ピッフル国
一晩くらい放っておいてくれたらいいのに、わざわざモコナに食事を運ばせる辺りがファイの厭らしい采配だった。私がモコナを強く拒否できないことを解っていての人選だ。運び込まれてきたのは小狼が熱を出したときにファイが作っていたミルクパン粥で、別に体調が悪い訳でも食欲がない訳でもないが、サクラたちにはそう誤魔化してくれたのかもしれない。
ドアを開けられないモコナを私自身の意思で扉を開かせ、招き入れた。ベッドに腰かけ、トレーを膝に乗せる。
「いただきます」
「召し上がれ」
程よく温かくて、火傷する程の熱さではない。以前よりも塩気が効いていて、色々食材も入っている。考えて作ってくれているのが、余計に気を遣わせて申し訳なさを煽る。
ぽたぽたとトレーにこぼれる涙に、隣に座るモコナが気づかない筈もない。
「内緒にしてね」
「うん」
「美味しい、ありがとうってだけ、伝えてほしい」
「うん」
一度こぼれた涙は勢いを失わず、寧ろ優しいモコナの相槌に後押しされるように強まるばかりで、食い意地だけで食べ終えたトレーをようやくサイドテーブルに置いた。
「いっぱい食べて、いっぱい寝て、明日は一緒に朝ご飯食べに行こ」
ぽてんと腿に凭れたモコナの柔らかい身体を撫でる。頷いた私の頬から腿へ落ちた涙の跡をモコナが撫でる。
「モコナもね、みんながケガしたり悲しんだりしてるとこ、みてるとつらいの」
モコナは私たちのことを本当によく見ている。私の気付かない他の一行の機微にも気付き、こうして寄り添っているのだろう。
「でも、サクラがどんどん元気になって、一生懸命なのを応援したい気持ちもあるの」
「……私も」
「サクラのこと、モコナも守るよ」
モコナは胸を張って私を見上げる。
「モコナのこと、信じてる。でもモコナのことも心配になって、ファイや黒鋼、小狼のことも心配になって、私どうしようもないの」
「どうして?」
「一生懸命な皆を裏切ってる気持ちになるの。同じ方向を見て、同じように走れてない。ファイにも散々迷惑掛けてるし、頑張ってる皆の足引っ張ること考えてる」
自分に嘘をついて、騙すことでしか前を向けないことが後ろめたかった。いくら隠しても見抜かれるこの弱さが、いざという時、足を引っ張るだろう。
「ウィズはみんなのこと大好きなんだね」
「……そうだね」
「モコナも、ウィズも、みんなのことも大好きだよ」
腿に乗ったモコナが、私の腹に身を寄せる。温かい。
「大好きだから心配になるよって、言われたらウィズはいや?」
「……ううん」
モコナの言葉は柔らかくて、でもモコナだから素直に飲み込める気がした。
「みんな、ウィズのこと心配してたよ」
モコナの言葉が私の胸を締め付けるのに、暖かい。モコナの伝えたい事は真っ直ぐに胸に落ちて、痛い。
「ウィズが、みんなのこと心配してるの、モコナちょっとだけうれしいの」
「……どうして?」
「みんなで一緒に居たいって、思ってくれてるの、わかるから」
引いていた一線を超えていることなどモコナにはお見通しで、初めから終わりまですべてが情けなかった。
「モコナも一緒だよ。みんな、ウィズを一人にしない」
「……ありがとう」
「信じてない!」
「信じてないけど、嬉しいよ。その言葉が」
モコナとも、他の一行ともいずれ別れは来る。それでも、羽根を探すこの旅の終わりまでは共にいてくれるつもりだという気持ちが嬉しかった。こんなに頼りない足手まといの私でも、見捨てずにいてくれることが。
むくれているモコナを抱き上げて、すり寄る。
「モコナは落ち込んだりしないの?」
「する!」
「そういうとき、どうしてるの?」
「うーん」
敢えて意識したことが無いのだろう、少し考え込んだモコナはすぐににっこりと笑って囁いた。
「みんなに、ぎゅーってするの♡」
「……それはモコナにしかできないな」
「えー!ファイにはできてるのに――!」
「ぎゅーはしてない!」
いや、してるかもしれない。
「黒鋼にはしてないでしょ」
「ウフフ♡」
成し遂げた顔をしているモコナを唖然として眺める。
「でも私にぎゅーってされそうになったら、皆逃げるじゃない」
「……モコナにいい案があるの♡」
それだけ言って皿を下げに行ったモコナが、暫くしてから寝間着のサクラを連れて戻ってきたので私は明らかに泣いていた顔を隠すこともできなかった。
身体を冷やすのは良くないと一旦部屋に入れ、モコナと三人でベッドに腰掛ける。
「ウィズさん、私じゃ力になれませんか?」
「えっと……でも……」
何者かに怒られるような気がしてしどろもどろになっているとどんどんサクラの顔が悲しげに染まっていく。困ってモコナをちらりと見てもニンマリと笑うばかりである。いい案とは何だったのか。
「あの、ちょっとその、心配事で、夜眠れず!」
「あっ!桜都国のときに話してくれたこと、ありましたよね」
あのときは確か前日にファイが危うく命を落とすところで落ち込んでいたのだ。翌朝出くわしたサクラに夜な夜な泣いていたことがバレて大変気まずかったのを覚えている。
「私、一人だとその……眠れなくて」
嘘ではない。眠る気が無いというのが真実に近い説明ではあるが。
「誓って襲わないから、あの……」
「みんなにナイショで、一緒に寝てほしいんだって♡」
「え?」
きょとんとするサクラと、ふんすと満足げに胸を張るモコナ、呆けたまま何も言えない私。
「内緒で……?」
「ウィズ、恥ずかしがり屋さんだから……」
これ以上モコナに話させてはロクな事にならないため、その口を塞いだまま俯く。
「そこまでは、お願いする気がなくて!ただちょっと、軽くハグとか、犯罪かな!?断っていいの!」
「え!?そんな、あのっ全然!」
サクラが断れない性格なのを分かっての人選がモコナの“いい案”だろう。慌ててお願いの敷居を下げると、彼女はあわあわと両手を顔の前で振る。決して襲わない意思表示のため両手をモコナとつないでそっと顔を上げる。
彼女は頬を少し染めて、微笑んでくれている。
「あの、私で良ければ」
可愛すぎてこちらまで顔が熱い。
「ありがとう!」
「わっ」
女は度胸。モジモジしている方が恥ずかしいと躊躇いなく華奢な身体を抱き締める。ファイよりも細く柔らかい。彼が纏う香りよりも甘く、どこか花のような優しさがある。背丈も近くて、頬には彼女の柔らかい髪が当たる。
躊躇いがちに背中に回った手がそっと抱き返してくれるのに胸がキュンとときめく。自身の胸のときめきを自覚すると共に、彼女から伝わってくる少し早めの鼓動に緊張が解れる。
「モコナもぎゅ――♡」
「ふふっ」
幸せ空間すぎる。
二人のお腹の間に挟まってきゅっと裾を握るモコナに一頻り笑ってから身体を離す。
「サクラちゃんが来てくれたから、元気出てきた。急にお願いしてごめんね」
「いえ、私こそ、あの……ぎゅっとして貰って、何だか嬉しいです」
完全降伏である。
「ありがとう……あの、元気出たから、シャワーしてサッパリ寝れそう……」
「良かったです!えっと……また、その、いつでも言ってください!」
オーバーキルだ。
「う……好き……ありがと……」
退室したサクラを確認してから、私は床に突っ伏して暫く動けなかった。モコナは部屋に残って、そんな私を見てケラケラ笑っていた。シャワーに行けるまでは一時間以上経過していた。
ぼーっとしながらシャワールームを出て鉢合わせたのは怪訝な顔をした黒鋼である。モコナ曰く彼も私を心配していたことになるが、そんな訳はないだろう。
「ほんとに顔色わりぃな」
「……え」
本当に心配してくれているじゃないか。びっくりして固まっていると眉が釣り上がるが、いつものように悪態が吐かれない。
「……あのさ、一回だけそのまま立っててくれる?」
「あ?」
「ほんっとに一回でいいから」
二階と三階の間、ただの廊下で無防備に立っている黒鋼の前に立ち、その両脇に腕をズボッと差し込んで抱き付く。
熱い、硬い。力強い鼓動、洗剤の匂いに紛れて人肌の匂いが僅かにある。
「黒鋼、レース中、無茶しないでね」
それだけ言ってすぐに身を離す。三歩も下がって両手をハンズアップすれば化け物でも見るような目が呆れた顔に変わる。
「意味わかんねぇよ!」
「じゃー分かんなくていいよ」
「ああ!?」
「それだけー」
踵を返してから、折角ならとまた振り返る。
「小狼君、下にいる?」
「まだ姫しか戻ってねぇよ」
「ありがとう」
「チッ……ちゃんと寝ろよ!」
捨て台詞がそれとは、本当に優しい男である。なんやかんや、抱き付いても振り解いたり拳骨されたりしなかったし。
階段を降りてすぐのリビングには人影がないが、キッチンに明日の仕込みをしているファイと小狼の姿がある。モコナは居らず、恐らくサクラと眠っているのだろう。二人はすぐこちらに気付いて微笑んだり心配そうに眉を下げたり、誰かさんと違って表情豊かである。
「大丈夫ですか?」
「うん、ちょっと落ち着いた。ご飯もありがとう。美味しかった」
「よかったー」
ホッとしたように微笑んでくれる小狼の何と愛らしいことか。彼にハグをするのは罪深い気がする。年頃の少年だし、サクラの存在もあるし。
とはいえ、彼だけ何も伝えないでおいて後悔する時が来たら、私は正気で居られない。
思えば夜魔ノ国で再会を果たしたときに良いだけ抱擁をかました気もする。ノルマは達成済みということにして、目の前に立った私は彼のころんとした頭を両手で掴み、わしゃわしゃと撫で回す。
「えっ……あのっ!?」
「いい子いい子」
「わあ」
「あぁぁ」
目の前の顔がどんどん赤くなっていくのを眺めてから、ぐちゃぐちゃになった髪を整えるように撫でつける。
「小狼君、よく食べてよく寝るんだよ」
「は、はい……?」
「はー、可愛い。元気が一番。いい?」
こく、と力無く頷くのを確認して手を離す。さっと両手をハンズアップすれば、じっとやり取りを眺めていたファイが深々と頷く。許されたらしい。
「小狼君、あとやっとくからいいよー」
「はい、ありがとうございます」
いつもより力無く返事をしてキッチンを出て行った小狼を見送り、何となく退出を許されない雰囲気に大人しく従って後ろを振り向く。
少し困ったように笑う顔がいつもと違う。私の奇行に困惑しているのかもしれなかった。
「モコナに、元気になる方法聞いてみたんです」
「それが今のー?」
「ううん。本当は、ぎゅーってするのが良いらしいんだけど。小狼君はちょっと違うかなぁって思ったから」
「あれでいっぱいいっぱいだったもんねぇ」
初心なのもあるかもしれないが、そういう関係性でもノリでもない年頃の少年との距離感は慎重であるべきだ。
「黒鋼は普通だったけど、サクラちゃんは危なかった」
「……ん?」
「どきどきして」
感触や香りを思い出してにやける顔を覆っていると、頭を撫でられる感触がある。いや、撫でるというよりも何かを確かめているような触れ方だ。
「拳骨されなかった」
「えぇー?黒むースケベー」
「いやいや」
そこにないタンコブを探すファイの手に笑ってから、私は少し緊張しながら彼を見上げる。
「ファイにはぎゅーってしていいよね?」
腕を広げたものか、しかしまさか断られたら虚しさが増すだろうし。志半ばで中途半端に持ち上げた手を胸元で力無く握っていると、きょとんと見下ろしていた顔がふにゃりと柔らかく笑う。
「もちろん。でも、これ片付けてからにしてもらおうかなあ」
「わかった」
器に移しかえるものや鍋のままでいいものを指示通りに仕舞って、キッチンを綺麗に拭き上げて、手を洗って。期待に満ちてファイの傍に寄って行くが、彼は手をつなぐなりキッチンを出ていく。
彼の名を小さく呼べばいつもと変わりない笑顔と優しい問いかけられるが、何となく言葉が続けられず、つないだ手に指を絡める。
導かれるのは自室より見慣れている気がするファイの部屋である。この空間にはもう慣れているはずなのに、緊張感がある。恐らく私がモコナから得た助言をこなすべく使命を抱えているからだろう。わざわざ別室に場所を移されたことが緊張を煽っているのではないか。サクラのときもそうだった。
振り向いたファイが私の背中側にあるドアを閉める。ふわりと香る彼の匂いに癒されるのも束の間、一歩下がったファイがこてんと首を傾げた。
「オレ、どうしたらいいー?」
要望に応えてくれるらしい。躊躇うのは一瞬で、妙案を思い付いて私はベッドを指した。
「座ってもらう」
にこにことご機嫌に座ったファイが目前の私を見上げている。その丸い頭の、ふわふわの髪を優しく梳くように撫でる。全員が同じシャンプーの香りを纏っているが、その奥にはそれぞれの匂いが混じっている。彼の匂いが一番嗅ぎ慣れていて、落ち着く。
優しく細められていた瞳が閉じた一瞬を狙い、私は長めの前髪に音もなく口付けた。そして、びくりとその身体が跳ねた瞬間にがばっと頭を囲うように抱きしめる。硬直していたファイが動き出すのにそう時間は掛からず、彼は私の腕を軽く叩いて離すように意思表示してきた。
「もうちょっとね」
「ん!」
短く反意を示す声が可笑しくて可愛くて少し笑ってしまう。ファイが触れられることを拒否するのは珍しいが、私としてもやめてしまうのが惜しい気持ちはある。結局、その柔らかい髪にもう一度口付けてさっと離れた。いや、離れようとした。
先程まで私の腕を叩いていた手が腰に添えられていて、後ろに下がることを妨げていた。見上げてくる視線から目を背け続けるのも限度がある。やり過ぎたようだと腹を括って彼を見る。
「やだった?」
「……も〜〜」
結局は許してくれる気になったらしいファイはやっぱり甘すぎる。へらりと思わず笑った頬が全く痛くない強さで摘まれた。
「まさか、サクラちゃんにコレやってないよねー?」
「サクラちゃんはぎゅーだけ」
「……“サクラちゃんは”?」
「黒鋼は“ぎゅ”で終わった。拳骨予防のために」
「はあ〜〜」
大きなため息を吐かれたので、未だ目下にある頭を撫でておく。細くなめらかな髪が気持ちいい手触りである。
「ウィズちゃんの思い切りのいい所にいつもビックリするよー」
「ありがとう」
「そこお礼なんだ」
お礼だろう。心当たりはあまりないが、なんやかんやで、いつも許してくれるファイに。こくりと頷いておく。
「ん、届かない」
ファイが伸ばした手の先は私の頭しかない。悪戯に背伸びをして見下ろしてみると、きょとんとした後にふにゃりと笑われる。
「よいしょ」
猫を持ち上げるように脇の下で抱えられたかと思うと、間もなくファイの脚の上に降ろされる。この椅子は座面が温かすぎて落ち着かない。布団に沈む下腿は全く踏ん張りが効かず、全体重が椅子の人に掛かっている。重いだろうという心配を大いに上回るのは、視点も距離も近過ぎるファイの視線への居心地の悪さである。驚きで硬直していることしかできなかった時間から、はっとしてその肩に手を添えて腕を突っ張る。背中に回った手からは相反する力を加えられている。
「ちかい」
「いつももっと近いよ」
「そ……かも」
早鐘を打つ自分の心音が死期を連れてきてくれている気すらあるが、目前のファイは先ほどより機嫌が良さそうにしている。
「ファイ、あの」
「うん?」
「……心臓が、おかしい」
もうそれ以上に言えることは何も無く、抗うこともやめて白旗を振った。ぷっと吹き出してそっと胸元に耳を押し当てたファイが震えて笑っている。
「ほんとだねぇ」
「離れないと」
「”もうちょっとね”」
そう、私は先ほどそう言って好き放題にしました。そうは言っても、元々はファイが私にやってきていたことを、やって返しただけなのに。
「でも、やじゃなかったって」
先程嫌だったか確認したとき、ファイはそういう感じだった。
「じゃあ、ウィズちゃんは嫌?」
「……嫌じゃないけど、何か、恥ずかしい」
何か言う度に自分の首を絞めているような心地である。また笑われている。
顔を上げたファイと目が合う。その笑顔が大好きだなと感じると共に、やっぱり居心地が悪い。頬に触れた指先が冷たく感じるのは、自分の顔が熱いからだろう。今更何を隠すこともできない。蒼い瞳の色を眺めて、その瞬き一つすら目に焼き付けることにした。
「目、閉じてくれる?」
従順に目を閉じる。呼吸の音、背中に触れる手の大きさ、あまり触れたことのない脚の硬さや腰の細さも、覚えておきたい。手に感じる肩の厚みも、鎖骨の太さも――
瞼に落ちた口づけに目を開いたのは反射的なものである。
「……んっ?」
「心配だよー、ウィズちゃんのこと」
指先に唇をゆっくりと撫でられる感覚が、そこへ集まるファイの視線が、先ほどの口づけがぐるぐると頭の中で渦を巻いている。
「ここにしちゃえば良かったかな――」
「ん!?」
「は〜〜」
抱え込まれて、布団を避けたベッドに転がる。到底眠れる精神状態ではないが、いっそ眠った方が何も考えずに済むだろう。眠りを求めていつものポジションに体勢を整える。ファイも私もいつもより体温が高くて、布団の中が暑い。
「ファイ」
「うん?」
「……んん、おやすみ」
「……おやすみ、ウィズちゃん」
これ以上余計な事は言うまい。首筋に擦り寄って目を閉じれば、案外眠気はすぐにやってくる。習慣のようなものなのだろう。いつもの挨拶が返ってくれば、早鐘を打っていた心臓もあれこれ思考していたことも鳴りを潜めたようである。
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