東京
「さて、水の対価ね。黒鋼」
「おう」
「やって欲しいことがあるの」
黒鋼が一人で負う対価。彼はもう何も対価になるようなものを持っていない。やって欲しいことはきっと”東京”で果たすべきことなのだろう。過酷なことは目に見えて分かる。
「それはおれが……」
「わたしがやります」
「サクラ!!」
その申し出にはっとして振り向いたのは私だけではない。
「この国でわたしはずっと眠ったままで、何も出来ませんでした。だからわたしがやります。
教えて下さい。これまでに起こったことを」
たった一日しか経っていないのに。東京に来てまだ、二日目の夜なのだ。何もかもが変わってしまったような気すらしてしまう。それだけ、色んな事が起きていた。
酸性雨と突然変異による人々の暮らし、小狼とファイのことを改めて伝えると、サクラは借りた防雨服を身に纏い、封真からマシンの説明を聞いている。
「本当に一人で行くの?」
「ええ」
サクラはモコナが言いたいことを理解しているはずだった。理解しているのに、その一言しか返さない彼女の様子。
「侑子!この国の雨痛いの!大きな生き物もいるし、一人じゃすごく危ないよ!」
「……だからこそ、一人で教えた所にあるものを取ってくる。それが対価になる」
侑子とて、モコナの助けを切り捨ててまで、サクラを危険な目に遭わせたいと思っている訳ではないのだ。一瞬の沈黙がそれを物語っていて、私に縋るような目を向けてくる、サクラの肩に乗るモコナをそっと撫でる。
「サクラちゃんのこと、大好きだから心配になるんだよね。私も一緒だよ」
私の言葉に、ぽろりとモコナが涙を溢した。ピッフル国で、モコナが私に掛けてくれた言葉だった。こくりと頷く姿に、サクラは瞳を揺らす。それを振り切るように俯いた彼女は、再び顔を上げて小狼に歩み寄る。
「ごめんなさい」
「え?」
「わたしが”やめて”って言わなかったら、怪我してなかったでしょう。だから、休んでください。
モコちゃんも、休んでてね」
私たちが瓦礫で分断された後にあった事なのだろう。小狼がその謝罪を必要としていないのは目に見えて明らかだった。
「黒鋼さんも治療してください。……ファイさんをお願いします」
ファイにとって、黒鋼は生命線である。彼が目を覚ましたとき、サクラを一人で送り出したと知れたら。考えたくない。間違いなく、取り乱し、憤るだろう。それを止めるのが、黒鋼の役目かもしれなかった。
「……言い出したらやっぱり聞かねぇんだな」
険しい顔、呆れた色を含む声色。
「行って来い。俺達はここにいる。おまえが帰って来るまでな」
黒鋼はいつも、早く次の世界に行きたがっていた。
「……はい」
それをサクラも分かっている。黒鋼は、サクラが帰って来ると信じたのだ。
「サクラちゃん」
決意を固めた彼女の手を取り、左手で杖を出し、握る。
掛けた魔法は三つだ。防御力上昇、物理攻撃の一撃無効、持続回復魔法。他にもかけてあげたい魔法はいくらでもあったが、ファイの回復に浸かった魔力はすぐに底を尽きた。
「待ってるよ。いってらっしゃい」
「いってきます」
暫く外を眺めながら話し込んでいた封真と神威たちも屋内に戻った。
瓦礫にファイを横たわらせた黒鋼が、都庁のメンバーが持って来てくれた毛布をファイに掛けた。それきり壁に寄りかかって黒鋼は外を眺めている。モコナは小狼の肩に乗って、雨が当たるほど近くで外をじっと見ている。
昨夜にファイが、サクラが出来る限り眠っていてくれるといいと願った気持ちが、今は彼に向けてそう思わせる。
「サクラ、大丈夫かな。危ない目にあったりしてないかな」
モコナの呟きに、小狼は言葉を返さない。身動きもしない彼はやはり”小狼”とは違うと感じさせた。
「名前も同じ小狼なんだね」
「ああ」
「……ずっと一人で閉じ込められてて、寂しかったよね」
「いや。ずっと見ていたから。もう一人のおれを通して、みんなの旅を」
「だったら余計寂しいよ」
モコナの声は涙に濡れている。丸い頭をそっと撫でる手つきは、同じなのだと思った。
「楽しそうだったでしょ、モコナ達。苦しい事も辛い事もあったけど、でもすごく楽しそうだったでしょ?」
雨音は静かで荒んだ心を落ち着かせてくれるのに、この雨は大地や建物を腐敗させる。
「きっと一緒に旅したかったよね。サクラと、黒鋼とファイと、ウィズとモコナと、小狼と」
「……そうだな」
小狼が二人いたのなら、きっとどう呼ぶか困っただろうな。ファイは渾名を付けたかもしれないし、桜都国では犬が三人になったかもしれない。楽しかった思い出がじくじくと胸を痛める心地は、楽しかった分だけ痛くて、清らかな雨音が地面を腐らせるのと似ている。
頬を伝う滴を拭うと、もっと溢れてくる気がして、私は膝を抱えて外を眺め続けた。
ファイが目を開いた気配がして振り向く。ゆらりと起き上がった彼が、黒鋼を見上げた。
「……おはよう。”黒鋼”」
硬い声色だった。その横顔は笑みを湛えているだけで、感情が一切乗っていない。
瓦礫から足を下ろしたファイが座った姿勢になると黒鋼は暗い表情をすぐに消して「動くな」と言い付けた。
「逃げないよ」
ファイに掛けられていた毛布を手繰った手が、そのまま彼に被せるように投げつけた。
「まだ、動くな」
サクラの不在に気付かないでほしいのかもしれないし、ファイの体調を気遣っているのかもしれない。小狼のいる方へ歩いていくその手には毛布がもう一枚あって、身体が冷えないように声を掛けにいったのかもしれない。
でも、多分。黒鋼は、ファイが引いた一線を飲み込むのに、多分逃げたんだと思う。自分がファイを生かした代償だと分かっているから、いつもみたいに怒らないのだ。
「おはよ、ファイ」
「……おはよ」
「私のことは、なんて呼ぶ?」
「……それ、聞くんだー」
黒鋼が小狼のもとに行ってすぐに、モコナが走って来る。
「ウィズちゃん」
「うん」
「髪の毛、血だらけ」
服や肌についた血は拭えても、髪を汚す血液は落とすのが難しい。水でもなければ。そして、それはこの国の貴重な資源だった。
「怪我したんでしょ」
心配に染まる声に、笑ってしまった。
「ファイよりマシな怪我だったよ」
「……もー」
「ファイ、ウィズ」
手を伸ばして来るモコナは少しだけ不安げな顔をしているが、ファイは微笑みかけて抱き上げる。
「心配かけてごめんね――モコナ」
ファイの生を願ったのは私もモコナも、黒鋼だって同じだったのに。それでも、ファイが彼にだけ一線を引いたのは、本当に超えられてはいけないところへ、黒鋼ならば届いてしまうからなのかもしれない。
一握の寂しさを吞み込んで、モコナを膝の上に乗せたファイの腕にそっと身を寄せる。私たちならば大丈夫だろうというファイの油断が、彼をまた死の淵から引き戻すと悟られずに済むのならば、それすらも利用するつもりだから。じくじくと痛む胸で、腹の底でどろどろと沸く愛執に蓋をする。黒鋼という存在を得てファイが幸せになれるのならば、私は礎になる。
モコナが来て間もなく、額の石からホログラムがひとりでに投影され、侑子の姿が現れた。
「モコナ、通信はそのままで少し眠ってくれる?
ファイと二人で話がしたいの」
「うん……」
ちら、と侑子に向けられた目線を受けて、私は頷いてその場を離れる。きっと、私には知りえないファイの真実を彼女は知っていて、何らかの確認や忠告をするのだろう。
会話の聞こえない距離に行けば、自然と外にほど近い黒鋼や小狼の方に近付くことになる。二人の会話を聞くのも違う気がしたが、黒鋼に振り向かれると離れるのも妙で、その輪に加わった。
「姫が帰ってくるまでに決めなきゃな。これからどうするのか」
黒鋼の言葉を受けて、埋まっていると思っていた予定が、白紙に戻っていたことに気付く。羽根を探して旅をすると言っていた”小狼”はもうここには居ない。サクラはこの世界の羽根を置いて行くことにしたし、今日会った小狼の目的も分からない。
ファイの目的は別の世界に渡り続けること、黒鋼は元の世界に帰ること。私は、この旅が終わるのだとしたら、どこに行けばいいのだろう。
「貴方は決めたのか」
「ああ。変わらねぇ事と変わった事がある」
「何故、サクラちゃんだけで対価を取りに行かせたんだ」
言葉の続きを待つ暇もなく、後ろから掛かった声に私たちは振り向く。聞いたのだ、侑子から。サクラがいないと気付いて、行方を。
何故という言葉が理由を問いながら、既に非難の色を含んでいるのが分かる。
「姫がそう望んだからだ」
「そのまま止めもしなかったのか」
「ああ」
そうだ、確かに黒鋼は止めなかった。ただ、それはモコナがあれだけ説得にかかっていた後だったから。静かな、深い怒りを纏うファイがそれ以上の言葉を紡がずに外に飛び出そうとするのを、腕を掴んで引き留める。
「どうして止めるの?」
「……」
私だって彼女を追いたかったのだろうというファイの問いかけが透けて見える。その通りだった。
「姫の所へ行くつもりか」
「だとしたら?」
黒鋼って、こんなに話をしてくれるんだ。いや、元々、大事なことはよく話してくれていた。
「あの子が無傷で帰って来られないだろう事は分かっている筈だ。だから治療しないんだろう、その背中も。
この国に薬が少なくて、魔力も底を尽きそうだから。サクラちゃんが怪我をして帰った時、少しでも治療できるように」
きっと、ファイが起きていたら侑子と上手く交渉したり、サクラを説得したりして、彼女を一人では行かせなかったかもしれない。それは可能性の話で、今するべき議題ではない。
黒鋼を呼ぶモコナの声が沈黙の中で切なく響く。
「あの子が帰りたくても帰れなくなっていたら?
怪我ならまだいい。でも、もし命を落としたら。……もう帰れないんだ」
「それも覚悟の上だろう。あの姫は」
「……そこまで分かっていて、何故……」
ファイには難しいのだろう。
「だからこそ、待っている者の所へ帰って来ると約束した姫を信じて、俺は待つ。
待つことが、一緒に行くことよりも痛くてもな」
どこにも行かずに、ずっと一緒にいて。それが、何よりもファイの幸せなのだろう。ピッフル国で、彼の心を砕き”ずるい”と言わせた言葉だ。自分が守るから、ただ傍にいて欲しいと思っている。それを黙って受け入れる者が、この一行にどれほど居るだろう。
「……オレは待てない」
ファイだって分かっているのだ。分かっていても、受け入れられない。
「信じる事がそんなに恐いか」
ポツポツと降り始めた雨が私たちの身を焼く。
「雨だ!この雨すごく痛いのに!!サクラ……!!」
腕を振り払われる。
「もし」
沈黙を貫いていた小狼の声に、ファイの足が止まる。
「もし助けに行って貴方が傷付けば、さくら……いや、姫はもっと傷付く。
きっと、自分の身体が傷付く何倍も、心が傷付く。貴方が姫を傷付けたくないのと同じように」
焦燥に駆られていたファイの気配が緩む。
「……本当に同じなんだね。君達は」
ファイの身体の向こう、地平線に人影が見える。堪らず飛び出す。ふらふらと歩く姿が傾くのを抱きとめる。酸性雨に濡れきった身体を、自分の脱いだ上着で覆う。
「サクラ!!」
「サクラちゃん!」
「サクラちゃん、おかえり」
「ウィズさんっ……」
ぽろりと傷まみれの頬を流れる滴を拭い、全力で回復魔法を掛ける。もう出がけに掛けた魔法は全て切れている。元々そう長く効力を発揮する魔法ではないが、彼女の命を繋ぎ止めるのに、少しでも役立っただろうか。
冷えた身体を抱き絞めれば、彼女の防雨服にしみ込んだ酸性雨が私の肌を焼く。
「……ごめんな、さい」
もう活動できるような状態じゃなかった彼女が、跪くファイを見上げて呟いたのは謝罪だった。
「ファイさんが辛い時に……何も出来なくて……ごめんなさい。
今もきっと、わたしよりずっと……貴方が、辛い」
「……サクラちゃん」
サクラは対価を払うために、怪我を負って帰って来た。傷だらけの彼女が真っ先に伝えた言葉に、ファイは痛ましく顔を歪める。
「……それでも……生きていてくれて、よかった……ごめんなさい」
辛い思いをしてでも、生きていてくれてよかったと思う。その素直な気持ちが、ファイを苦しめると分かっている。一行の誰もが思っていて、伝えられない気持ちだった。
サクラの手を取り、祈るように額を寄せる背中が震えていた。
「中に入ろう」
「……そうだね」
私はサクラを雨から守るように抱いて室内へ足早に向かう。水気は雑に拭うことしかできないが、しないよりもマシだろう。先ほどまでファイが横たえられていた瓦礫の上にファイを座らせ、私はその横でサクラの身体を温めながら彼女の傷を確認する。
サクラに頼まれたモコナが侑子と通信を繋ぎ”水の対価”である掌大の大きな卵をモコナが吞み込んだ。
「水の対価、確かに受け取ったわ」
その言葉にほっとするのも束の間、この状況の説明を侑子が切り出した。
「玖楼国の遺跡で、サクラ姫。貴方の記憶を奪ったのは飛王・リードという男よ」
正確には、飛王の真の目的は記憶を”飛び散らせる”事だったという。飛王は自身の願いを叶えるために必要な”玖楼国の遺跡”と”サクラが記憶を探して世界を巡り、様々な次元を記憶する事”を狙っている。
モコナは旅の序盤は眠っていた時間が多かったことを指摘するが、侑子は首を振る。
「飛王が欲しかったのはサクラ姫の心の記憶ではないわ。躰という名の器の記憶。
各次元や世界を躰に記憶出来る。それがサクラ姫が持つ世界を変えうる力」
サクラの記憶を飛び散らせてそれぞれの次元に落とし、それを拾い集める旅をサクラにさせる。既に飛王の企みを知っていた今ここにいる小狼を攫い、何も知らないが羽根を集める事を何より優先する、今はいない小狼を創った。
「黒鋼の母上を殺め、国を滅ぼした」
「……何の関係がある」
「貴方が諏訪を出て日本国の忍になり、知世姫に仕え、いつか旅立つように。
日本国で人を異界へ送れるのは知世姫しかいないから」
黒鋼の表情は険しい。
「俺が知世に仕えてたのは自分の意志だ」
「ええ。知世姫もそう信じている。
だからこそ、飛王の思惑を知っていても貴方を送り出した」
飛王の企みに、どれほどの人々が翻弄されているのだろう。それほどの願いとは、何なのだろう。いや、考える必要などないのだろう。
「ファイ。……貴方も同じよ。仕組まれた事とそうでない事。貴方はもう分かっているでしょう」
俯くファイの手を、サクラが両手で握る。一方の手は私が温めていたままで、ファイの冷えた指先と、三人分の手が絡み合う。
「サクラ姫が様々な時空を越えて、より安全にそれを”記憶”できるように、もう一人の小狼、黒鋼、ファイ、貴方達が集められた。旅の同行者として」
呼ばれなかった名前に、視線が集まる。
「ウィズは?」
「あたしへの依頼で、この旅に同行することは決まっていた」
心当たりがない。敢えて話を中断させるのも違う気がして黙っていた。
「モコナは……?」
モコナは侑子ともう一人の魔術師であるクロウ・リードが、飛王の思惑を阻止することと”ふたつの未来”のために創ったものだという。彼女の背後には寝台に横たわる青年の姿が映し出される。小狼は彼と面識があるようで「大丈夫」と彼女に言われると、暗い表情のまま礼を言った。
「その遺跡とやらと姫の記憶で叶うそいつの願いは何なんだ」
「時空を超える力。時間と空間を操る力を手に入れる事」
「その力で何を……?」
「それを教えることは出来ないわ。けれど、飛王が叶えようとしている願いは、誰もが夢見る、でも誰も叶えられない夢よ」
飛王という人物を知っている訳ではないのに、その願いだけが分かるのはどうしてだろう。母を喪った春香が、阿修羅王の願いで崩れていく月の城が、脳裏をよぎるのだ。
「あたしが今教えられるのはここまでよ。これ以上は干渉値を越えるわ」
「なんだその干渉値ってのは」
「世界は一見無秩序のようで、揺れ幅を許しながら均衡を保つことで維持されている。
そして、均衡を保つ事で維持されているものは、その均衡を失えば壊れるのみ。飛王が貴方達に旅をさせる事で既に崩れ始めているものもあるの。ウィズの世界のようにね」
身体がびくりと震える。光を失い崩壊する世界、取り残された空間、永遠に続く時間。触れていた手を離そうとすると、しっかりと握られる。震えが彼女にも伝わるだろう。私のいた二度目の世界が崩壊したのは、均衡を失ったから。では、私をこの旅に同行させたのは誰なのだろう。
「崩れて生まれた新しいものにも、また意味がある。すべては必然だから」
必然という言葉が、渦巻く感情を吞み込まざるを得なくさせる。言われなくとも、呑み込むしかないことは分かっている。大体、今までだって抱えてきた荷物のはずだ。その全貌が分かったからといって、中身が変わるわけじゃない。
「貴方達が出逢って共に旅する事になったのは確かに仕組まれたからだけど、でもその後は貴方達自身の意志で選んできた事。進んでそうして来たもの、流されて来た者、どちらもそうあるように選んだ結果。
無くしたものも確かにあるけれど、生まれたものもまた多い。だから、これからの事も貴方達が選べばいいわ」
サクラを待っている間、モコナが小狼にかけていた言葉を思い出していた。旅は辛い事もあったが、それでも楽しく過ごした時間があった。たとえ今は手を取り合えていなくても、互いを想い合っていた時間は嘘ではないのだ。
「旅を、続けます。小狼君を、探すために」
起き上がったサクラが、誰よりも早く意志を伝えた。
「小狼を追いかけて旅を続ければ、飛王の思惑に添うことになるわ」
「……それでも、行きます。小狼君の心を取り戻す為に」
小狼はきっと、羽根を探して世界を巡っているはずだ。彼を追うということは、サクラの躰に記憶が刻まれていくことと同じ。それでも、彼女ならばそう決断すると分かっていた。
「オレ、一緒でもいいかなあ」
ファイは同じ魔力の源が引かれ合うことを説明し、小狼の所にある彼の左目が、小狼を探すことに役立つかもしれないと言った。
「……それはファイさんの本当の気持ち、ですか?
わたしが行くっていったから……本当にやりたい事、隠してませんか?」
「本当にしたい事だよ」
真っすぐなサクラの目に、ファイがその手を取って返す。
「オレは治癒系の魔法は使えない。君の怪我も治せない魔術師だけど、一緒にいさせてくれる?」
サクラはファイの選んだ言葉を痛まし気に聞いていた。
「魔法が使えても使えなくても……ファイさんはファイさんです」
近くにあった温度が、だんだんと冷えていくような感覚がある。言葉を尽くせば尽くすほど、どうして遠くなっていくのだろう。私たちは、どこで間違えてしまったのだろう。
「ヴィ・ラ・プリンシア」
サクラの血で汚れた指先に口付けを落としたファイを眺める。目に、焼き付けることが、正しいのだろうか。凍り付いていく。蓋をしよう。ただ、やるべきことを、やるのだ。小狼がそうしていたように。
「モコナも一緒に旅したい!黒鋼は?」
「日本国へは帰る。それは変わらねぇ。けれど、変わったものがある。
約束はひとつじゃなくてもいいだろ」
「……黒鋼さん」
「それに、探してた奴にも会えるしな」
黒鋼もきっと、サクラと同じように、小狼を探すつもりなのだろう。その先に、彼の仇がいる。ただ、仇よりも何よりも、黒鋼が小狼を案じていることなど、分かり切っている。
黒鋼の視線を受けて、私はサクラに微笑みかけた。
「及ばないことばかりだけど、少しでも力になりたいと思ってるよ」
懐かしいな、と思う。あのとき、空汰夫妻の下宿で、こうして小狼に声を掛けた記憶が蘇る。傷だらけのサクラの頬に手を添えて、杖も握らずにかける淡い回復魔法が、血に塗れて傷ついた彼女の目を治癒させた。あのときの小狼の頬には切り傷があった。
震える指先をすぐに離して、当時から一切伸びることも、短くなることもない横髪に表情を隠す。
「貴方は?小狼」
「取り戻したいものがある。もう戻らないかもしれない。
けれど……守れるなら、守りたい。一緒に行きたい」
彼が誰を見ているかなど、振り向かずとも分かる。
「分かったわ。では行きなさい。己の望みのままに」
通信が途絶える。
歩けると言うサクラを、ファイが手を貸して歩いていく。その背中から、私は目を逸らす。ぐっと肩を掴まれて、並び立った黒鋼を見上げる。彼は前を向いていた。
「……ありがと、黒みゅう」
「……チッ」
「小狼君、早く中に行こー」
慰めるなんて、慣れないことするんだから。後ろの方から距離を空けて歩く小狼に声を掛け、私たちは様子のおかしいサクラとファイからそう離れずに歩き出す。そう、旅は少しでも楽しい方がいい。たとえ、虚構だとしても。
元々使わせてもらっていた部屋に戻って、颯姫はサクラと黒鋼の治療をしながら、夜の東京でこれだけの怪我で済んだことは奇跡だと言った。私の回復魔法を受けたサクラの方が、黒鋼よりも怪我が浅いのは当然だった。
「魔法があっても、治せないのね」
ファイの右目を見て呟いた言葉が、胸を抉る。夜魔ノ国で、数多の欠損を、数多の死を見送った。魔法は、奇跡ではない。
「力不足で」
「……気持ちがよく分かるわ」
同情が欲しい訳じゃない。優しく言葉をかけてくれる彼女に返してあげたい気持ちはあるが、それ以上は余計なことしか紡げない気がして「そうだね」と模った言葉が、空虚に響いた。
窓にほど近い部屋の隅で膝を抱えて外を眺めていた。雨が僅かにガラスを溶かした痕の形や、数を。身体は疲れて睡眠を望んでいるようで、目を閉じると眠ってしまうと分かっていた。サクラが眠って、小狼も黒鋼も眠った。ただ、もう一つの気配は眠っていない。サクラが眠るベッドの横に座り込むファイは、目を閉じることもせずに起きている。
この距離に、温度に。堪えられなくて、目を閉じる。
失われた世界、取り残された私。誰一人傷付かずにいてほしい、失われずにいてほしいと願ったのは今回の旅が初めてではない。二度目の世界に、もし私が居なかったのなら、今も世界は無事でいたのではないか。自惚れならばいいのに、私だけが記憶を持って弾き出されたことが、何らかの因果を感じて、ぞっとする。私の同行を依頼したのは誰なのだろう。対価が杖ごときで済んだのは、その誰かが対価を払っていたからだ。飛王の企みに翻弄される彼らとは、同じようで同じではない。私の同行は飛王にとって想定外のはずだった。できることが、きっとあるのだ。
孤独と闇を恐れて得たものは喪失だ。恐れるものが全て避けられない事象だと呑み込んでいたはずなのに、実際にそれを垣間見ただけで、こんなに痛い。でも、そう。いっそ会わなければとは思えないのだから、私はこの痛みを受け入れるしかない。
この悪夢もいずれ現実になるのだろう。胸を貫く剣が呆気なく抜かれて、支えを失った身体が地面に崩れ落ちる。沈む意識が、私を闇に連れ帰る。音もなく、風も吹かず、寒さすらも感じないらしい。せめて、刻まれた痛みだけでも、連れて行けたならよかったのに。ああ、どこにも。どこにも行けないように、抱き絞めてくれた人は、誰だっただろう。
そんな人、いない。もう、求めない。幸せな夢だった。目が覚めれば、忘れてしまうような幻。
立ち上がって、引きずり込まれて、そんな感覚を行き来してから目を開ける。窓を打つ雨脚は弱まっていて、じき止むだろう。白む空を眺め、他の一行が目を覚ますまで、私は膝を抱えた姿勢からぴくりとも動かない作業に集中した。
東京は夜にかけて雨が降ることが多い。雲間から差し込む光が溶かされた大地を照らすと、まるで未来が希望に満ちているように感じられる。黒鋼が立ち上がったのを見て、私も身体を伸ばしてからそれに倣う。コンクリートに座りっぱなしだった身体はぽきぽきと音を立てる。肉体疲労は消えて軽やかだが、体の中が鉛のように重たいのは、気持ちが沈んでいるせいだろう。
次いで小狼とファイが起き出した。まだ眠っているサクラを起こさないように、各々が静かに身体を伸ばしている。一際大きい関節の音が黒鋼から聞こえてきて、全員がそちらを向く。
「おじさん」
「うるせぇ」
「ふふ」
黙っていられず呟いた私と、いつもより小さい黒鋼の悪態。困惑している様子の小狼と、小さなファイの笑い声。これも虚構なのだろうか。思考がぐちゃぐちゃになる。
ここに居られなくて、部屋を出た。
屋内では早朝から、タワーから都庁へと人が移る準備をしているメンバーがいたので手伝いを申し出ると、作業に集中できて気が紛れた。忙しくしている方がいいときもある。一段落すると、手伝ってくれた礼だと食事を渡されたので、また部屋に戻らざるを得なくなる。
「飯を食えば元気も出るさ」
「……ありがとう」
背中に掛けられた草薙の言葉に礼を言って別れる。愛想よく笑っていたつもりなのに。初対面の彼にも見抜かれるのだから、余程分かり易いのだろう。
一行は着替えを済ませていて、サクラも丁度起きたところらしい。私はもらってきた食事を見せ、置き場所が無いので床に置いた。焼いて塩をかけた謎の肉。
「どうぞー」
「ウィズは?」
「先にもらってきちゃった」
モコナの問いかけにしれっと嘘をつく。人数分、用意してくれた箸と一つだけもらったフォーク。箸は一膳だけ途中で置いて来た。
食事を摂らなくても問題ない身体だと分かったのは、この国に来てからだ。貴重な食料を消費するのが申し訳なくて、お腹が空いていないからと断っているうちに気が付いた。この身体にとって食事は娯楽のようなもので、食べておけば調子はいいが、食べなければ調子が悪いという程ではない。
黒鋼の視線が痛くて、痺れを切らして目線を返すと、嘘がバレているようで睨まれている。
「……いただきます」
「いただきます」
サクラに続いて食べ始める小狼とファイ。黒鋼も、彼らのように黙っていられないものだろうか。膝の上にころりと飛び乗ったモコナが撫でる私の掌に擦り寄る。
「モコナ、このお肉嫌い?」
「ううん」
「……そう」
私が食べないから、食べないのだろう。あんなに食い意地が張ってるのに。モコナ用の箸を手に取って、小さい口に運ぶ。そこまでして断ることはしないモコナに、一行の食べ進める速度を見ながら、食べさせる。皿が空になって、箸とフォークをまとめて立ち上がったのはファイである。小狼は自分が、と手を伸ばしていたが、微笑みで黙殺されていた。
膝の上で滞在してくれているモコナと手を繋ぎ合い癒されていると、黒鋼に目線で呼ばれたので、モコナをサクラに預けて再び部屋を出る。モコナ、気まずいだろうけど上手くやってくれ。
「隠す気がねぇなら全部話せ」
黒鋼が立ち止まったのは昨日、サクラを待っていた場所だった。瓦礫に座って水たまりを眺めながら、何処までを求められているのだろうとぼんやり考える。
「食事のこと?」
「全部」
難しい事を言う。
「睡眠はあると助かるけど毎日じゃなくていいし、食事は一切必要ない」
「食ってただろ、美味そうに」
「味は分かるから、食事は好きだよ。皆で食べると、幸せだなーって思うし」
お金が無かったレコルト国でも、資源が足りない東京でも食べたいと思う程ではない。食事を囲む時間が好きだから、レコルト国では摘まんだだけ。
「ちゃんと食え」
「痩せたり太ったりしないのに?」
「気にするヤツがいる」
いないよ、もう。
戦いに邪魔なものを排除された平たいだけの身体を撫でる人も、あれこれ考えながら作ったものを振る舞って感想を聞く人も。もう、終わった夢なのだ。
「黒鋼、もうその人は気にしないよ」
「そいつだけじゃねぇだろ」
「言えばいいのかな、人間じゃないから要らないって」
踵が浮く。胸倉を掴まれて、鼻先が向き合っている。赤い目が、まっすぐに睨みつけてくる。
「それは本心か?」
「……言うつもりないよ。ただ、黒鋼が頑固だから。
ここでは食べないけど、次からは程々に食べるよ。食事は貴重な資源でしょ」
手を離されて足が地面につき、襟元を直していると溜め息が頭に降って来る。
「ついでに言っておくけど。私の身体がバラバラになったら、心臓一つでもいいから回収してね」
怪訝に見下ろして来る黒鋼を見上げ、自嘲的に笑いながら続ける。
「一晩ほっとけば復活するから」
私を盾に使えばいい。それくらいしか、役立たないのだから。
戻る間もなく、サクラたちと合流したファイが呼びに来た。どうやら旅立ちの支度を始めるらしい。地下に集められると、都庁とタワーのメンバーも同席していた。
「ありがと、サクラ達の怪我治療してくれて」
「ここにある薬じゃ完全に治療できた訳じゃない。特にその足と、目……」
「いいえ、有り難うございます」
サクラの右脚は金属に貫かれた傷がある。魔法で完全に治癒させることもできない訳ではないが、彼女の将来を思えば自然な治癒力も活用するのが最善だった。ファイの目に関しては、別件だが。彼の命を救った神威と昴流にもモコナは礼を言って飛びついている。
サクラが対価を払うために特殊な羅針盤と乗り物を貸してくれた封真にも。それらは道中で破損してしまっている。誰かの依頼品であることは先に説明されていたが、依頼人が実は侑子だったことと破損を了承してくれたことも明らかになる。
「俺の次元を渡れる術を貰った対価は、こうやって行く先々で侑子さんに頼まれたものを届ける事だし。分割払いみたいなものかな。
まあ、もうひとつ約束してるんだけど」
封真とはまた会うことになるかもしれない。その可能性を思わせる口ぶりだった。
「それに、この羽根と同じものを兄さんが持ってるんだよね。そっちの方が大変そうだし。
気にしないで。ね」
「……有り難うございます」
封真の兄・星史郎とは桜都国で別れて以来再会を果たせていない。羽根もまだ、返してもらっていない。サクラは羽根を回収できていないことを気にしている様子が無い。それよりも、封真の優しさを身に余ると感じているように痛ましい顔をしていた。
「で、本当に良いのかな」
「……はい」
彼から受け取ったケースに入った羽根を、サクラは大切そうに抱え、昨夜満たした水槽に落としていく。パシャン、と飛沫を上げて沈んでいくのを見たサクラがモコナに目を向けると、モコナは神威のスカーフにしがみ付いていたところからふわりと浮上した。魔法陣が広がる。
「行っちゃうの!?せめて怪我もっと良くなるまで!」
霞月の言葉は、那吒が遮るように肩を押さえて止めた。
「返せるようにやってみるよ。君達が残していってくれたものを」
「お前達が次に来た時にはな」
遊人と草薙の言葉は、これからの復興に向けた希望を感じさせる。不安が無い訳ではない表情もメンバーには浮かんでいる。しかし、やるしかないのだ。彼らも、私たちも。
目が合った颯姫も暗い表情をしている。私は上手く、笑えただろうか。彼女の浮かべた、下手くそな苦笑いと似ていたかもしれない。やるべきことをやるしかない。立ち止まっている暇も、迷っている暇も、本当は無いのだ。
「……はい」
サクラが彼らに返事をする。硬い声が、彼女の取り戻した記憶が何だったのかと考えさせられる。レコルト国までの、ただ温かい声とは違う。別人になった訳ではない。彼女は何かを、思い出したのだ。
その背中を眺めていると、ふと手を取られる感覚に目を向ける。左目の黒い眼帯、金色の目。でも、見慣れた顔、見慣れてしまった寂しげなファイの表情だった。そう、離れて行かないように。一行をまとめてくれたのは、彼だったなと、あと何度思い出すのだろう。
ゆらりと、景色が揺らぐ。私たちはまた、世界を渡る。
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