セレス国
断崖絶壁の上は風が強く吹き荒び、降り積もった雪を舞い上げるようにして視界を白く染める。
「着いた?」
「ここが……セレス……」
確かに、セレスはジェイド国とは比にならないほど凍てついている。コートについていたフードも強風によって外れてしまう。この土地に慣れているファイが居なければ、サクラを探すのは容易ではないだろう。
目前に広がるのは数多の塔と階段、そしてその頂上に位置する城が目を惹く。
「あの城は……」
「オレがいたルヴァル城」
セレス国の実力ある魔術師であることは分かっていたが、まさか住所が城とは思わなかった。時間と体力さえあれば、話を深堀りしたいところだったのだが。
「駄目!サクラの体がどこにあるか分からない!」
「モコナが感知してたのは姫の羽根の記憶。羽根は姫の記憶、心だから。魂がない体は分からないんだろう」
小狼の説明に納得するのも束の間、ファイが城を指す。
「サクラちゃんはあそこにいる」
「何故分かる」
「魂と体が分かれてもサクラちゃんはまだ生きている。そして、生きているものの気配はあの城からしかない」
「この国の他の人達は?」
「……」
説明できない理由があるのだろう。ファイの袖を引いて「どうやって行けばいいの?」と問いかける。所々が宙に浮いている城は橋がかかっているがその端が見えないし、今私たちがいる崖からつながっているようには見えない。
「あの階段登るの?」
「あれは本当にあるわけじゃないんだ」
「幻か」
スペルを描こうとしたファイの手を止めたのは小狼である。きょとんとするファイに特に何か言うことはせず、彼はその指先に魔力を集める。
「風華招来」
風を用いた魔法のようだ。一行を囲うようにして風が吹き、足が浮いたかと思えばゆっくりと前方に進み始める。
「小狼、こんな魔法も使えるんだね」
ファイといい小狼といい、己の無力さを思い知らされる。有難く移動させてもらいながら、あっという間に頂上の城に一行は辿り着いた。
あちこちを眺めていれば、嫌でも目に入るのが無数の死体である。時間がそれほど経過していないのか、はたまた寒冷な気候のせいか、雪の積もった死体は腐敗が進んでいない。表情を険しくするのはファイ以外の一行だ。彼がセレスを経つ頃には既に、この惨状だったのだろう。
「ファイの着ている服と……似てる」
「この城の奴らか」
「……」
「そうだよ」
モコナの言葉に黒鋼が続けると、ファイはただ肯定した。この殺戮を起こしたのはファイではないようだ。その声色が物語っていた。
大きな正面の扉を押し開いたファイに続いて城内に入ると、後ろを歩いている小狼の足音が乱れる。
「どうした」
「頭痛いの?」
その額には汗が滲んでいて、頗る調子が悪そうだ。歩みを緩めて隣に並び手を取ってみれば、確かに毒を負ったような状態であることが分かる。小狼にはもう少し頑張ってもらうしかない。死に至らしめるようなものではないが、身体はさぞかししんどいだろう。階段は確かに長いが、小狼が息を切らす程ではない。
「城のどこに姫の体があるか分かってるのか」
「……ああ」
死体の数が多くなってきて、全ての階段を上り切った。踏み場もないほどの道をどうにか跨いで辿り着いた扉を、ファイは手を伸ばしてから少し躊躇う。
直後、扉はひとりでに開いた。室内は清浄な空気に満ちている。中に入って初めて、この世界で生者に出会ったことを悟る。外で見た死体たちとは異なるローブ、長い黒髪、優し気な顔つき。
「お帰り、ファイ」
その一言で、彼こそが、ファイが”水底で眠らせた相手”なのだと分かる。
「……出来れば帰らずにいられればと、思っていました。アシュラ王」
紗羅ノ国で、阿修羅像の話を聞いてファイが動揺した理由だ。
「約束したのに。わたしの願いを叶えてくれると。待っていたよ、君を。
この子も、待っていた」
極めて穏やかな優しい声色が、ひたひたと迫り来るような恐怖をも孕むのは何故だろう。
アシュラ王が身に纏うローブの裾をそっと広げた中には、どこか見覚えのある痩せぎすのぼろ布を着た子供がその瞳を絶望に染めて立っていた。はた、と目が合ったかと思うと視界が閉ざされる。アシュラ王から”何かを見せられる”と気付いてすぐ、景色は塔の中に代わる。
〇
ヴァレリア国には兄弟の王がいた。皆が心待ちにしていた弟王の皇子は、双子として出産したことで悲劇として語られる。ヴァレリアでは双子は凶兆であり、その後の弟王の病死、凶作、水質汚染、自責の念に駆られた弟王の妃の自死と続いた。
天井の見えない塔に閉じ込められている少年はまだ十歳にも満たないだろう。その蒼い目も、柔らかい髪も、優し気な顔つきも、ファイと同じ。傷だらけの指先を血に汚しながら、彼は壁をよじ登って、落ちる。塔の地面は砂になっていて、その身体を汚す。辺りは死体の腐臭が漂い、空気の巡りが悪い内部にはよく籠っている。嗚咽することもせず、彼は登っては落ちていく。
凶兆の双子は強大な魔力を有していた。産まれて間もない状態でも二人合わせて兄王に次ぐほどの魔力を。成長によってそれも凌ぐだろうと囁かれ、人々はそれを父母だけでなく国をも滅するのだと嘯いた。彼らに浮かんだ選択肢に”殺す”ことがあっさりと囁かれる。そして、それでは厄災が増すだろうと、誰が言ったのだろう。
「閉じ込める。すべての厄災を負わせ、その身に不幸を封じて」
兄王は続けた。双子である不幸、強大な魔力故に長命である不幸、産まれてきた不幸。双子が不幸であればあるだけ国は栄え、民は幸福となると。
「これは呪い」
そう、言霊という呪いだ。
「双子はそれぞれ別の場に。魔力が効かぬ谷へ。刻の流れが違う谷へ。その上と、下に」
双子が生きて不幸でいる事が皆の幸せ。
罪人を捨てる場となっている谷では死体が腐ることなく積み上げられていく。途方もなく高い天辺に、いつか届くのだろうか。
「この国で最も呪われた場。おまえ達双子もそこでただ”在り続ける”。
選べ。それを厭うならひとりに。どちらかを殺せ」
双子は互いの死を選ばなかった。唯一無二の手を取り合い、二人は別れた。
「では双子を谷へ。決してそこから出てはならぬ。世界が滅ぶまで」
誰一人として王の決定に反意を示さなかった。
閉じ込められた少年が膝を抱えてぽつりと呟く。
「生きているひとはここにはいない。生きてるのは……」
少年は死体を積み上げる。
「出るんだ、ここから。出れば魔力が使える。大きくなれば皇の魔力を越えるといっていた。
そしたら他の国へ、行くんだ、二人いっしょに。ファイ」
塔の天辺、鉄格子を掴むことができた――いや、違う。これは、もう一人だ。眼下に広がるのは先が見えないほど深い穴。塔の上と下、上にはファイが、下には――
「……ユゥイ……」
ユゥイが、いる。
塔に無数の死体が降って来る。下のユゥイの場所に。
「どうして……一度にこんなに……ヴァレリアに、何かあったのか」
装いの異なる死体だった。次々に降って来る死体を見て、罪人が着せられている服ではないとユゥイが呟く。老若男女を問わず捨てられる人々が、ヴァレリアに起きた異常事態を悟らせる。元から、異常だったと渦巻く言葉は音にならない。
「ファイはあの塔から出られない。でもここにいるなら、壁を伝って出られる。出られるんだ」
希望を捨てずに死体を積み上げるユゥイを見ていられないのに、目を逸らすことができない。強制されているからじゃない。彼が生きた証から、目を逸らしてはいけないからだ。
登って外に出たら、ファイと別の国へ行く。でもその前に、ヴァレリアで何が起きてるか確かめるんだ。
もし二人で、この国の人達に出来る事があるなら――
頭に響くユゥイの思いに、胸が引き裂かれるような心地がした。こんな思いをさせられたのに、彼は力を貸そうと思えるのか。
新たに落ちて来た死体が持っていた巻紙が手に当たり、ユゥイはそっと取り上げて開く。
ヴァレリアの皇、乱心遊ばし。罪も無き民人を殺め既に止める者もいない。どうか隣国から兵を。これも全て我が国に双子の皇子が産まれたためと。すべては不幸の双子の――
そこまで読み上げた彼が、巻物を放って再び塔を登る。何も言わずに。この国に出来ることがあるならと呟いていた彼の心を、どれほど踏み荒らすのだろう。
登って、落ちて、登って、落ちて。力尽きて、また、登って。
降って来る死体を積んで、新たに落ちた死体――いや、まだ、生きている。這い寄る姿に見覚えがある。傷だらけになった皇だった。
「!!」
「ユゥイ!!」
塔の上にいるファイの声が聞こえる。
「すべて、は。おまえ達双子が……招いた不幸。おまえ達が産まれたことが……不幸の始まり。
既に……この国に生存る者は私とおまえ達だけ……そして……これで……終わる」
ゆらりと立ち上がった皇の手には剣がある。小さな身体に大きな影を落とす。後退るユゥイ。その目の前で、皇は自らの首をその剣で貫いた。
「この国に……生きているのは……おまえ達だけ。不幸の双子……生き、その罪を贖え……」
悲痛なユゥイの叫びが谷に響く。
「ユゥイ!ユゥイ!ユゥイ――」
「産まれただけで罪なのか、双子として、ただ一緒に産まれただけなのに、ただ産まれただけなのに。
違う国に言っても同じ事が起こるのか。何の関わりもない人達が……死ぬのか」
「ユゥイ!」
「ただ双り一緒にいるだけで、生きているだけで!
またみんな、死ぬのか。ただ、生きているだけで」
そんな訳がないと思いながら、そう思わされる仕打ちを受けてきた。
塔の上から、雪の降り積もるユゥイの身体を眺めて泣き濡らすファイが謝罪を繰り返す。
「あの時死んでいればユゥイはこんな思いをせずにいられたのに、ごめんなさい、ごめんなさい。
もう死にたい。死ねばユゥイはここから出られる。双子でなければ生きていける。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい」
ずるりと鉄格子から手が離れ、項垂れたファイが呟く。
「でもその前に誰かに、誰かに、ユゥイだけは助けてって伝えなきゃ」
血に染まる手を眺めている。
「出たいのか」
「……また……夢?」
「夢ではない。これは現実だ」
空間に亀裂ができる。黒い装束、かつて小狼が身に纏っていた紋様が描かれている。高慢な笑み。飛王が、ファイの前に現れたのだ。いや、ファイとユゥイが入れ替わりながら飛王と会話をしている。二人はどちらも、彼に会っているのだ。
「そんなはず、ない。ここには誰も……来ない。死体以外」
「それはこの国での決め事」
「でも……隣国でも双子は……」
「それはこの世界での決め事。世界は他にもある」
甘言だ。何故、縋らずにいられるだろう。
「ここは魔法が効かぬ谷。しかし我が身は次元が異なる別の世界にある。だから影響を受ける事はない。出たいか、ここから」
「……出たい。世界が他にあるなら……出たい。そして誰かに……」
飛王は笑みを深める。
「その願いを叶えてやろう。けれど出られるのは一人だけだ。
選べ、おまえか、もうひとりか」
そう躊躇わずに、口を開くのは――
「ユゥイを出して」
ファイだ。もう一方の片割れを救い出して欲しいと。もう一人は、でも。
塔の上から落ちてくるファイを、下にいたユゥイの双眼が捉える。その、死の瞬間も。
「おまえが選んだ。おまえが選んで消した命。おまえはその責を負わなければならない。これは呪い」
「ファイ!!!」
絶望に染まるユゥイに、飛王は囁く。
「やり直したいか、選択を。戻したいか、時間を」
「そんな事、出来な……」
「出来るとしよう。どうする。死んだ者を生き返らせる術があるとしたら、どうする」
「ファイ……を……」
血だまりに沈むファイの身体を、絶望に染まるユゥイが眺めている。
「その前におまえにはやって貰わねばならん事がある」
「何……を……?」
ファイの命を奪ったのは飛王だ。だというのに、その責を、ユゥイが負うのか。
「もうすぐおまえを迎えに来るものが現れる。おまえはここから出られるだろう。
けれどいつか。おまえ達がずっとそれぞれの場所に留め置かれた理由。その強大な魔力を凌ぐ者が現れたら、おまえはその者を殺す。
そして、もうひとつの呪いは……」
飛王の姿はない。地鳴りに次いでファイがいた塔が崩れていく。世界が終わるのだと呟いたユゥイの前に、次元移動をして現れた人影には見覚えがあった。
アシュラ王だ。
「迎えに来た」
「……地獄(ゲヘナ)から……?」
「別の世界から。ここにいたいのかな」
ユゥイはファイを抱いている。
「やらなきゃ……ならないことがある……から」
「それならここにいてはいけないね。生きなければ」
どこか痛まし気にユゥイを見下ろすアシュラ王の姿に、今の彼には無い情を見る。
「不幸でいるために……?」
ユゥイとファイにとって、生きることは不幸の象徴のようだった。生きていることが罪で、生きていることで不幸にし、生きていることで不幸は起きた。
アシュラ王は首を振る。
「願いを叶えるために」
アシュラ王自身にも、願いがあるのだろう。
「行こう。世界はここだけじゃないから」
手を差し伸べるアシュラ王に、ユゥイの手が重なる。屈みこむアシュラ王が彼に微笑みかける。
「名前は?」
「……ファイ」
はっとする。景色はセレス国に戻っている。目の前でアシュラ王の手を取っているのは私たちの知る成人のファイ――ユゥイだ。彼はその腕に、もう一人の双子・少年のファイを抱いている。
「そう。その子の記憶を受け取った君なら知っている筈だ。
あの時この子は塔の中で同じ質問をされて君を選んだ。ファイ。いや、本当の名前はユゥイだったね」
見せられた過去のアシュラ王と、目の前にいる彼の姿は同じだ。老いることがないのに、その姿は――纏う気配が違う。その声色は同じ人物に違いないのに。
「君は死んだこの子のファイという名前を名乗り、自分のユゥイという名前はこの世から消した。
けれど、それでも君の罪は消えないよ」
残虐さに染まり、かつてユゥイを痛まし気に見た温もりが、無い。
「大丈夫。君と一緒に来た三人にも視てもらっているから。君の過去を」
振り向いた彼の絶望に染まる顔が、塔の中で怯えた目をした少年のユゥイと重なる。
「さあ、本当の君を視て貰おう。ファイ。
過去に君がした約束を。君が知っていた事を」
景色が再び変わる。塔の中だ。目の前で落下死したファイの身体がある。
「……それがもうひとつの呪い」
飛王の指先が向けられたユゥイは、伝えられた二つ目の呪いを覚えていないのだろう。きっと意図的に隠しているのだ。戸惑うユゥイに飛王は構わず話を続ける。
「そしておまえには旅に出てもらう。様々な世界を渡る旅に。
砂漠の姫とこちらが用意した写身と共に、我が一手として」
ユゥイにとって、知られたくなかったのだろう過去を暴くアシュラ王の意図は、何なのだろう。
「くろがね」
「分かってる」
そう、“ファイの過去は関係ない”。私たちは今の彼と向き合ってきたのだ。しかし、ユゥイの過去から透けて見える飛王の企みはこの旅において知っておくべきだった。東京で侑子がファイにした忠告が思い出される。仕組まれたことと、そうでないこと。この凄惨な過去を振り分けて、気持ちに区切りを付けるのは容易いことではない。
私たちに次々と記憶を広げて視せるアシュラ王を仰ぎ見る。その目は狂気を占めているのに、奥にゆらゆらと悲哀と温もりが垣間見える。彼はファイを、愛しているのだ。どうしてか、狂いながらも。
左手を握れば杖が現れる。まだ、使うには早い。そのときを待つべきだ。
また、記憶の空間に戻される。
「もう一人共に旅立たせようとした者がいたが、魔女に先んじられた」
「魔女……?」
「強力な魔力を持つ者。次元を自由に渡る魔女。
我が夢見の更に先を読み、あの子供をこの手が及ぶ前に日本国の夢見姫に預けた」
飛王は黒鋼の存在は自身とユゥイの願いの妨げになると続けた。
「旅を続ける妨げになるものはすべて排除しろ。もしも魔女の一手である日本国の若造が邪魔するようなら、それもだ」
「殺す……の?」
日王を見上げるユゥイは耳を疑うような表情で問う。ユゥイは命の重さを理解しているのだ。
「自分を選んで双子の片割れを殺したおまえが、他人を殺すのに何を躊躇する事がある」
ユゥイの脳裏には「ユゥイを出して」と言った記憶が過ぎる。違う、と思ったのは直感だった。しかし、飛王の言葉をユゥイは否定しなかった。
塔の下にいるユゥイは自分の手がどんなに傷だらけになっても、塔の上から出られないファイを助けに行くために登っては落ちることを繰り返していた。皇と一人きりで向き合ったときにも、数多の死体を迎える日々でも、たった一人の片割れであるファイへ恨み言を抱くことすらなかったのだ。
その記憶は、ユゥイの記憶ではない。視せられているからこそ分かることもある。ユゥイの脳裏に浮かべられている記憶は、塔の上で飛王と対峙していたファイの記憶だった。
「ファイと……一緒に行く……」
震える手でそっくりな死体を抱きしめるユゥイの姿が、痛ましい。在りもしない罪を、最愛の人に犯したと、思わされているのか。そんなことができるのなら、何が正しいと信じられるのだろう。
飛王は「魂のない躰は朽ちる」と言い、アシュラ王のいる国――セレスに落ちてくる羽根をファイの中に入れておけば朽ちることはないと説明した。飛王はセレスに落ちる羽根が複数あることを夢見で知っているらしい。飛王はそのうちのひとつを旅立つときに持参するように指示を出す。その羽根はインフィニティでファイが自白した通り、阪神共和国でサクラに返され、彼女の体を救った。
「すべてが夢見に現れる訳ではない。いや。クロウ・リードならばそれも可能だったかもしれんがな」
「……クロウ」
ユゥイは羽根がいくつ落ちてくるのかと問うた答えに、飛王は「そこまではまだ夢で視てはいない」と答え、そう続けた。飛王の口から紡がれた人物の名を繰り返したユゥイに、飛王は丁寧に説明を続けてくれるわけでは無い。
「忘れるな。おまえは我が一手だ。願いが叶うまで。そして、もうひとつの呪いが解けるまで」
もうひとつの呪い。私が一番気にかかっていることだ。二つの呪いのうち、ひとつは既に発動と解呪を終えているが、もうひとつの実体はまだ何も掴めていない。
景色はそこでセレスに戻る。真正面にいるアシュラ王は、もうひとつの呪いを知っているのではないか。私たちに彼の過去を視せることで、アシュラ王が得することは何もない。陰謀に呑まれ振り回されたファイの過去を哀れむことこそあれど、私たちがすることは変わらない。
「ファイ」
私が彼を呼ぶと共に、黒鋼の足元で小狼が倒れ込む。どこかモコナも不調の様子で、険しく顔を歪めていた。二人に触れてみれば、既に状態異常が上限値にまで達している。
黒鋼は二人に付き添う私をちらりと見てから、ファイとアシュラ王の方へ歩み寄っていく。
「他にして欲しいことはあるかな」
穏やかなアシュラ王の声、水底に眠るファイ。それを見下ろす小さなユゥイが「髪を切りたい」と言う。ああ、これはまた、記憶なのだ。
景色はセレスのルヴァル城内、まさに今私たちがいる場所と同じだ。見慣れた模様のセレスのコートに着せられたユゥイがアシュラ王と話をしている。
「髪だけでも、離れてても側にいられるように」
私には、お願いしてもくれなかったのに。
「ではその髪と一緒に、これを君の大事な子の側に置いてもいいかな」
「なに……?」
「フローライト。ここ、セレス国ではお守りになる石だ」
蛍石(フローライト)は小さなユゥイの頭くらいの大きさがある。
「君にもあげよう。石ではなく、名前を。
君は今日からセレス国のファイ・フローライトだ。その名が君を守ってくれる」
優しい名前だ。与えられた”ファイ・フローライト”もそう思ったのだろう。
「どうして……してくれるの……そんな事……」
「……君に、お願いしたい事があるんだ。まだ先の事だけれど。
さあ、髪を切ろう、ファイ。この石と共に、君の大切な人の側に。そして、新しい日々を始めよう」
膝をついたアシュラ王が彼を抱きしめる。ここに、二つの願いがある。
ユゥイの心の声が、頭に響く。
――どんなに辛くても、悲しくても、生きる。ファイを生き返らせるまでは、願いを叶えるまでは死ねない。この手で誰かの命を奪っても。
は、と息が漏れる。もう、記憶と今の境界は曖昧だった。
ファイの魔法によって左腕から蒼氷を呼び出した黒鋼が、その鞘をも魔法をもって取り払う。切っ先はファイの奥にいる――アシュラ王に向いていた。
「死ねない」
しかし、ファイは自分が切っ先を向けられているかのように立ち上がり警戒する姿勢を見せる。
「ファイ……?」
「ファイを生き返らせるまでは、この名を、命を、返すまでは」
「では、殺さなければならない、ね。彼を」
長い前髪の奥、アシュラ王の言葉を受けて拒絶に染まる目をしているのに、ゆっくりと上げた腕が酷く震えているのに、ファイは彼の言う通りスペルを刻もうとしている。
「そして、私の願いを叶えて貰わなければ」
地鳴りのような音を轟かせる雪山を前に、見覚えのある杖を構えたファイが一人で立っている。まだ姿は幼いが全体に柔らかい輪郭があり、地面を引き摺るほど長かった髪は、肩につかないくらいに整えられていた。
杖を中心に刻まれたスペルが雪崩を堰き止めて後方の街を守った。雪煙が晴れると現れた大きな氷塊の中に二枚の羽根が埋まっている。
「これが……記憶の……羽根……?言ってた通り……凄い力だ。
これをファイに……」
ファイは羽根を人の姿にして、自分がいなくても水底のファイの側にいてくれるようにと願った。もうひとつの羽根を旅に出るときにと思い出しながら、彼は――
「どんな人達なんだろう。……」
呟いてから、自分には関係ないと、言い聞かせるように心中で呟いた。一緒に旅をしたとしても、同じではないからと。
街の人々は雪崩の対応をしたことにいたく感謝し、笑顔でファイを囲った。
「有り難うございます魔術師(ウィザード)様!」
「さすが最高位の魔術師、Dの称号を持つ方だ」
「……いいえ。誰にも怪我がなくて良かったです」
ファイは表情に乏しいが、それは紛れもない本心だろう。彼は感謝を受け取ることに、まだ慣れていないのだ。憎まれる経験ばかりだったのだから。
そのまま離れようとする彼の裾を引き止めたのは、ファイよりも幼い少女である。
「ありがとぅー」
きょとん、とファイは少女を見下ろした。
「でも、笑ってくれたらもっとうれしー」
「この子ったら!申し訳ありません!」
「いえ」
少女の母親が慌てた様子で裾を掴む手を離し、頭を下げた。ファイは少女に向かって膝をつき、視線を合わせた。
「うまく笑えないんだ。慣れてなくて」
ずきり、と胸が痛む。
「練習すればいいよぅ。ほら、こんなかんじー」
少女は何のためらいもなく、笑顔の見本を見せた。目尻の垂れた柔らかい笑顔と、角のない語り口は――私が大好きな、ファイとよく似ていた。
ルヴァル城に戻ったファイは、やれ今日も寒いだとか話している門番のやり取りを眺めて、くす、と小さく笑った。
「今、笑ったんだよな!!」
「変でしたか」
「いや!いいよ!」
「もっと笑えばいい!アシュラ王もお喜びになる!」
その言葉に心底驚いたように目を丸くしたファイが「……王も」と小さく呟いた。
雪崩を治めた報告に赴いたファイに、アシュラ王は「お帰り」と言ってから、既に知っているように先んじて語った。
「どうして分かるんですか」
「分かるよ。それがたとえ遠くでも、他の世界でも分かるよ。君の魔法は」
「本当だよ、ファイ。もし君がどこの世界で迷子になっても、迎えに行ける」
ファイは、そのアシュラ王から、逃げて来たのだ。絶対に帰りたくはないと、眠りにつかせて。こんなにも彼を愛しているアシュラ王からも、セレスからも。
「……何をすればいいんですか。オレに頼みたい事ってなんですか」
ファイの言葉を受けて、アシュラ王の表情が陰る。
「……君は、セレスが好きかな」
「……アシュラ王?」
「この国が好きかな」
「はい。みんな優しい。それに……ここに居る事を許してくれてる」
ファイとユゥイに与えられなかった。ありふれたものは、彼らには幻みたいなものだった。それが、セレスにはあって、アシュラ王は与えてくれた人だった。
「では。もし何かあったらこの国の為に、君のその力を使ってくれるかな」
「……でも、もしこの国にオレより魔力の強い人が現れたら……」
「その者を殺す呪詛が掛かっているね」
躊躇いなく見抜いたアシュラ王の言葉に、びくりとファイの身体が揺れた。
「それを解く事は出来ないが、抑える事は出来る。君の魔力は使えば使う程強くなるものだが、これを身に写せば文様が消えるまで君の力がこれ以上強くなる事を抑えてくれる。
私が死ねば、効力は消えるが」
「死ぬなんて……!」
「人は死ぬよ、いつかは」
アシュラ王が見せた文様は、ファイが侑子の店で対価として差し出したイレズミだった。ファイの魔力はアシュラ王と出会った時点で、既に彼を上回っていたのだろう。だからこそ、彼を殺さずに済んだが、ファイは一層その呪いを恐れるようにもなった。
それなのに、何故敢えて”ファイの魔力の成長を抑える文様”を与えたのだろう。
「この国の人々に害をもたらす者を滅してほしい。
たとえそれが何者であっても」
「……王?」
柔和な微笑みを一切消したアシュラ王を、緊張した面持ちのファイが見上げている。彼はそれを見てか、表情を戻す。
「それが私の願いだ」
「……オレが、この世界にいる間でいいなら」
「ありがとう、ファイ」
アシュラ王の願いが分かった。そして、二人の顛末も。
成長したファイの姿。ああ、今に、戻って来たのか。
「君は約束してくれたんだ。この国に、人々に害をもたらす者は……」
「殺す」
ファイは躊躇いを忘れたように――いや、かつての約束を思い出したかのように、黒鋼に向けて魔法を放つ。よりも、速く。刻まれていくスペルを刀身で打ち砕いた。
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