいいって思ってた」
「じゃあ、どうして聞いてみたの?」
「……黒鋼が渋い顔してたから。何か言いたいんだろうなって」
「今のウィズちゃんも、朝の黒りんみたいだったよー」
ただ、目を閉じていただけなのだが、ファイにはそう見えたのか。
「阪神共和国でも、その顔してた」
最初の国での話を、よく覚えているものだ。濃厚な旅に埋もれているのが自然だが、ファイはやはり頭の出来が違うらしい。
今日で言うのならば、黒鋼の知人である知世姫と、初対面のダイドウジ氏が魂を同じくする別人であるという話について、初めてファイが説明したのはお好み焼き屋でのことだ。あのときは、小狼の国の王と神官が別人として居て、彼らは”根元”を同じくするのだろうと言っていた。
そして、私はそのとき自分の根元に関する疑問を腹の底に押し込めていた。
「考えてもどうしようもないこと、置いておくための儀式っていうか……癖です」
「話してみたらいいんじゃない?」
昼間、小狼にそうしていたように、ファイは悩んでいる人を見抜くのが得意なのだろう。吐き出してすっきりすることもあるだろうし、彼ほど頭が回って優しければ解決策だって出るかもしれない。
手で握り直したカップはもうぬるくなっている。ずっと温かい訳ではない。これも、人間と同じ。
「楽しいこととか、嬉しい気持ちだけ、言葉にして残したいなあって。せっかく、一緒にいるから」
寂しさを言葉にすることで、輪郭を持たなかった感情が実体を得て襲って来る気がする。頭の奥で、腹の底で、木霊する負の感情には蓋をして、心地よい浅瀬で揺蕩いたい。
「今日、小狼君に話してるの聞いて、私もちゃんと気持ちの整理が付いたから」
空になったカップをファイが受け取って、サイドテーブルに置いてくれる。細長い背中を眺めて、その顔がこちらを真っすぐに見る。その顔にいつもの微笑みはなく、心底心配してくれているらしいことが分かる。本当に、優しすぎて心配だ。
「ファイ、あのね」
その優しさに後押しされる。何度も助けられたし、何度も心配した。この出会いが尊いと思える。それだけは、この幸せな今も、いずれ訪れる孤独な未来においても、揺るがない事実だと自信を持てるようになった。
「抱きついてもいい?」
少しだけ心配になって、一旦伺いを立てると、きょとんと目を丸くした。これは、大丈夫の顔だ。そう分かるだけの時間を、もう過ごした。
何の用意もできていない隣の身体にぎゅっと抱き付いて、心地よい温もりに擦り寄る。
「んん?どうしたのー」
突然の抱擁とはいえ、困惑するファイは珍しい。少し笑うと、抱き付くためによけていた右手が私の背中に回ってぽんと優しく叩く。
頬で温もりをしっかり堪能したあと顔を上げ、こちらを見下ろすファイと目を合わせる。まだ混乱しているその顔へ、照れ臭さに蓋をしてから精一杯微笑みかける。
「ファイ、いつもありがとう。ファイが一緒に居てくれて、嬉しい」
前にも、こんなことをそういえば言った気がする。
「だいすきだよ」
でも、そのときはそこまで。こんなに恥ずかしくなかった気がするんだけど。
昼間から温めていた言葉を伝えられた満足感を上回る顔の熱さに耐え兼ね、顔を下げるため離れようとすると、身体が上に引っ張り上げられ、締め付けられる。
「も〜〜〜」
牛がいる。
綺麗な牛は抱き上げた私を膝に乗せたまま、こてんと首を倒して胸元に項垂れた。つむじを見るのは、初めてだ。柔らかい髪に手をそっと添えて、ふわりと絡む心地は病みつきになりそうだった。指先で優しくその髪を梳いてみる。ファイが時々してくれるように。
「それ。オレに言えないでしょ、ウィズちゃんも」
「なに?」
「”どろどろ”」
ゆっくりと持ち上がった顔に見上げられる。蒼い瞳。
「これ?」
「これも。さっきのあつーい告白も」
「あつい、こくはく」
柔らかい髪を梳く手が止まって、汗が滲むほど首から顔が熱くなる。ゆっくりと自分の発した言葉を、ファイの言う”意味”になぞって思い出す。確かに、私は大告白をかましていた。そう、この状況も相まって”愛の告白”以外の何物でもない言葉で。
「か、帰る、部屋」
「帰すと思うー?」
部屋に戻って一旦冷静になった後で、翌朝には無かったことにするか、上手い言い訳を考えておきたい、得意の徹夜で。
「それとも、今のって嘘だった?」
囁くようなファイの声色に喉が詰まる。嘘じゃない。本心である。ただ、愛の告白をするつもりで言った訳ではない。大体、熱い告白って何だろう。愛、熱い、告白って何のことだ。
「嘘じゃない」
「……よかった」
よかった、で良いのだろうか。この人は。
自分の言動で混乱している本末転倒の私は一旦落ち着きを取り戻すため、また俯いた丸い頭を撫でる。その頭の上に自分の頭を乗せると、シャンプーとファイの匂いが混じり合って、落ち着く。
「ファイに大好きって、伝えたかった」
感情を言葉にすると輪郭を持って残る気がするから、温かい気持ちは伝えたい。その頭を抱くようにそっと腕を回す。この身体の温度も、ファイならば覚えていてくれるだろう、その命の最期まで。
「……オレ、どろどろにされてるー」
「え……ああ」
そういえば、そんなことを言われていたかもしれない。
「お互い様でしょ」
元はと言えば、ファイが見境なく人に甘いせいで、私に被弾させたのは彼である。打ってきた球を返したまでだ。
ぽつぽつと暫く互いを責め合っていたが、既に夜も更けつつある。私は平気でも、彼を眠らせるべきだろう。邪魔している彼の膝の上から立ち上がろうとするが、背中に回った手が容易くは離れない。その手をつつくと、絡め取られて片手の自由も無くなった。
「ファイ、もう寝たら?」
「そうだねぇ」
カップもそのまま、ホットミルクを飲んでしまったのに歯磨きもまだ。捕食されるように吸い込まれた布団の中から逃れるべくベッドの外に手を伸ばすが、絡め取られてお腹を引き寄せられた。
「ちょっと」
「ふわぁ」
「一人で寝てよ」
「一人で寝れない人が居るでしょー」
「その言い方やだ」
「ごめんねぇ」
頭に柔らかな感触が当たると共にちう、と音が響く。そう。そうだ、これ。
「それもやだ」
「あれもこれもー」
私が悪いみたいな言い方をしているが、距離感がおかしいこの軟派男が悪いと世間も言うだろう。
「恥ずかしいから、やめて」
モコナとファイはこの距離感でいいかもしれないが、私には親密過ぎる――いや、そもそも一緒に寝ているのがおかしいのでは。
腹に回っている腕、絡み合う指。背中にぴったり寄り添う温度。触れ合う脚。
「ウィズちゃん、熱ある?」
「……私、なんかおかしいかも」
「……ぷっ」
「おかしいんだ……」
黒鋼が渋い顔をしていたのも、この距離感がおかしいからだ。そもそも、見た目上は年頃である私とファイが一緒に部屋から出てきて、実際同じベッドで眠ってることがおかしい。夜魔ノ国では便宜上そうなっただけで、このピッフル国では自室があるのだから尚おかしい。
分かっているようで実際分かっていないところが私はおかしいのだ。手を出してないと宣言したものの、手を出すとはそもそもどこからどこまでだろう。同じベッドに居るだけはセーフなのだろうか。じゃあ、小狼とサクラがそうなっていたら。いや、駄目だろう、二人にはまだ早い――であれば私とファイの距離感も駄目だろう。
「ファイ、あの」
「ん――?」
「……ん、何でもない」
まあ、ファイは実際綺麗なお姉さんみたいなものだから、いいか。
「今日これで寝るの?」
「眠れなそう?」
背中から伝わる鼓動が少しだけ速い。布団からはファイの匂いがするし、絡み合う手足から体温が伝わってくる。全てが一人ではないと教えてくれる。
「ううん、ファイが居るって分かる」
「……ん」
どくどくと打つ心臓の音に、笑いが零れる。あつい告白、結構効いているらしい。こんな予定ではなかったが”良かった”と思ってくれたのだから、いいだろう。
喪う物が大きく育った。その分だけ、虚しくなる未来が待っている。それでも、今は。今だけでも、この温もりに浸っていることにしたのだ。音を、温度を、香りを、手触りを。痛いほど、覚えていたい。照明の落ちた部屋で目を閉じる。この肉体に、この記憶を刻み付けるように。
アメジスト TOP