玖楼国


 踝が浸かる程度の水面へ小狼が足を踏み入れる。

「遺跡の中の時間はずっと止まっている。おれが“もういちど”と願った、あの時のまま」

 初めてサクラと過ごした七日間の最後。潔斎を終えていない彼女の手を取れなかったあの瞬間のことだ。
 噴き上がる水が渦のように巻くその内側で、今にも小さな少女を取り込まんと蟠る黒い影。その影が紛れもなくかつてのサクラに迫る飛王の魔の手だと肌で分かる。

「サクラ!!」

 モコナの涙声が彼女の名を呼ぶ。人形のように虚ろな表情をした彼女はその髪の一本さえ動くことがない。

「もう少しでおれが時間を巻き戻す事を決めたのと同じ時間になる。
 あの日はおれの誕生日でもあったから」
「サクラと小狼、同じ誕生日だったんだ」

「……ああ」

 四月一日。きっと、サクラと何度も祝ったのだろう。もし私が彼の立場ならば、その目出度い日を祝いながら、その時の流れを呪ったはずだ。サクラに刻まれた死の刻印を見せられながら、幸せそうに笑う彼女を救う手立てを探した日々。時間を巻き戻した後も尚、飛王に囚われ手出しも叶わず眺めることしかできない日々。
 独りで、過ごしてきたのだ。

 私たちが彼へ声を掛けるより早く、硬質な物が床に触れたような、小さな物音が広間に響き渡る。全員がそちらに目を向けた。長い階段の上、黒い装束に身を纏う“小狼”がこちらを見下ろしている。左手には緋炎を提げ、まだ新しい返り血が彼の腕と頬に残っている。ここへ来る直前まで、羽根を集めていたのだろう。これまでの世界で見た軌跡のように、略奪と殺戮を経て。
 冷え切った表情のまま何も言葉を発しない小狼へ、杖を握り絞め向き合う。

「ウィズちゃん、モコナをお願い」

 ファイの肩に居たモコナが飛び込んでくるのを受け止め、安心させるように撫でる。魔力を失っている現状、後方支援の私に下がるのが安全だろう。

「何かあったらウィズちゃんと一緒に小狼君とお願い、ね」
「二人も無茶しないでね、ね!」
「おまえもな」

 たまらず、といった様子で二人に声を掛けるモコナも、黒鋼の言葉に勇気が湧いてきたようだ。黒鋼の視線は次いで後方の小狼に向いた。彼もまた、こくりと頷いた。

「私たちは、私たちにできることをしよう」

 見上げた先の小狼がかつてその振る舞いで、私に教えてくれたように。

「絶対絶対、みんな一緒に帰ろうね!!」

 階段の上、小狼のさらに背後の空間に亀裂が生まれる。その中に姿を見せたのは見覚えのある紋章が描かれた壮年の大男である。片目に掛かるモノクル越しにこちらを見下ろし薄ら笑う表情に背筋が冷える。

「飛王・リード」

押し殺し切れず怒気を孕む小狼がその名を噛み締めるようになぞる。

「……あいつか」

 その命を終わらせることでしか、この地獄は終わらない。鯉口を切る音が響いても、飛王はその表情を崩すことなく語り始めた。

「これはおまえが戻りたいと願った一瞬、おまえが切り取った刻。おまえの悔恨が焼き付いた刹那。
 おまえが刻を巻き戻した為に時空は崩れ、既に時間も空間もその摂理を失いつつある。未来だけではない、過去さえも」

 飛王は言葉巧みだ。小狼の責任感の強さは生来のものかもしれないが、この男がひたすらに、あらゆる責任を彼に結び付けたことが無関係とは思えないほど。
 ファイと黒鋼の纏う気配が一層熱量を増したことを肌で感じながら、私は冷静に努めて奴の詭弁を耳に入れる。

「おまえの願いはこの一瞬をもう一度やり直す事。歪みの為にこの瞬間が変わっては意味がない。
 だから魔女は巻き戻すと同時に流れる時空から切り取って、刹那をここに留めた。そして、切り取った為に更に摂理は壊れた。
 おまえはそれも知った筈だ。囚われていた長い時間、写身の右目を通じて。けれど、おまえはやめなかった」

 泥のように溶けていく町の人々を置いて来た。それは私たちの判断だ。
 しかし、そうさせたのも、何の罪もないサクラを手にかけたのも、この男だ。

「願う事を。おまえも同じ……」

 抜刀と共に放たれた剣戟が飛王の言葉を遮り、庇うように出されていた掌から血を滲ませた。どうやら亀裂の中にも攻撃は入るらしい。刀を薙いだ黒鋼が「うるせえ」と低く吐き捨てる。小狼は呆気に取られて黒鋼の背中を見上げている。

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。能書きはいいから出てこい」

 刀の峰を肩に担ぎ、もう一方の手で挑発的に指を招いた黒鋼に、ファイが「無理だよ」と凪いだ声色で口添えする。

「オレとの時もああやって、裂け目の中からだけだった」
「なるほど、臆病者ってことか」

「まあ、否定するのは難しいねぇ」

 随分生易しい反撃だが、彼らの性根を考えれば、飛王よりも精神攻撃の口車に富むはずもない。

「小狼君。前に、もうひとりの小狼君を通じて行ったこと、覚えてるかな。
“そこにあった未来を変える事が許されるのか”」

 ピッフル国での二人のやり取りだろう。紗羅ノ国の“今”を変えてしまった事を飲み込めずにいた小狼にファイがかけた言葉。

「結果がどうなるか今は分からない。だったら今は考えないで、君が出来る事、やりたい事を考えればいい。それは“逃げる”事とは違うから」

 責任感の強い小狼が飛王の言葉に揺らぐ理由。サクラに起きる悲劇を食い止められなかった後悔を、巻き戻して晴らそうとする行為への躊躇。それをファイは明確に否定した。

「君がやりたい事は?」

「さくらは、死なせない」

 サクラの名前に反応を示したのだろう。もう一人の小狼が僅かに目を細めた。その小狼が踵を返した姿に、黒鋼が「おまえは自分とけりをつけろ」と指示を出す。

「モコナ、小狼くんのこと見ていてね」
「うん!」

 二人の戦いに横槍を入れることは簡単だが、そうすべきではないと理解している。黒鋼とファイと共にその場に残り、立ち去った小狼を追う彼を見送った。共に居てくれているモコナにはその姿を見守っていてもらうことにした。

「さて、お出まし願おうか。弱虫さんに」
「分かってんだろうな。あいつは俺の獲物だ」
「え――どうしようかな――」

 戦いに於いて黒鋼相手に退く気のないファイというのも、新鮮なものだ。杖を握り締め、周囲に発生した無数の亀裂に身構える。
 頭の天辺から爪先まで真っ黒な装束に身を包み、目元にはゴーグルを宛がった一切の表情が見えない人型。節の多い剣を構える姿は個を見分けることができず、同じ姿をしているように見えた。

「あ――やっぱりこういう展開?」

 飛王に辿り着くためにはこの人型たちを蹴散らさなければならない。どれほどの戦闘力かは分からないが、黒鋼の満足する力量ではないだろうとはわかる。ファイも落胆した声色だが、黒鋼も同様に相手取る気が湧かない態度である。

「おまえらでやれ」
「えっ」

「いえいえ。こういうその他大勢こそお父さん大活躍、って感じで」

 動揺する私に反してファイはへらりと笑った。
 一薙ぎの剣戟で敵は打ち上がり弾き飛んで行く。やはり、ここに余程の実力がある訳では無さそうだ。

「技名くらい言いなよ黒様」
「面倒くせぇ」
「新技は紹介よろしく」

 実際、黒鋼の剣技は真似できるものでもないし、彼に敵う相手もそう居ないのでお目に掛かれるのは貴重だ。心躍るままファイの言葉に便乗すると、黒鋼は面倒そうに舌打ちしたつもりだろうが、意外と満更でもなさそうな表情である。

 じゃれ合っている暇も飛王の元へ進む暇もなく再び亀裂が生まれ、人型たちがファイと私を取り囲む。黒鋼に歯が立たないならこちらから落とそうというつもりだろうか。
ファイは飛び掛かって来た敵の頭を支点に飛びあがり、反対側の敵の鳩尾を蹴り飛ばす。伸縮した相手の剣先がその身体を貫こうと全方位から集中すると、長く伸ばした爪の一振りでその繋ぎ目を断ち切る。剛と柔を兼ね備えた隙の無い体術で、傍にいた私が手を出すまでも無かった。

「ひゅー、ファイやるぅー」
「あはは、気抜けるなぁ」
「おめぇが言うかよ」

 次々に現れる人型を薙ぎ払う二人を見守るが斬っては湧く敵の数にキリがない。私も加勢すべく飛王に続く道を塞ぐ敵を蹴り飛ばし、追撃で光の矢を放つ。人間でもなければ魔物でもない、不思議な手応えだ。

「……気付いた?今倒したの」
「少なくとも、幻の類じゃねぇな」

 私たちを取り囲む人型を前に、胸糞悪い予想が一致している気がする。無尽蔵にも感じられる人型の正体は。

「集めた魂で作った只の出来損ないだ。好きなだけ遊べ」

 どこまでも、自分の野望を叶えるためならば命と思わないらしい。そうして、この人型たちの魂も踏み躙って来たのだろう。踏み躙られて来たのだ。私たちも。

「……てめぇ、もうしゃべるな。
 その口ごと切り刻んでやる」
「……だね」

 確かに、飛王は碌なことを喋らない。先ほど小狼を責め立てた言葉も、かつてファイを追い詰めた言葉も、私たちを呪うだけだ。
 憎しみに支配されて矛先を誤ってはならない。湧き上がる感情に、一瞬の瞬きで蓋をする。

 魔法が発動する気配に次いで、後方で爆発音が響く。

「小狼君!」

 ファイの焦った声。小狼が持つ右目の魔力だ。描かれているスペルは見覚えがある。この場を離脱し、小狼に加勢して魔力を先に取り戻すべきか。しかし、蟻のように湧く人型が離れることを許さない。
 小狼自身が持ちうる魔力で対抗している様子はあるが、圧倒的な魔力の差で打ち消されている。

「……強くなってる」
「確かに、写身である小狼の右目の魔力は使えば使う程強くなっているな」

 ファイの呟きに対し、飛王は小狼がファイ自身の持っていた魔力を既に凌ぐだろうと分析を述べる。煩わしい雑音だ。それでも、あの魔力が戻ればファイは人間に戻れる。場違いにも、安堵した自分がいる。
 ギィン、と一段と強い鍔迫り合いの音に小狼を呼ぶファイの焦った声が飛ぶ。
 駄目だ。これ以上、ファイの魔力で誰も傷つけられない。

 追撃を身体に掠めながら、小狼たちの方へと飛躍する。装束を着た小狼が一瞬こちらを見た直後、踏みつけたもう一人の小狼の胸元へと切っ先を定める。

「小狼くん!!」

 どちらを呼んだのだろう。多分、二人ともだ。

「……おれは。おれがすべき事を、する」

 その言葉が、その声が、私の伸ばした手から力を奪う。目の前で飛散する血液は自分のものではない。踏みつけられた小狼の胸を、踏みつけている小狼の足を濡らす。

「しゃ、……」

 沈黙の魔法だ。彼の名を呼ぼうとした私の声は音にならない。そんなものまで、使えるようになったんだ。
 床に倒れ込んだままの小狼と目が合う。丸く見開かれ、瞬きを忘れたようなその表情――多分、私も同じような顔をしていただろう。

「どけぇ!!」

 黒鋼の声が遠い。それでも、その声を聞いて、動かなければと気付く。震える足で小狼のもとへ近寄ろうとした。
 目の前に翳された掌は、血で汚れていた。装束の小狼の蒼い目が、琥珀色の目が、私を映している。彼の名を呼びたいのに、魔法はまだ消えない。だから、その掌へと触れようとした。

 直後、視界が明滅した。

「―――出来損ない達も吹き飛ばしてしまったか」

 小狼に、ファイの魔法で吹き飛ばされたようだ。受け止めてくれたらしいファイも、向かってきていたはずの黒鋼も瓦礫に沈んでいる。

「しかし、あの魔術師の目は思いの外役に立ったな。
 いや、もう魔術師ではないか」

 装束の小狼が、もう一人の小狼の外套を掴んで階段を上っていく。その先には飛王が満足気に待ち構えている。ぼたぼたと落ちる血液を、引き摺られていく小狼の身体が不鮮明に汚していく。
 こんな状況でも手放さなかったようだ。掌中の杖をしっかりと握り直す。

「は、あ」

 声が出る。沈黙の魔法が切れたのだ。
 横たわったまま、ファイと黒鋼に魔法を掛けておく。時間はかかるが、詠唱が終わった後も暫くの間は傷が癒えていくものだ。

「クロウ・リードの血を引く者。死してもその躯のみでも利用価値はある」

 二人が起き上がる。まだとても駈け出せるほどでは無いだろう。私も上体を起こし、飛王と向き合う二人を見上げる。

「写身の躯が滅したら、今度はその魂を本体の躯に写すとしよう」

 飛王にとって全ては道具でしかない。

「存在(あ)る限り、我が願いの為に。虚無(む)となるまでな」

 亀裂の中から繭を裂くようにして姿を現した飛王が手を差し出す。それを受け渡すようにして装束の小狼が、項垂れるもう一人の小狼を持ち上げる。

「!!」

 その手に渡る寸前に、飛王の胸を貫く。装束の小狼が持っていたはずの、もう一人の小狼が握っている緋炎の切っ先だった。
 すぐさま抜かれた胸から血が流れていく。

「謀った、か」

 あのとき、装束の小狼は、もう一人の小狼を踏みつけた自分の足を突き刺していた。始末したように見せて、この機を狙っていたのだろう。

「傀儡の分際で!!」

 激昂する飛王は貫かれた胸をそのままに、掌中に出現させた剣を振りかぶる。妨害するために放った光の矢を弾き返される。間に合わない、もう一撃が。

 もう一人の小狼を狙った一撃が、身を翻した装束の小狼の胸を貫く。何も、聞こえなくなる。

「何故、おれを……」

 ぐっと腕を引かれてもつれるように走る。

「……続きが、知りたかったからだ」

 腕を引いてくれているのは黒鋼だった。

「あの時」

 気を強くもたなければ。

「聞けなかった、言葉の」

 砕け散る、小狼の躯に。

「続きを……」

 蘇生の魔法を。

 虚ろな小狼の瞳から蒼い結晶が浮かび上がる。今じゃない、今は駄目だ。その魔力が小狼を生かすかもしれないのに。押し戻そうとする手を制したのは、小狼自身だった。

「羽根を……さくら、に……」

 写身として囚われた使命と、“小狼”自身の意志が混在しているのだ。

「ウィズさん……」

 魔力を注ぐ。割れていく躯が、修復するよりも速い。

「黒鋼さん……ファイさん……
 モコナ……」

 小狼の身体には魔法が掛かっている。これが飛王によって創られた写身としての肉体故だとしても、その手によって傷つけられたことが蘇生を妨げるとしても。

「さくら……小狼……
 ごめんな、さい」

 触れた躯が、存在が、揺らぐ。

「しゃお、らん」
「……ありがと……」

 砕け、散る。

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