高麗国
どくどくと心臓が早鐘を打つ。彼女のもとへ飛び込むため、地面を蹴ると同時に魔法の詠唱を始めた。木端は持っていない。
「死に急ぐ気か。童よ」
口を大きく開き、溜め込んでいた魔力を音として放つ。耳鳴りのような音が彼女に放たれ、手がこちらに向けられているのに、球体や波の動きはぴたりと止まっている。
「なに……?」
困惑する彼女に向かっていた身体を捻り、後方に居たファイに場所を譲る。彼女は秘術による攻撃ができないとみて、その爪を彼に向けて構える。切り裂くように振られた爪は当たらない。何せ、ファイはさらに横へ避けたためである。
私たちの本命、黒鋼が嬉々として棒を振り上げた。
「俺ぁ雨が嫌ぇなんだよ。だから、さっさととめろ」
額飾りの宝石は呆気なく割れる。東屋の近くに着地したと思っていた私たちの景色が切り替わり、長い天蓋のある部屋に戻ってきていた。念のため警戒の姿勢を取ったまま、黒鋼と彼女を注視する。そのまま、座り込んだ彼女がゆっくりと動き出し、立ち上がりざま黒鋼の頬に口付けるのを見て呆然としてしまう。
どういう状況か分からず反対側に立っているファイに目を向けると、彼は一件落着とでも言いたげにいつもの笑顔でゆったりと立っていた。
「てめっ!次は何の術かけやがった!」
「今のは礼だ」
成程ですね。
彼女は見込み通り、額の宝石に込められた秘術によって領主に囚われていたと話した。そして目を私に向け、うっとりするような笑みを向けた。人ならざる存在と分かっても、頬が熱くなるような美女の微笑みである。
「これで私は自由だ。あの馬鹿な領主親子より余程気骨がある童達の行く道を塞ぐ気もない」
彼女は最上階に領主が居ることを説明し、小狼が既に辿り着いていることも教えてくれる。全て視えているらしい。領主が蓮姫を監視している力と似たようなもの――恐らくは羽根の力によって可能となっているものを、彼女は地の力で可能にしているのだろう。それだけの実力者を服従させ得る力。やはり、サクラの羽根がここにあると考えていいだろう。
「また卑怯な手を使おうとしているな、あのゲスは」
領主のことを言っているのだろう。小狼のことが心配だ。ただ上に行くだけでいいのだろうか。上に行く道はどこにあるのか。先を急ぎたい気持ちで色々と聞きたいことはあったが、彼女はすぐにどこかへ姿を消し、私たちは部屋に残された。
上に続く階段を探し出し、走りながらもファイが黒鋼の背中に声を掛ける。
「黒みー、大丈夫?」
「黒鋼だっ!おまえは元気そうだな!?」
「今はちょっと魔力切れで、後でね」
つるんとしたファイは先ほどかけた魔法ですっかり無傷に治ったらしく、ぼろぼろなのは服だけだ。黒鋼は特に回復魔法を掛けた訳ではないので、身体もあちこち焦げている。
「……俺ぁこれくらいほっといても治る」
「そんな気もしますが」
「あははは、伝わってないみたいだねぇ」
何か言いたげな黒鋼と愉し気なファイは余裕そうだが、私には階段ダッシュは中々しんどい。
ようやくたどり着いた最上階には、蓮姫の人々と春香、そしてサクラが居た。その背中の奥、部屋の中央付近には領主と相対している怪我の増えた小狼がいる。領主の手には秘術による守りがはがれつつあるサクラの羽根が覗いている。
「私の秘術を操る力はまだ弱いけど、でも!
この鏡にかけて、もうお前なんかに町の人達を自由にはさせない!」
「……くそぉ!!」
春香の手にある鏡は秘術に用いる道具の一つなのだろう。武器を手にする蓮姫の人々は困惑した表情をしており、彼らが領主に操られて知らぬ間にここに居たのだろうと予想される。
「なんだか人がいっぱい?」
「三人とも、遅いー!!」
「こっちも色々あったんだよー。ごめんねぇ」
モコナに頭突かれた黒鋼が「うるせぇ!」と文句を言っている。モコナは文句を言いつつも嬉しそうにしていて微笑ましい。
「羽根を返せ」
あちこち傷だらけで、火傷のような痕と煤に塗れた小狼が低く言って領主に歩み寄る。サクラが小さく小狼の名を呟く。
「それはサクラ姫のものだ……返せ」
「ま……待て!」
腰を抜かしたように座り込む領主はこの期に及んで後退りながら叫ぶ。
「これを使えば春香の母親を生き返らせられるかもしれん!
わしを傷付けたり殺したりすれば、それも出来なくなるぞ!」
「おまえが殺したんだろう、この町を守ろうとした母さんを!!」
うだうだと言っている領主を前に、春香が怒りと悲壮に染まる声で叫ぶ。それは私たちが未だ聞いていなかった、恐らくは春香自身が受け止め切れていなかったからこそ語られなかったのだろう、母の死の真実だった。語ることすらできなかった死を、この領主は最悪の形で引き合いに出したのだ。
「母さんが言ってた!どんな力を使っても、失った命は戻らないって!!」
震えながら叫ぶ春香のことを、サクラが支えるように抱きしめている。彼女やその母を想う蓮姫の人々も頭を下げて悲しみと同情に暮れている。
「どんなに私が会いたくても、もう母さんには会えないんだ!!」
最悪の男だ。他者の命を平気で奪ってきたのだろう。殺したり生かしたり、どうにでもなると思い込んでいる。自分にはそれができると信じ込み、自分の死だけは免れようと縋る。
「それなのに……そんなたわごと!」
仇を討つと言っていた彼女を置いて別れた。今の彼女の激情を見ていると、ずっと胸に抱えていた願いですらあったのだろうと思う。
誰も口を開くことができずにいる中、小狼が春香に声を掛けた。
「仇を討ちたいか」
春香の叫びは止み、小狼が彼女を振り返り真っすぐに見据える。
「それで気が済むならいい。けれど、春香が手をかける価値のある男か?」
感情的になっていた春香は、それでも小狼の問いかけに首を振った。
「こんな奴……殴る手が勿体ない!」
その表情には何よりも憤りを見せていた。しかし、春香は憎しみに支配されることではなく、この領主との真の決別を選んだ。
小狼は目的を果たすべく、無様に後退り吠えるだけの領主に躊躇なく歩み寄っていく。
小狼の背中の奥、領主のさらに後ろから伸びる長い爪。
「そこまでだ」
囁くようなのに、その場にいる全員を支配する声。私たちが相対した彼女であった。
彼女は絶望に染まる悲鳴を上げる領主を絡め取り、秘妖の国で息子共々最高の持て成しを施すと語り、その国に繋がっているのだろう領域に引きずりこんでいく。
そこで一度手を止めた彼女が、春香の姿を視界に収める。
「春香とやらはおまえか」
「……そうだ」
春香に母の面影があったのだろうか。もしくは、人間には視えない力で肉親であることを感じ取っているのかもしれない。
「おまえの母親は良い秘術師だった。この領主の卑劣な罠によって亡きものとなったが」
彼女の母のことを語る者はいなかったはずだ。それは蓮姫の人々が春香を思ってのことだったやもしれないし、他に肉親のいない彼女にとってそうならざるを得なかったのやもしれない。しかし、秘
妖に語られる母の話に涙ぐむ春香は悲しみも浮かびながら、生きた母の姿を鮮明に感じ入っているようだった。
「私との戦いで己を磨き、おまえが成長してそんな己以上の秘術師になることを楽しみにしていると言っていた。
強くなれ、私と秘術で競えるほどな」
春香には未来が見えただろう。春香を見守る母がいなくなったことは変えられないが、彼女の成長を心待ちにする者がいる。
「……なる。絶対に!」
決意の滲む春香の声に肩の力が抜け、そっと息を吐く。
私は随分緊張していたらしかった。乱れた髪を掻き上げると、指先が痺れ、そこで初めて自分もなかなかにボロついていることに気が付いた。
「では、またな。可愛い虫けらども」
「ひいいぃぃぃ!」
諦め悪く羽根に手を伸ばしていた領主だが、渦に引き込まれるようにして秘妖と共に呑まれ、まるで誰も居なかったかのように姿を消した。
それに次いで羽根を囲うようにしていた守りが全て剥がれ落ちる。その羽根を拾い上げた小狼が、サクラに歩み寄れば、それは吸い寄せられるようにして取り込まれていく。サクラは虚ろな目をしながらも「どうして」と呟いた。
「誰もいないのに……」
どのような記憶がサクラに戻ったのだろうか。私には分からないというのに、じくりと胸が痛む思いがする。彼女の言葉が、阪神共和国で小狼に問う姿と重なって見えたからかもしれない。これから埋まっていく記憶の中で、小狼は存在しない。
深く眠りについた様子のサクラを小狼が受け止め、座り込んだまま抱きしめる。
「羽根、もうひとつ……取り戻せた」
突然眠り込んだサクラを心配する春香をファイが宥め、ボロボロの黒鋼が自分以上に怪我を負っている小狼の状態を観察している。幾らか魔力が戻ってきているが、蓮姫の人々の前で魔法を使うことは気が引ける。
黒鋼が渋る小狼から半ば強引にサクラを預かって運び、私たちは春香の家に再び戻って一先ず治療をすることになった。春香の家につくと、彼女が「傷薬があるんだ」と言って、彼女の母が作ったと言う薬を出してきてくれた。そんな大切なものを使えるはずもなく、渋る私が真っ先に治療をされた。
「黒鋼の方が重傷で」
「俺ぁ一晩寝りゃ治るんだ」
「それなら私も治ります」
ゴツンと頭に拳骨を打たれてからは黙って治療を受けた。
治療の後は蓮姫の人々の訪問があり、対応している内に日も暮れてまた一晩泊まることとなった。春香が不在の間に最も酷い小狼の足の怪我には回復魔法を掛けたが、それで秘妖のところからくすねた木端は底を尽き、黒鋼の治療は春香が施してくれた薬に頼ることとなった。
「夜中に叩き起こしてもいいなら、多少治療できるんですけど……」
「ヤメろ」
そう言われると思っていた。私自身、肉体疲労が酷いのでぐっすり眠りたかったので、黒鋼のこういう雑なところには救われる。
「オレの杖取っておけばよかったかな――」
「えぇ?……私には扱えませんよ」
杖がないと無能なのだと改めて説明していると、ファイが”秘術を破るもの”の対価に出した魔道具のことを示すのでしっかりと否定する。
「ファイの杖を使うくらいなら、お箸で魔法を唱えた方が上手くいきます」
「そういうものですか?」
「今度やってみよっか」
「えっ」
真面目な小狼が珍しく問うてきたので、実践したことは無いが今度豊かな国に行ったとき試してみてもいい。困惑する彼を微笑ましく見守っていると、春香が戻って来て「何話してるんだ?」と怪訝にしていた。私たちに代わって来客の対応をしてくれていた彼女の顔は晴れやかだ。
その晩、事情を知った蓮姫の人々が布団を持ち込んでくれて、私たちは全員温かい寝具に包まれてゆっくり眠れることになった。余程疲れていたのか春香も床についてすぐ気絶するように眠って、私も酷い眠気だったが、明日にはこの国を離れることを思って、その寝顔を見守らずにはいられない。艶のある黒髪をそっと撫でてから、自分の布団に潜り込む。
目を開けると朝だった。朝日はすっかり昇っていて、かなりの寝坊をかましたことを悟る。誰も起こしてはくれないらしい。春香すらも。
「サクラちゃんも起きてるじゃん……」
「おはようございます」
「おはよう……」
男たちと春香の姿は無いが、サクラに導かれて朝の身支度を手早く終える頃、彼らは両手いっぱいの土産を手に戻って来た。どうやら市場に買い出しに行ったようだが、昨日のこともあり沢山の施しを受けたらしい。
「寝坊してすいません」
「いえ、そんな」
「本当だぜ」
「よく寝てたねぇ」
小狼は本当に気の利いた子だ。カエルのがま口財布を任されるだけある。寝坊をかました自分が悪いのは事実なので、豪華な朝食は慌てて食べた。サクラはうとうとしていたが、次の世界で食べられる保証もないので揺り起こして食べてもらう。もう出立と言ってはいないが、元来世話焼き気質なのか、春香が一番熱心にしていた。
一行が元々着用していた装いに着替え出すと、春香は私たちの出立を悟ったのか「もう行くのか?」と寂しげにしている。
「もっと傷が治ってからでも……」
「春香ちゃんにもらった傷薬、良く効いたよ。ほら――」
ぺろりとファイが捲るのは黒鋼の外套である。案の定ぎゃんぎゃんと喚く黒鋼――流石に喚いて当然である。
「母さんが作った薬だから。私にはまだ無理だけど、でも頑張って母さんに恥じない秘術師になる」
「なれるわ。きっと」
誇らしげにする春香の傍に寄ったサクラが、春香の手を取り優しく声を掛ける。いつも眠たげなサクラだが、春香にかける声はしっかりと芯が通っていた。
「うん!」
晴れやかな春香の返事に安堵する。
一行は春香の家を出て、道を少し下った広いところへ向かう。市場の近くまで来ると、蓮姫の人々が改めて感謝の言葉を口々に述べてくれる。
モコナがふわりと浮いて周囲がどよめくが、お構いなしといった風にモコナは羽を広げた。
「そろそろ行く?」
「行く」
「なんだ!?どこ行くんだ!?」
春香の慌てた声に続いてどよめきが騒ぎに変わる頃、状況を理解した彼女が「まだ来たばかりなのに」と言う。やはり、声は寂しげだ。その身体をぎゅっと強く抱きしめ、綺麗にまとめ上げられた髪を二度だけ撫でつけた。
「春香、またね」
皆のところに走ってから、振り返る。泣き出しそうな彼女に、笑顔で手を振った。未だ寂しげな彼女へ、小狼も微笑んで答えた。
「やらなければならないことがあるんだ――元気で」
そのあとの彼女がどんな表情をしていたのかは分からない。しかし、温かい蓮姫の人々と復興に励むだろう彼女を思えば、その未来は明るいと信じる他なかった。
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