わたしはとある神社の巫女として暮らしていた。

「あぁ、やはりいらしてたんですね」

日もすっかり暮れて参拝客の姿もなくなったというのに、表の方から物音がしたからわたしは菓子を持って外へ出た。吹きつける秋風はそろそろ冷たく、巫女の装束が大きく揺れる。目当ての人を見つけて声をかけると、夜に溶けそうな装いをしたその人は気だるげにこちらへ顔を向けた。

「……相変わらずお前は、俺が見えるんだな」

自らを神だと称するこの人とは、そんなに長い付き合いではない。彼が初めてここへ来たのは雨の降る初夏のことだった。雨宿りする彼と話して、彼が此方の者ではないと知って、それから今日で四度目くらいだろうか、こうして夜に会うのは。彼曰く、普通の人間には認識されにくい神という存在が見えるのは、とても珍しいことらしい。

「今日は…おひとりのようですね?」
「あぁ」

前に彼がここに来たときには、そばにもうひとり女の子がいたのだ。見つめられただけで、背筋がひんやりとしたのをよく覚えている。嫌悪ではなく、強烈な恐れをその年端もいかぬ少女に抱いてしまって足が震えた。今日は彼ひとりのようで、正直ほっとしている。

「これ、どうぞ」

懐紙に包んできた饅頭を差し出すと、彼はぱっと顔を上げた。けれど、顔を上げたきり受け取らない為、彼の手をとって掌に饅頭を乗せる。ひとしきり饅頭を見つめてから、彼は遠慮がちにそれを食べ始めた。と同時にぼそぼそと何か言う。正確には聞き取れなかったけれど、きっとお礼の言葉だ。

「どういたしまして」

大事そうにゆっくりと食べ進めるのがおかしくて、笑みをこぼしながら言うとじろりと睨まれた。本当は神様なんて嘘で、わたしたちと同じ人間なんじゃないだろうかと疑ってしまうくらい、彼の動作は自然だった。けれど、ときどき見せるひどく悲しく儚げな瞳は、此の世のものとは思えないほど美しいのだ。

「今日お会いできて良かったです」
「…なんで」

饅頭を食べ終え、境内にあぐらをかいた彼がこちらを向く。ひとりぶんの距離をあけて、わたしもそのとなりへ腰を下ろした。

「売られるんです、わたし」
「は?」

急に何をと彼は眉根を寄せた。今日はなんだかいつもより多くの表情が見られることを嬉しく思いながら、顔を上げる。秋の月はやはり美しい。

「わたし幼い頃にここの方々に拾っていただいたのですが、最近になってわたしの両親を名乗る人が乗り込んできまして」

父親は確かに幼い頃の記憶と同一人物であったが、母親は随分若く知らない人だった。彼らはわたしの両親だと言い張り、疑う皆を、娘を差し出さなければ覚悟しておけと揺すったのだ。皆は行かなくていいと涙ながらに訴えてくれたが、大切な場所を危険にさらす訳にはいかず、わたしはその話を受け入れた。せめて売られに行く日までは、この神社で時を過ごしたいと父親に懇願した為に今こうしてここにいる。

「三日後にこの近辺で一番の金持ちの家に売られるそうです。ですから、行く前に貴方に会えて良かった」

彼は何も言わずにわたしを見ている。けれど、透き通る碧の瞳が何か言葉を探すかのようにゆらゆらと揺れており、胸が苦しくなった。出会って間もないにもかかわらず、この人はわたしが居なくなることに動揺してくれているのだ。それがたまらなく嬉しいなんて、おかしいだろうか。

「どうかお元気で」

わたしは彼の名前を知らない。彼もわたしの名前は知らないはずだ。自己紹介もろくにしていないようなこの関係が、短いやり取りを交わすだけのこのささやかな夜の会瀬が、わたしはとても好きだった。

「あぁ」

頭を下げたわたしに短く返事をして、彼はその場を蹴って闇へと姿を消した。名なんて知らなくていい。知ってしまえば呼びたくなることを、分かっているからだ。




「ここに売られた者は皆、最初の日に旦那様と夜を共にする」

嫌な汗が背中をつたって落ちていく。手を痛いくらい握り締めながら、目の前の女性の話を聞いていた。

「まずは風呂へ。そのあと装いを整えてから最上階の旦那様の部屋まで向かいます。もう旦那様はお待ちしておりますので」

なかば引きずられるようにしながら風呂場へと向かうと、そこは見たこともないような広さだった。着せられる着物も髪飾りも豪華なものばかりで、それらで身体を拘束されるかのような錯覚を受ける。自分が人形のように仕上がっていくのが、ただただ気味が悪かった。
旦那様と呼ばれる初老の男は、わたしが部屋に入るなり性急に腕を引き、布団へと組み敷いた。

「実の父親に売られるなどと、なんと哀れな」

欠片もそう思っていないことは、ぎらぎらとした目を見ればすぐにわかった。遡れば捨てられた時から哀れであったのだ。けれど、わたしは有り難いことに優しい人達に拾われてそこで幸せな時を過ごすことができた。そして今はまた元の捨て子に戻っただけのこと。
せっかくの綺麗な着物が暴かれていく様を、どこか他人事のように見ていた。これからはこうして生きていくのだ。神社の皆にも、あの彼にも、二度と会えぬこの場所でわたしはこうして生きていく。そう考えると今更ながらに指先が震えてきた。

「おい」

窓は開いていなかったはずなのに、風を感じた。窓の方へ顔を向けると、いつのまにかそこが大きく開け放たれている。注ぎ込まれる月明かりを背にして、夜のあの人が鬼神の如く睨みをきかせていて、思わず息をのんだ。

「そこを退けよ」

ぞくりと背が粟立つほど冷たい声に、わたしの上に乗る男は全く動けないようだった。しびれを切らした彼がすっと目を細めた瞬間、風を感じたかと思うと男は隣りの隣りの部屋まで吹き飛んでいってしまった。片足を浮かせている彼を見て、あぁ蹴り飛ばしたのかと頭が理解する。わたしもわたしで、呆然と彼を見詰めることしかできなかった。

「…ここから出る」

未だ起き上がれないわたしのそばに膝をついて、彼は絞り出すようにそう言った。頷くと手を差し入れられ、そのまま抱き上げられる。彼の香りを感じて、なんとも言えない安心感に包まれた。泣いてしまいそうだった。




屋敷から随分離れた河原で、彼はわたしを下ろした。

「着物…なおせ」

彼はわたしから目をそらしながら、小さな声でそう言った。大きくはだけた胸元を正そうと、今なお小刻みに震えている手を動かすも指先に力が入らなくて上手くいかない。

「手に、…力が」

ちらちらとこちらを気にしている彼にそう呟くと、彼は押し出すようなため息をひとつ吐いてからやや乱雑にわたしの着物を正した。月夜の為に、彼の顔が赤いのがなんとなくわかってしまう。途端にわたしの中で何かが弾けた。

「…ごめんなさい」

すぐにでも触れ合える距離に来てしまったらもう、我慢ができなかった。今日もあの女の子はいない。掠れた声で一度断りをいれてから、彼の胸にすがりつく。驚いたように半歩だけ後ずさった彼は、それでも何も言わずに、ややぎこちなくわたしの背に腕を回してくれた。恐怖と安心感と嬉しさと、そして彼への愛しさが溢れて涙となって流れ落ちる。いっそ売るのならば、わたしを神様に売って欲しかった。

「…名前を、教えてくださいませんか」

離れようと身体を動かしたら、彼の腕がそれを拒んだ。くらくらしそうなほど魅力的な香りに再び包まれて、わたしはずっと聞きたかったことを口にする。

「……夜ト」
「やと、さん」

知りたいと願ってきた、この人の名だ。彼は少し身体を離して、わたしの肩に手を置いた。

「ナマエは、遠くへ行け」
「どうして名を…」
「…神社の奴がそう呼んでるのを聞いた」

知らなかったのは、どうやらわたしだけだったようだ。澄んだ碧の瞳をしっかりとわたしに合わせて、彼は絞り出すように言葉を紡ぐ。

「いいか。親からもさっきのおやじからも遠く離れた所へ行け。誰もお前を知らないところで、生きろ」

父の手から逃れない限り、何度もこんなことは繰り返されるはずだ。もう神社にも戻れない。この人とも、もう会わない方がいい。此岸の者と彼岸の者が深く交わって良い筈がないことくらい、わたしにだってわかってはいた。これ以上彼と一緒にいてしまったらきっともう、二度と戻れなくなってしまう。この人が拾い上げてくれたわたしの人生を、無下にするわけにはいかない。

「…わかりました」

笑顔が上手く作れているかわからない。離れたくはない。けれど、一緒にはいられない。わたしは人で彼は神様で、決して交わらない道の上に立っている。

「貴方のこと、何があっても忘れはしません」

会わなければ人はすぐに自分の存在なんて忘れてしまうのだと、以前彼が言っていた。自嘲気味に、ひどく悲しげに。

「何が、あっても」

一緒にいられないのならば、どんなに残酷な此の世の理(ことわり)でもせめてそのくらいは許してほしい。止まっていたと思った涙が再び溢れ出して、それ以上は何も言えなかった。

「……あぁ」

肩に置かれていた手が、何度も何度もわたしの頭を撫でる。月明かりを受ける彼の瞳はやはりどこか悲しげで儚くて、美しかった。


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