「…なにしてんの」

目の前に掲げられたスプーン。中身はポタージュスープだと思われるそれをこちらへ向ける男に、わたしはため息まじりに聞いた。

「俺だって好きでやってんじゃねぇよ」

"瀬見英太"はそう言ってスプーンを戻す。好きでやってんじゃないということは、頼まれたということ。誰になんて、そんなのひとりしかいない。

「……あの男は?」
「出てるよ。一週間は戻らねぇ」

"牛島若利"がここをあけるのはたまにあることだったが、一週間も不在なのはわたしが来てから初めてだ。目の前に座るこの人はその間のわたしの監視係りか。

「気の毒ね、あなた」
「俺もそう思ってるよ。…とにかく食ってくれ。一週間の間に餓死されたら困る」
「…あなたが出ていったら食べる」

"瀬見英太"は大袈裟にため息を吐いた。わたしはこの人があまり嫌いじゃない。ここにいる人間の中では、"れおん"と呼ばれる人と並んでまともな方だと思う。マフィア相手にまともだなんて、そろそろ自分も頭がおかしくなってきたかもしれないけれど。

「嘘つけ。自殺志願者の言うことなんて聞けるか」

逃走が上手く行かないなら餓死してやろうと、食事をとることをやめた。それまでは逃げる為に、必要最低限の体力は維持できるように少量だが食べてはいたのだ。食べるのをやめたらすぐさまあの男がやって来たけれど。

「……若利に食わせてもらってるんだろ?…俺はやっぱそんなことできねぇから、自分で頑張って食ってくれ」

わたしから目をそらして、"瀬見英太"は頭をかきながらそう言った。照れながら言われて、今度はわたしがため息を吐いた。そんなことまで知られているなんて最悪だと思った。どうせ広めたのは以前食事中に部屋を覗いてきた"天童 覚"。本当にあの男は、わたしの嫌なところばかりを的確に刺してくる。

「肩を掴まれて身動きとれなくされるのを、食べさせてもらうとは言わない」
「そんなに嫌なら諦めて毎日ちゃんと自分で食べろ」

そう言って"瀬見英太"はわたしの方に、パンとスープとサラダが乗ったトレイを差し出す。仕方なくスプーンを握った。ここの食事はとても美味しいとは思う。
こんなふうにして、わたしがここで頑なに意志を貫こうとすればするほど、それは逆効果になってわたしはどんどん生かされていく。もう随分死から遠ざかってしまった気がして、俯いた。"瀬見英太"はふと「そういえば」と口を開く。

「お前がいた組織、国境を越えてかなり遠くに場所を移したそうだ」
「あなた達が攻めたからでしょう」
「攻めてない」

なんの冗談だと顔を上げると、まっすぐな瞳と目が合った。からかっている訳ではないのだ。この人はそんなことはしない。それくらいはもうなんとなく分かってしまう。

「放っておけって言ったのは若利だ。それにお前と一緒にここに来た仲間も、全員ちゃんと埋葬したよ。それも若利の指示でな」

彼らが攻め行っていないのなら、わたしの組織はこのマフィアを恐れて遠くへ逃げたのだ。遠くへ逃げたのなら、もうわたしの仲間がここの人間達に殺されることはない。ないけれど、胸に空虚な風が吹いた気がした。ここにはもう誰も来てはくれない。改めて、わたしはひとりになってしまったのだ。

「だから何だって感じだろうけど、まぁ、あれだ。できればあいつのこと…あんまり嫌ってやるなよ」

スプーンを持つ手が震えている。わたしの仲間を殺しておいてなにをと言いたかったけれど、言えなかった。わたしの組織は危険なマフィアを置いてあっさりと逃げてしまうような組織なのだ。わたしの仲間はもう死なない。死なないけれど、警察が逃げるのは道理だろうか。何が正義で、何が正しくて、何が残酷で、何が救いなのか、もうわたしには分かりそうもなかった。



あまり寝付けぬ夜を過ごしていると、唐突に扉が開く音がした。まだ一週間経っていない。けれど、まっすぐこちらへ向かってくる足音は、確かにあの男のものだった。枕元の時計を確認すると時刻は2時過ぎ。ノックがないのはもはや慣れたことだった。
牛島若利は起きているわたしを見て少し驚いているようだった。中途半端に開いているカーテンから差し込む月明かりで、部屋は完全な闇ではない。

「帰るの、明日って聞いた…」
「早く終わらせた」

身体を起こして呟くとすぐさま返事がきた。彼が出てから明日で一週間だし、"瀬見英太"も明日帰ってくるらしいと言っていた。終わったではなく終わらせたのだから、夜中になってまでも早く戻りたかったということだ。何故か。

「不足している」
「……何が?」
「お前が」

爆弾みたいな言葉を堂々と言うから、もうついていけない。わたしは自分でも驚く勢いでベッドの端まで下がって、男の様子を窺い見た。手元にシーツを手繰り寄せたのは、防衛本能からだ。男は何も言わずスーツのジャケットを脱いで、ネクタイを取り去る。一連の動きに、わたしはシーツを強く握り込んだ。部屋の温度は丁度良いのに、足先がやたらと冷たく感じる。
ぎしりとベッドに乗り上げたかと思うと、腕を引かれた。声を上げる間もなく抱き締められ、わたしは思わず目を閉じる。けれどやはり彼は、それ以上は何もしてこなかった。抱き締める力も、わたしが抵抗すればほどけてしまいそうだ。

「まだ、何もしない」

わたしに、というよりは、自身に言い聞かせるような響きを持って、彼は言った。

「まだ、しない」

身体を離して見詰め合う。月明かりに艶めくこの瞳は、いつも曇りなくまっすぐだ。肩には彼の手が添えられていて、それがとても温かかった。なんだか可笑しくなりそうだ。とことん残酷でいてくれた方が、わたしはここを、この人をずっと憎んだままでいられたのに。

「……ほんと変な人」

肩に置かれている彼の手に触れる。彼はピクリと動いただけで、何もしなかった。彼の手は、やはり温かい。多くの組織を潰し、たくさんの人を葬ってきた手だなんて思えないくらいに。


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