畑仕事にいそしんでいたかと思えば、彼はわたしが立ち止まった瞬間、唐突にこちらを向いた。きっとわたしの足音が聞こえていたんだろう。

「…久しぶり」
「やぁ、おかえり」

夏の日差しを浴びながら微笑む一色慧は、汗を拭いながらこちらへと向かってくる。未だに見慣れないふんどし姿に気押されそうになりながら、わたしも彼へと歩き出そうとして、止まった。畑に踏み入るのに革靴はまずい。それにしても相変わらずここは、いろとりどりの野菜達が美しい。

「今は誰もいないんだ。ふみ緒さんは朝早く出ていったし、今日は創真くんも珍しく出掛けて行ってね」

当然のように名前を出すが、わたしはここ極星寮の人とは全く面識がない。一色の話から、本当になんとなく誰がどんな人物なのか推測しているだけだ。"創真くん"はまぁ有名人だから、彼と同級生ではない二年生のわたしでもよく知っている。

「他の子はみんな帰省中だしね。よければ上がっていくかい?」

誰もいないのならばと、わたしは頷いた。この暑いなか、夏休みにわざわざ制服を着てここまで出向いてきて良かったと思った。わたしはこの男に会いたくてきたのだ。

「はいこれ、鍵。先に部屋まで行っておいて」

一色は畑の脇の水筒やらタオルやらを置いていたところから鍵を探し出して、それをわたしの手のひらに落とした。そこでふと我にかえる。

「ねぇ、まだ作業中なんじゃないの?それだったら、わたし」

帰るよ、と口にする前に彼はふるふると首を振った。

「丁度区切りをつけようかと思っていたところさ。片付けたらすぐに行くよ」

そう言って彼はわたしに背を向けてさっきの場所へと戻っていくから、わたしも乗ってきた自転車を押して寮へと向かう。寮へ入るのは二度目だ。あの時は一年生が合宿で出払っている時だった。"ふみ緒さん"は、わたしに気を遣って入れ違いに出て行ってくれていたようで、挨拶ができなかったのだ。そういえばあの時も、一色が上がって行きなよと声をかけてくれたのだった。

彼の部屋についたもののどうするべきか分からず、とりあえず部屋の中央に立ってみる。彼の暮らしている場所に自分がいるのだと思うと、妙に緊張が増した。寮生ではない自分をテリトリー内に入れる理由を問うたら、彼はなんと答えるだろうか。
そもそもわたしと彼を繋ぐ関係は、一年生の終わりにしたわたしの告白なのだ。普段となんら変わらぬ飄々とした態度で「ありがとう」とだけ言った彼は、それ以降どうしたことか度々わたしに声をかけてくるようになった。最も、彼はあまり授業に出てこないから、会う回数は決して多くはないのだが。

「いやー、おまたせおまたせ。……ん?エアコンくらいつけないと暑いだろう。それに立ってないで座ってくれて構わないのに」

ドアの音に振り向いてからぎょっとした。シャワーを浴びたのか、先ほどのふんどし姿から裸エプロン姿になっていて、濡れた髪から水がぽたぽたと落ちている。以前来たときも裸エプロンだったのを思い出し、わたしは彼の言葉に甘えてベッドに腰掛けながら窓の外へと視線をそらした。この男にとってはこれがデフォルトなのだ。エアコンがどうとか言う前に、己の格好を今一度確認してみて欲しい。

「はい、どうぞ」

麦茶を差し出されたので、あまり彼を直視しないようにしながらそれを受け取る。手元で氷がカランと回った。

「ありがとう。…髪濡れてるよ」
「すぐに渇くさ。それよりも、久しぶりの実家はどうだったんだい?随分短い帰省だったみたいだけど」

学園が夏休みの間は、ぎりぎりまで帰省して家業を手伝ったり、海外へ出て己を高めに行く者も少なくはない。去年の夏休みはわたしもほとんど実家にいて、家業を手伝っていた。

「今年は両親そろって今日から旅行に出掛けてるから、あんまり向こうにいる理由もなくて」
「ふぅん。なるほどね」

思い切って店を休んで、どこかの県で行われる花火大会へ行こうかということになったらしい。わたしも誘ってくれたのだが、あまりゆっくりしていてはこの学園では生き残れない為、それを断って早めに戻ってきたのだ。できれば夏休みの間に、この男に会っておきたかった気持ちも少なからずあった。わたしの告白を受け入れも断りもしなかったこの男とのなんともいえない微妙な関係が、わたしはけっこう好きだったりする。
エアコンの風が当たってわたしの髪が揺れる。一色は首にかけていたタオルで自分の髪を拭いていた。半裸の男とふたりきりで部屋にいても、何かが起こる気が全くしないのは、たぶん相手がこの男だからだ。この奇人に欲なんてあるのだろうかと、失礼ながら考えてしまう。

「一色は、夏休みもずっとここにいるの?」
「もちろん。野菜達を置いてはいけないからね」

あの畑に注ぎ込む情熱は並大抵のものではないようだから、その言葉に嘘はないのだろうが、本当にそれだけが理由なのかと思ってしまう。自分語りをしない為に、彼のことを詳しく知る者はほとんどいない。わたしだってそうだ。けれど、知らなくても何故だか惹かれてしまう。

「君も一緒にどうかな?寮に入ったら毎日野菜とふれ合えるよ」
「……やめとく。そんな実力ないし」

聞くところによると、ここの子達はかなりの実力者ぞろいだろうで、"創真くん"も含めて秋の選抜の候補者が何人もいるんじゃないかという噂だ。学年が被らなくて本当に良かったと思う。目の前のこの男だって化け物だし、凡人が入っていいような場所ではない。

「君なら入寮腕試しも一発でクリアできると思うけどなぁ」

にっこりと笑いながら、一色がタオルを首にかける。彼の姿に大分目が慣れてはきたが、いまいちどこを見ていいか分からず、床に座る彼のエプロンのくまの部分を見ながら首を振った。

「アパートもあるし、そこで充分」
「残念だなぁ」

残念というわりに声のトーンは明るいが、一応は本音なのだろう。そうであってほしい。野菜とふれ合えるからという理由だったとしても、誘ってくれたのはそれなりに嬉かった。

「じゃあ、そろそろ帰る」
「もう?」
「うん。荷物の片付けもしないといけないから」

実家から今朝アパートに着いて、そのまますぐ着替えてこちらへ来た為、帰ってキャリーバックの中を片付けておかなければならない。それだけでなく"ふみ緒さん"や"創真くん"と鉢合すのを避けたいという気持ちもあった。ふたりきりという状況を知られるのは、やはり恥ずかしい。

「送ろうか?」
「ううん。自転車だから大丈夫」

前回ここへ来たときにはそんなこと言われなかったから少し驚いた。次からは歩いて来ようかと考えて、やめた。この学園はあまりにも広すぎる。
手にしていたコップをベッドそばにあるおぼんへと戻して立ち上がろうとした。が、それより先に一色が立ち上がってそのままわたしの左手をとる。

「またおいで」

立ち上がらせてくれたかと思ったら、その手が引かれて甲に柔らかい感触が落ちる。突然のできごとにくらくらしそうになりながらも、なんとか足を踏ん張った。そっと手を離した彼は、「玄関まで送るよ」とさっさと部屋を出ていってしまう。あからさまな反応をしたこちらが恥ずかしくなるほど、あっさりと離れられて思いの消化が追い付かなかった。
何事もなかったかのように、エアコンの風が無機質にわたしの頬を撫でる。きっとわたしはここを出たらすぐに彼に会いたくなるだろう。


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