真夜中に、与えられた部屋を出て薄暗い廊下を進む。上質な絨毯は足音なんて生まない。けれどわたしは細心の注意を払いながら、出口へと進んだ。ここにいるのは化け物だらけだ。気を抜けばすぐに見付かってしまう。
与えられたこの黒いワンピースは、用意された服の中では一番目立たないものだったから選んだが、着なれない為に動きづらくて敵わない。ここに来たときに着ていたスーツは、いつの間にか無くなっていた。

「はい、ゲームオーバー」

ようやく2階まで降りてきて、廊下の窓を破ろうとしたその時に、腕を掴まれた。

「うっ…」
「だんだん上手になってきてるね、ナマエちゃん」

何か、針のようなものを腕に刺された。四肢の力が抜けていく。暗闇に慣れたわたしの目が捉えたのは"天童 覚"。いつもわたしは、この男に阻まれる。


「もう殺せばいいじゃないですか」
「それは若利君が決めることだよ、賢二郎」
「何回目ですかね、脱走」
「四回目くらいじゃないか」
「にしても、大人しくしてたらめちゃくちゃ可愛いっすよね、この子」
「やー、俺は反抗的なのも好きだけどねん。英太君は?」
「…まぁ、普通に街歩いてたら男がほっとかねぇ感じだよな」

わたしの決死の逃走、彼等の言う脱走はまたも失敗に終わった。強い薬だったのだろうか。身体に全く力が入らない。上質な革の感触から、どうやらソファに寝かされているらしいことは分かる。わたしの周りを囲むように、数人の声が聞こえてくる。その中に"あの男"の声はない。まだここにはいないようだ。

「起きないと悪戯したくなるよね」
「俺はならねぇ」
「俺もなりません」
「英太君も太一もつまんないね」

すぐそばで不躾に繰り広げられる会話を今すぐ終わらせてやりたいけれど、起き上がることもできなければ、目を開けることすら億劫だった。麻酔薬のようなものだったのかもしれない。

再び意識が闇に落ちる寸前、バンとドアを開け放つ音が聞こえた。あぁ、きっとあの男だと思いながら、眠気に身を委ねた。


寝かされているのは革のソファから、柔らかいベッドに変わっていた。ベッドとクローゼットと鏡台しかないこの部屋は、わたしの部屋らしい。服も食事も不自由なく与えられている。この部屋で、いつもここから逃げることだけを考えている。

「目が覚めたか」

太い声が落ちてきた。わたしは顔だけを声の方へ向けた。まだ四肢に痺れを感じる。
こちらを見下ろすこの男――牛島若利は、逃走に失敗したわたしをいつもこうして部屋に戻す。怒ることもなく、ただわたしをベッドに寝かせる。そして、朝を迎えるまでここにいる。何をすることもなく。この男はわたしに手を出したりはしない。牛島の部屋に連れて行かれ、押し倒された時にだって、それ以上は何もされなかった。

「何故何度も逃げようとする」

わたしは問いに答えず、牛島から顔をそむけた。カーテンが開け放たれたままの窓の外はまだ暗い。

ぎしりと、わたしの身体に余る大きなベッドが軋んだ。力の入らない腕が引かれ、わたしは勢いよく身体を起こされた。そのままベッドに座る牛島の胸に、身体を預けるようになってしまう。

「ちょ、ちょっと…」

離れようにも、身体に力が入らない。それどころか背中に逞しい腕が回され、しっかりと拘束されてしまう。

「…離して」
「無理だ」

速答される。力の入らない身体で身を捩っても、牛島はびくともしなかった。

「離してよ」
「何故ここから逃げようとする」
「…警察がマフィアに屈するわけがない、でしょう」

顔を上げて、睨み付ける。惹かれたなどと只の冗談で、今すぐ気が変わって殺してもらっても構わない。こちらを見下ろす瞳がぎらりと光った。

「もうお前は警察ではない」

手帳も銃もナイフもスーツも、全て奪われた。それでも、

「わたしは警察よ。マフィアの仲間になんてならない」

言った瞬間、ぐっと両肩を掴まれて、柔らかいベッドに押し倒された。なすがままのわたしの上に、牛島が覆い被さる。途端、襲ってきた恐怖に耐え、わたしは牛島から目を逸らさずにいた。

「俺が嫌いか」

射抜くような真剣で鋭い眼差し。見詰め合って数秒、言葉があまりにも予想外で、わたしは何も言えなかった。何故そんなに真剣に、わたしを見るのか。警察であり、マフィアの敵である、わたしを。

牛島の瞳がゆらりと揺れ動いた。

「泣くな」

言われて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。何故涙が出るのかわからない。心が痛い。殺してくれないならば、いっそ消えてしまいたい。

「泣くな」

僅かに戸惑うように牛島がもう一度わたしに言う。泣くなと言われたら、一層涙が溢れてしまった。


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