幼い頃。ぱちんと蚊を叩くわたしに母は、殺生はいけませんと言って聞かせた。だからわたしは夏、止まって何かをする時には必ず蚊取り線香の側にいた。縁側で西瓜を食べる時、洗濯物をたたむ時。洗濯物に蚊取り線香の匂いがついてしまうよ、と母は言ったが、笑うだけで咎めることはしなかった。

だからなのか。夏、蚊取り線香を出すといつも自分の幼い頃を思い出す。
縁側で積まれた洗濯物をたたむわたしの視界の端には細い細い煙がひとすじ。匂いがついてほしくない、彼が登城の際に着る羽織りだけは蚊取り線香から離れたところでたたんだ。彼に恥ずかしい思いをさせるわけにはいかない。

ぽとり。なんの前触れもなく蚊取り線香の近くに蚊が落ちた。
思えば母は殺生はいけないと言ったが、結局これは殺生に繋がってしまうのではなかろうか。手を下すのが自分ではないというだけの話で。
けれども、その時の母の殺生はいけませんに込められている思いは、何となく分かる。否、少女から大人へと歳を重ねてから分かるようになった。


「どれくらい寝てた?」

ごそりと動く気配がしたので振り返ろうとしたら、それよりも先に声が掛かる。

「半時ほど…でしょうか。いいんですよ、まだ寝てらしても」
「いや、もう目が覚めたよ」

振り返ると彼は布団に肘をついてこちらを見ていた。寝間ではないこの部屋に布団を敷いたのはわたしだ。おそらく帰ってきたらここで寝るだろうと、そう思っていたから。
もう完全に覚醒しているらしい彼の声は、全く眠そうなものではない。彼は小さく笑って蚊取り線香を指差した。

「またそれの側にいる」
「もう幼い頃からの習慣みたいなものですので」
「俺にとっての夏はこれだな。ナマエと縁側と洗濯物と蚊取り線香」
「あぁ、わたしにとってもそうかもしれませんね」

最後の洗濯物をたたみ終えた時、小さく風が吹いて、先ほど落ちた蚊が縁側から外へと飛ばされていった。風に乗って夏虫の声が聞こえてくる。もう夕刻だ。

ぎしりと縁側が軋む。いつの間にか移動してきた彼は、徐にわたしの膝に頭を預けた。彼がわたしとの距離を詰めるその時は、こんなふうにいつだって唐突だ。彼が動いたことで、視界の端の蚊取り線香の煙が、緩く波打つ。

「…どうしました?」
「やっぱりもう少し寝る」

そう言って彼はわたしの右手を取って、自身の目元に乗せる。これではわたしは全く動けない。洗濯物の山はもう片付いたから、それはそれで構わないのだけれど。

「明日も城へ行く」
「はい。羽織り、乾いていますよ」

ちらりと箪笥に目を向ける。颯爽と歩く後ろ姿に皺ひとつないようにと、丁寧にたたんで、仕舞ってある。

「明後日の夕刻まで戻れない。留守は頼んだ」
「はい。お気をつけて」

詳しいことはわたしには分からないが、最近の彼が多忙であることは間違いない。決して顔にも口にも態度にも出さないが、きっと疲れているのだと思う。少なくとも、こんなふうに空いた時間に睡眠を必要とするくらいには。

「縁側で、待ってますね。蚊取り線香付けて」

もう寝てしまったかなとも思いながら、それでも今のわたしの彼を思う精一杯の気持ちが少しでも伝わればいいなと、真下にゆっくりと声を落とす。すると、彼の左手が動いて彼の目元にあるわたしの右手と重なった。


夏ネタ箱 サボ×蚊取り線香の香り


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