東京
瓦礫の向こうで轟音が止み、サクラの泣き声も消えた。ぼたぼたと頭上から降ってくる血液に黒鋼は「おい」と唸った。
「瓦礫、どけて」
爆発音と共に瓦礫を一つ、足で押し退けると、一気に視界が明るくなる。顔面に降ってくる夥しいほどの血液に、眉を顰めた。ウィズは以前のようにへらへら笑うこともせず、自分の頭に手を当てて回復魔法を掛けている。
「黒鋼、怪我は」
「ねぇよ」
「流石に嘘すぎ」
お前よりは、ねぇよ。
言わなくてもわかるだろう軽口を返して来る辺り、やはり丈夫を自負するだけあるらしい。
「ファイ、寝ちゃだめ。黒鋼、サクラちゃん……と、小狼君、見に行く」
「おう」
「大事に抱いてね」
口うるさいが、間違ったことは言ってない。出血を助長しないよう長い身体を縦に抱いて瓦礫から抜け出すと、サクラのもとへ辿り着く前に小狼の姿があった。
「小狼君、歩ける?」
「ああ」
「……おまえの、その胸の紋は?」
一行の知る小狼とは違う気配、物腰。黒鋼は見覚えのある装束の紋様について小狼に言及せずにはいられなかった。
「貴方の母上を殺めた者の紋章だ」
小狼は、一切の配慮をせずはっきりと答えた。
〇
一触即発の雰囲気を打破したのは、侑子の声である。
「待ちなさい。
その”小狼”は貴方のお母様を殺した者に囚われていたの。それに、どこにいたかもその子には分からないわ」
モコナの額からホログラムで現れた彼女の姿はいやに久しぶりに見たような感覚になる。
未だ険しい表情で小狼を見下ろす黒鋼に声を掛けるより早く、モコナが悲痛に叫んだ。
「黒鋼!ファイが!サクラも”小狼”も怪我してるよ!」
「……後で聞かせろ、魔女。全部な」
都庁の人々から治療を促され、広い一室に案内される。
医大生であるという颯姫がファイの傷を見てくれるが「無理だわ」と呟いた。
「どういう事!?」
「眼球をえぐり取られてる。普通ならショック死してもおかしくないような状態よ。
それにここには薬も足りない」
ファイがショック死しなかったのは、彼自身の体力だ。もう一方の目に宿る魔力がそれを助けてくれているのかもしれない。あとは、枯渇しそうな体力を回復魔法で騙し騙し補っているだけ。私はファイから手を離すことなく、その体力の程度を見極め回復魔法を掛け続けていた。
「ファイ、どうなっちゃうの?」
モコナが泣きながら侑子に呼び掛ける。
「お願い!ファイが死んじゃうよ!侑子!」
「……だめ、だ」
初めて声を発したファイの言葉に、ぴくりと手が震える。
「オレが生きたままなら……小狼君の、魔力も生きる。半分の魔力でも、大きすぎる……。
彼を止められなく、なる」
「ファイ!!」
部屋が揺れるほどの打撃音が響く。黒鋼が殴った壁が抉れていた。
「……誰がそんな風に腹ぁ括れっつった」
「駄目!黒鋼!!」
「……ごめんね」
胸倉を掴まれたファイが意識を失う。
「まだ、死なせないよ」
触れたままにしている手から回復魔法を注ぎ込み、その掌に爪を立てる。微かな唸り声を聞きながら、魔力の残量とファイの体力の均衡を取る。生かされ続ける限り痛みは続き、死ぬに死ねない状態を維持するだけだ。
「寝ちゃだめ」
ぶるぶると震える手に握る杖の耐久力はあとどれくらいだろう。一生、この出力の魔法を掛け続けられる訳ではない。
「魔女。こいつを死なせねぇ方法はあるのか」
「……あるわ」
それはファイが望む方法なのだろうか。もう言葉を発しない彼から意志を確認することはできない。
「けれど、あたしがやれば対価が重すぎる」
「どうすればいいの!?」
ここに来て対価を差し出され、悲痛なモコナの叫びが響き、黒鋼の孕む怒気が室内を支配する。
「やっぱり地下の水がほとんど消えちまってる」
「!!」
草薙の声と共に、都庁のメンバーがさらに戻って来たようだ。
「おれがあの場に現れたから……」
「いいえ。僕のせいです」
自責する小狼を否定し、言葉を発したのは神威の兄弟・昴流である。彼らもまた異世界を旅している最中この世界に降り立ち、昴流が地下の水に沈むサクラの羽根に引き寄せられ、長い間水底で眠っていた。サクラは彼と羽根の力に引き寄せられて”魂が眠った状態”になり、羽根のもとに向かうことになったらしい。
「だから、その後のことが起こるべくして起こったとしても、その場があの地下になったのは僕のせいです」
「……何がきっかけだとしても、無くなった水は戻りません。
あなたには何か考えがあるようですが」
「はい」
責任を追及し合うことは一刻を争う現状で最優先事項ではない。
無くなった水とファイの命を救う手立てが浮かんでいる昴流の言葉をこの場の全員が待っていた。
「お久しぶりです。侑子さん」
「そうね」
「お願いがあります」
初対面ではない――彼らが、異世界を旅する手立てを与えたのも、もしかしたら彼女なのかもしれなかった。
「水が欲しいんです。この地下の水槽を満たす程の」
「……対価がいるわ。
貴方達双児に次元を渡る術を与えた時と同じように」
「分かっています」
予想は当たっていたようだ。彼らは侑子のもとで願いを聞いてもらったことがある。次元を渡る術を持つ魔女が、水を与えられない訳がない。
しかし、彼女は昴流に対価を求めるよりも先に黒鋼の名を呼んだ。
「……黒鋼、あたしに地下水槽をいっぱいにする水を頼みなさい」
「……」
黒鋼が魔女のホログラムを見る目は、これまでの旅路でも見たことが無い程の怒気――殺気に近いものだった。
「そして、昴流の願いを貴方があたしに頼む代わりに、昴流に言いなさい。
昴流の血。吸血鬼の血を、ファイに与えろ、と」
やはり、神威の正体は人間ではなかったのだ。
「吸血鬼の治癒能力は人間を遥かに凌ぐ。特にその二人は原種よ。
その血を受ければファイは死なないわ」
「駄目だ。あの狩人みたいに俺達の邪魔をするようになったら……」
「神威、待って。ね」
ファイとの別れを覚悟していた。しかし、実際は私が魔力を注がなければ尽きる命を前に、躊躇う彼らの事情を熟慮する余裕がない。黒鋼も、乱暴に胸倉を掴んだくせに、ファイの身体を支える手にはその気配が一切無い。その仕草一つが、自分と同じようにファイを想う人がいると感じさせて、杖を握っていられた。
「ファイ、吸血鬼になっちゃうの?侑子が見せてくれた本みたいに、色んなひとの血を吸うようになっちゃうの?」
「ただ吸血鬼の血を受けるだけならね。
黒鋼。ファイを死なせたくないのは貴方の願い。ファイはそれを望んでない。なら、貴方も彼を生かした責を負わねばならない」
「何をすりゃあいい」
「貴方が”餌”になりなさい」
昴流の血と共に黒鋼の血を飲ませることで、ファイは黒鋼以外の血を受け付けられなくなると彼女は説明した。
「それって、もし黒鋼に何かあったら、ファイは……」
「死ぬわね」
戦いを望む黒鋼が、自分の死と共にファイの死が天秤にかけられる状況を飲み込むだろうと、初めの頃ならば想像もつかなかっただろう。
「……分かった。水の対価は俺が払う。だから血を寄越せ」
「……や、めろ」
「うるせえ!」
身体が震えるほどの声だった。掠れたファイの言葉を、黒鋼が斬り捨てた。
「そんなに死にたきゃ俺が殺してやる。
だからそれまで生きてろ」
今から生かそうとする相手にかける言葉ではないというのに、目を丸くしたファイが諦めたように苦笑して閉眼するのを見ると、黒鋼にしか救えないのだろうと分かった。
終わりある刹那の命を持つ黒鋼だからこそ、ファイはそれを飲み込むことができるのだ。私では、こうはならなかった。
「俺がやる」
「神威」
「もう誰にも昴流の血はやりたくない。
腕を出せ」
自らの手首を爪先で切りつけた神威が、黒鋼の手首にも同様の傷を作り、流れる血液が混じり合ってファイの口へと流れていく。
虚ろに開いたファイの蒼い瞳が濁っていく。握っていた手が強張り、振り払われそうになった指を絡めて握り直す。噛み締めても言葉にならない苦痛の声が漏れている。
「押さえろ。体のつくりが変わるんだ。痛むのは当たり前だ」
回復魔法を止めたのは経験則だった。吸血鬼と回復魔法は相性が悪い。万が一、この変化を食い止めてしまうようなことがあっては、ファイの命に関わる。
「少しの間、出ていてあげてもらえますか」
「出ましょう。このひと達は逃げたりしません」
「……何もできなくてごめんなさい」
昴流の言葉に牙暁が促して、後ろ髪引かれるように謝罪した颯姫が最後に出ていくと、室内に残ったのは一行と神威、昴流だけ。
「姫を抱えてろ」
「ああ」
体のつくりが変わる痛みを、私は知らない。吸血鬼の彼らは知っているからこそ、退室を促してくれたのかもしれない。
「ファイ……ファイ……」
「こいつの左目はどうなる」
「吸血鬼になる前の傷は治癒しない。抉られたままなら空ろなままだ」
「吸血鬼は不老不死ではないわ。それは伝説上だけの話よ。太陽も聖水も弱点ではない。ウィズの魔法も、これまでと変わらず効果がある」
本当に何でも知っているのだと思う以上に、安堵する。もしかしたら、もう無用になるのかもしれないが。原種の吸血鬼である二人と比べると、ファイは後天的な吸血鬼となるため、人より丈夫で老化スピードが遅くなるだけだと彼女は説明した。
「ファイは元来、強大な魔力の為に長命だから、それはあまり変わらない。
既に黒鋼、貴方の何倍も生きてるしね」
ピッフル国でファイが”長生きする”と笑っていたのは、本当に嘘ではなかったのだ。あんな言い方で、誰が信じるというのだろう。
「今までと違うのは、生きていく為に血を――餌の血を必要とするということ」
「そんなことも知らずに餌になることを承知したのか。魔女の取引がおまえに有利かもわからないのに」
「あと数瞬遅れて、こいつが死んでたら意味がねえ」
あの場で、誰よりも焦っていたのは黒鋼だったはずだ。私の魔法がいつまで続くかも、ファイの体力がどれほど残っているのかも、黒鋼には一切分からないのだから。
「それに、魔女が何を考えていようが。あれが信用してあの女に助けを求めたんだ。
俺はあれを信じる」
「……黒鋼」
黒鋼の目線の先に居るのはモコナである。ぽろぽろと泣いていたモコナは、ここでようやくふにゃりと目元を緩めた。その笑顔が、ファイによく似ていて、胸がずきりと痛む。
「もうひとつ。奪われた左目を取り戻せばファイの魔力も戻る。そうすれば吸血鬼の血も打ち消せる。
ファイの左目が戻れば貴方の餌としての役目も終わるわ」
「ファイ、目が戻ったら血はいらなくなるんだね!!」
「……俺を試したな」
涙を流しながら希望を声に滲ませるモコナに反して、黒鋼は再び険しい表情を彼女に向けている。
「ファイ」
体を襲っていた痛みの波が引いてきたのだろう。強く握られていた手の力が緩み、黒鋼の腕からも血の跡を辿らせながら指先が滑り落ちていく。そっと声を掛けると、ぴくりと指先が震えて、彼の耳に届いていることが分かる。
また、死なせてあげられなかった。私の胸中を占めるその後ろめたさが、それ以上、ファイにかける言葉を続けられない。つないだ指を絡めたまま、もう一方の手で彼の顎まで伝う汗を拭う。ファイの命は、黒鋼の、モコナの――そして、私のエゴで、苦痛を伴って繋ぎ止められた。
荒い呼吸が落ち着いて、金色の目に変わったファイが、黒鋼を見上げる。険しかった黒鋼の表情は”俺が殺してやる”と言って命を握った彼の想いが、ファイには分かるだろうか。
ふと、こちらに向いた金色の目がゆらりと揺れたのを見た。だらりと垂れた前髪に、音も無く口付けを落とす。
「……おやすみ、ファイ」
ふらりと倒れ込むファイを受け止める。気絶する形で眠りについたようだ。身体はほとんど無傷の状態で、先ほどまでかけ続けていた回復魔法では至らなかった状態まで、吸血鬼の身体能力によって回復しているらしい。
「ファイ……」
「もう大丈夫だよ。少し眠らせてあげようね」
不安げなモコナに、昴流が優しく語り掛けているのを聞きながら、ファイの乱れた髪を梳く。
モコナはファイに血を与えた神威に礼を言っている。彼は「別に」と答えるだけだが、急に飛びついたモコナを振り払うことはしなかった。
「ごめんね、ファイ。ファイ、優しいからきっとこれからもっと辛い。
でもね、やっぱり死んじゃったらやだよ」
ファイの空っぽな左目に黒鋼が巻いた黒い布は、小狼が巻いていた眼帯だった。彼にはもう、戻って来たから。
「けれど左目が戻らなくても、ファイには貴方の血を飲まないという選択だってできるのよ。どんな方法を使ってでもね。
これからも笑っているからといって、その子が納得したとは限らないわ」
「……分かってる」
私たちにはもう、ファイが本当に笑っているのか、本当は笑っていないのか分かる。だからこそ、生かすと決めた私たちは、ファイを本当の意味で繋ぎ止めなくてはならなかった。
「ファイを生かすと決めたのは私たちだから。やるべきことを、やろう」
そう言うと、ひたりと黒鋼と目が合う。侑子が言ったように”責を負う”ため、尽力する他ないのだ。それが、ファイの意に沿わなかったとしても。心を同じくしている様子で頷いた黒鋼が、ファイを抱いて立ち上がる。
「聞きたいことはまだあるが、まずは地下の水だな」
「モコナ、黒鋼と一緒に」
「うん」
「おまえも来い、姫もだ」
黒鋼に呼ばれた小狼もサクラを抱いて立ち上がる。昴流が神威に声を掛けて同行するべきだと言うが、躊躇う様子にモコナも「一緒に行こ」と声を掛けている。神威の目は立ち上がった私を見据えるので、用でもあるのだろうと立ち止まる。
「魔術師にお前の血を飲ませたのか?」
間違ってもそんなことは無い。神威の肩に乗るモコナがぎょっとして私を見るが、首を振って返す。痺れるような熱を感じたかと思うと、目前にいる神威の指先は血に濡れていた。それを舐めとる仕草に寒々しい気がしながら、頬にできた傷を撫でる。ファイが先ほど、黒鋼を見ていたときのような――”餌”を見るような視線を浴びて待つ。
「あいつが死んでも代わりが効くな」
「そんな言い方しないで」
「ファイは、私とは生きてくれないから。代わりにはなれません」
「ウィズ……」
どういう仕組みかは分からないが、たとえ私の血でファイを生かすことができるとしても、彼は私の血を望まないのだから、結局黒鋼が死ぬときに彼もまた死ぬことは変わらない。
「言わないでね、モコナ。特に黒鋼には」
「どうして?」
「その方が黒鋼が、怪我しないでくれるでしょ」
頬を撫でてくれていたモコナが、私の言葉を聞いて力が抜けたように微笑んだ。元気よく「そうだね!」と喜ぶ姿に、癒される。興味を失った様子の神威が黒鋼の後を追う中、昴流がまだ言いたげに立ち止まっているのを見て、目を向ける。
伸びて来た手が、もう滲むだけの頬の傷を指先で撫でていく。びりびりと痺れるような僅かな痛みを感じてから、その指先を舐める昴流の姿を眺めた。
「貴女の代わりもいませんよ」
ぎらりと光る吸血鬼の瞳が、柔和な眼差しをするのが不思議だった。ファイも、こういう目をするのだろうか。
「舐めて何か分かります?」
「気になる?」
「……いや、聞かないでおきます。私たちも行きましょう」
ファイに血を分けた神威ならば何か分かるかもしれないが、関与していない昴流が分かることには見当が付かなかった。意味深な微笑みを前に、聞かない方がいいこともあると思い直し、私は足早に神威の背中を追いかけた。
都庁の人々は振動を感じ取り、地下で何か異変があったことを知っているようだが”水は大丈夫だ”と言われたことを口々に伝えており、恐らくは草薙たちが混乱を招かないためについた嘘なのだろうと察しがつく。
「……こんな時に」
「タワーの奴らだ!」
地下に向かう神威が振り向いて間もなく、雨の中聞こえてくるエンジン音に霞月が声を上げた。また戦いが始まるのかと思い黒鋼の傍に寄って身を固めていると、タワーのリーダー・封真がカプセルに入ったサクラの羽根を抱えて見せながら現れた。
「何だか増えてるな、人数が」
確かに、封真が以前訪れたときはファイやサクラ、昴流は姿を見せていなかった。
「それサクラの羽根!!
でもでも!モコナめきょってならないよ!」
「感知されないようにしてあるからね」
「どういう事だ」
封真の言葉に小狼は警戒を強めている。羽根について調べてみたという封真は、これが側にある何かを守る性質があると説明し、酸性雨によってタワーと都庁が崩壊しなかった原因だと言った。
「でも、都庁の羽根は消えた」
「何故そう思う」
「都庁には夢で未来を予知する者がいるように、こっちには異変を察知する巫女がいる」
封真が後方に目をやったのを見て先を辿れば、嵐と思しき人影がある。モコナも彼女の姿を見とめて納得を示した。
「そうだとして、君がその羽根とやらを手にここに来た理由は何かな?」
遊人の問いに封真は歩み寄りながら、取引を申し出た。
「この羽根を都庁に渡します」
「代わりに?」
「タワーにいる人達をここへ移住させて下さい」
封真の提案は互いに断る理由のない公平な取引だった。
残り少ないタワーの水、都庁に”ある”水、羽根があるが居住空間の手狭なタワー、羽根はないが居住空間として十分な都庁。
「どうかな?神威」
「決めるのは俺じゃない。俺はもう行くから」
「……なるほど」
タワーのメンバーは神威がこの国を出ることも踏まえて提案を飲み込むことにしたようだが、私たち一行にとってはその交換条件は見過ごすことができない。羽根はサクラのものであり、私たちの旅はそれを集めるためにあるのだから。
「それサクラのなの!」
言い出すタイミングや空気の無い中、声を大にして主張してくれたのはモコナである。
「サクラのね、大事な大事なものなの!それを探してみんなで旅して来たの!
今、一人いないけど……」
いつもならば、モコナよりも先に”それはサクラのものだ”と主張していた小狼が、今はいない。上手く話を進めて交渉に参加してくれるファイも、ぐったりとしたまま。
彼らにとって生きるために必要なものを、どうやって”返してください”と言い出せるのだろう。
「だから!」
「……待って」
「サクラ!」
小狼に抱えられていたサクラがふらつきながらも歩み始めるのを、横で支える小狼がいる。それはいつもの姿にしか見えないのに。
「大丈夫です」
共に旅をしてきた小狼ではない。目が合った二人の、一瞬のぎこちない距離感が、沈んだ表情が、物語っていた。
サクラはモコナに再度羽根が感知できないことを確認している。
「羽根があればこの建物と中の人たちを守れるんですね」
「そうだね」
封真の軽快な肯定に眉をひそめて横目に見る。微笑を崩さない封真という男の機微は、あまりにも平坦過ぎる。その目がひたと合うと、胡散臭い微笑が深まる。私たちが交渉にせよ、武力にせよ、羽根を取り戻すことは不可能だ。
「その羽根は、このままこの国に」
「でも!羽根が戻らなかったら、サクラの記憶も戻らないんだよ!」
サクラ自身がよくわかっているはずだった。小狼がどれほど必死にサクラの記憶を集めてきたのかを。めまいがする心地に苛まれる。そう、あれほど必死に旅をしてきた小狼はもう私たちの傍には居ない。
「いいの……」
サクラは自らの意志で羽根をどうしても取り戻したいと主張したことはない。初めはぼんやりとしながら、次第に私たちが必死になる姿を見ていられずに、力になりたいと言って自分で掴み取ったことがあっても。
「いいの」
小狼が居たのなら、そうはしなかっただろう。今、ここにやってきた小狼は、彼女の横顔をはっとしたように見ていた。黒鋼を見上げると、言いたげな険しい顔をサクラに向けている。
一行の様子を悟らないわけでは無いだろうに、封真は変わらずにこやかに「そうと決まれば」と都庁のメンバーに連れられて屋内に踏み入った。
タワーのメンバーは地下に案内されると、できたばかりの瓦礫を前に不思議そうにしていた。彼らは直前にここで起きた悲劇を知らない。問われた遊人は「ちょっとあってね」とぼかすだけだった。敵対関係にあった彼らは、その垣根を失い既に穏やかなやり取りを交わしている。
「ここでいいのね」
「ああ」
「モコナ」
ホログラムの侑子に指示されたモコナは、バスケットボールよりも大きい、重たげな数多のガラス瓶を次々に吐き出す。中には水が入っているようで、一層それは重量感があった。
「なんで口からこんなにいっぱい出てくんの!?」
「瓶をあけて」
「なんやなんや!?」
「この瓶と水の量が合わないんだけど!?」
指示通り蓋を開けた彼らは、瓶から噴き出すように出てくる水の量に困惑している。
モコナに水槽が満ちた報告をすると、侑子は水について説明をした。
「この水はある意味綺麗じゃない、消毒されないままの自然の力がまだ残っている水よ。とても強いわ。
だからと言って、また汚染させてしませば同じ事だけれど。この世界が過去にやってしまったように」
この世界は、環境汚染によって崩壊しかけていたのだ。侑子が彼らに告げる言葉でそれを悟り、確かに一度目の人生でも問題視されていた事柄だったと懐かしい気持ちになる。
「この水がなくなる前に、この世界の仕組み自体を正さなければ。後は貴方達次第よ」
彼らが直接手を下して引き起こした状況ではないのだろう。しかし、生きていくためには彼らが変えていくしかない。与えられた水は無限に湧くものではない。きっと、この水が尽きる頃には、サクラの羽根を取り戻す機会があるかもしれない。それは仕組みを正すことができた世界かもしれないし、正すことができずに崩壊した世界かもしれない。どちらだったとしても。
話が一段落してタワーのメンバーだった空汰が瓶を抱えながら「しかし一体どんな構造になってんのや」と不思議そうにするのを、神威が「そっちこそ、羽根とやらが入ってる入れ物はどうなってるんだ?」と問い返す。
「この国に魔法や魔力はない。それを防ぐ機械なんて、作る必要もないし作れる筈もない」
「これはこの国のものじゃないよ。四年前、俺が他の次元から持ってきたものだから」
封真がにこやかに返した言葉に、私は嫌な予想が的中した結果に思わずため息を吐く。
「こんにちは侑子さん。そっちの時間は?」
「もうそろそろ夜よ」
「じゃあこんばんはかな。この世界に入ってから通信手段がなくてご無沙汰してしまいましたね」
「こいつも知り合いかよ」
黒鋼のぼやきに封真は自分が”新参者”だと謙遜する素振りを見せ、各世界の貴重なものを収集する”狩人(ハンター)”であると説明した。収集する物は依頼品から自分の欲しい物まで多岐に渡るそうだ。
「だから、同じ狩人でも探してるものは違う。兄さんとはね」
最後に付け加えられた一言で、頭を抱える。まさか、兄弟がいたのか。確かに顔がよく似ている。
「初めまして、貴方が昴流さんですね。兄がお世話になりました」
「おまえ、あの狩人の弟だったのか」
小狼の師・星史郎は封真の兄だったのだ。見た目の年齢が逆転しているのは、もしかすると星史郎もまた吸血鬼の血を受けたからだろうか。神威は先ほどファイに血を分ける前に、そう取れる話をしていた。
神威を逆なでするような物言いを敢えてしているのだろう。爪を鋭く伸ばした神威が襲い掛かるのを物ともしない様子で刃先のついた縄で神威の動きを静止させた封真が、その身体を抱き込む。昴流の焦った声色が神威を呼ぶ。
「兄さんの言ってた通りだな。やっぱり強いね、神威」
雁字搦めに拘束しておきながら耳元で囁かれる言葉は何たる皮肉だろう。やはり、にこやかなだけで碌な兄弟ではないらしい。
「でも怒らせると昴流さんも怖いって教えてくれたけど」
神威と同じように鋭く爪を伸ばした昴流が「神威を放してください」と睨むと、封真は「勿論」と言いあっさりと拘束を解いた。再び神威が昴流と離れずに並び立つのを、彼らの後方のホログラムの侑子が呆れたように「貴方達兄弟は昔から問題ばかり起こすわね」と評した。言わずもがな、封真と星史郎のことだろう。新参者と名乗ったわりに、そう短くない付き合いがあるらしい。
「それは兄さんでしょ」
「貴方もよ」
自覚が無い分より悪質だ。
「星史郎兄さんはまだこの世界には辿り着かない。だから先にこの”東京”での用を済ませよう」
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