こだわりがあるのかないのか分からないけれど、彼は口付けをしない。身体を重ねている最中も、それ以外でも。わたしがそのことについて深く考え出したのは、先日同僚に言われたことがきっかけだった。
「ねぇ、救世主様はどんなふうに抱いてくれるの」
女同士、こういう場所にいたら自然と相手をする男性の話になることもある。マニアックなプレイが好きなんじゃないかとか、酒に酔わないとできないんじゃないかとか、キス魔なんじゃないかとか、いろいろ周りで言われていたので、ごくごく普通だと返しておいた。普通の基準が、この世界が長いわたしでもよく分からないけれど、彼は別に変なことはしない。時おり意地悪く、けれどとても優しくわたしを抱くのだ。愛しいのだと訴えかけてくる眼差しに、毎回おかしくなりそうなのはわたしの方。マニアックでもないし、酔うどころかその気がある時は酔わずに待ってくれている。キス魔でもない。というか、された記憶がほとんどない。
その時に思った。彼はほとんど口付けをしない。額にされたことはあったかもしれないが、口には一度か二度くらいだ。身体を重ねた回数が決して多いという訳ではないにしろ、これは些か少ないのではないだろうかと。今までの自分の仕事での経験、そして同僚達からの話をもとにして考えると、そんな気がした。
別に口付けという行為に思い入れがあるわけでもないし、今の彼との状態で充分に満足しているから、それでいいのだけれど気にはなった。だから聞いてみようと思ったのだ。
「今日のぶん、また今度払おっかなー…なんて」
「……わかりました」
彼は実にわざとらしくそう言った。よくあることなのだから、そろそろ面と向かって言ってくれればいいのに、そういうことはできないらしい。けれど、わたしも人のことは言えない。聞きたいと思っていたことを聞けず仕舞いで、今夜のことを終えてしまった。
「あり?なんで着物着ようとしちゃっての?」
「え?」
部屋のそこらに散ったものを集めて着ようとしていたら、彼はきょとんとそう言った。
「帰るん…ですよね?」
「いやいやいや、帰らねーし!泊まるんだって」
俺言ったよね?最初に、とやや呆れたように言われ思い返してみる。確かにそんなことを言っていたかもしれない。今日の大半は、自分の聞きたいことをいつ聞こうかとそればかり考えていたから、逃してしまっていたようだ。
「だからこれはナシな」
羽織っていた着物をひょいと取られて、声をあげる間もなく布団へと連れていかれる。この人が帰らずに泊まるのは二度目だ。
「着て寝たい…」
「あ?んなこと言いながらナマエちゃん前に暑い暑い言って結局全部脱いだだろーが」
「…脱がされたんです」
一度は灯した明かりを再び消して、お互い下着だけをつけたまま、布団の中で向かい合う。泊まってくれるのはとてもうれしいけれど、誰かと眠るこの感覚が落ち着かない。酒が入れば誰しもを放っておいて眠りこけるくせに、こういう時のこの人はわたしが眠るまで眠らない。ただただ優しく見つめてくれる、その視線に耐えられなくて、前回はわたしの方から彼に身体を寄せて目を閉じた。今日のわたしは、どうできるだろうか。
「あちぃか?」
「いえ、だいじょうぶ」
今日のわたしは、もう眠りそうだ。このところの連勤の疲れもあるのかもしれない。身体がふわふわとあたたかい。
「おやすみ…なさい」
「あぁ」
背中に手が回ってきて、目を閉じる。口付けが無くとも構わないと思った。彼がここにいてくれるのならば。
得意か不得意かと言われれば不得意で、好きか嫌いかと言われればまぁ好きな方で、じゃあ、己の照れくささや難しさを忘れてまでそれができるかと言われれば、答えはかなり曖昧だ。
だから彼女が寝入っている時に、する。正面きって向かい合って、唇を重ねるという行為は俺には何故だか難しい。どうしようもなくむず痒くて、ついつい避けてしまいがちだった。こうやって度々会う関係になってからも、それは急には変えられなくて今に至る。彼女は俺のそんな面倒な心境に気づいているかもしれない。
「ナマエちゃーん…」
呼び掛けて反応がないのを確かめてから、口付けた。背徳感と罪悪感と、溢れてくる妙な高揚まで押し付けないように注意しながら、慎重に離れる。一度泊まった前回に引き続き、二度目のことだった。しかし前回と違ったのは、完全に身体を離す前に、彼女が薄く目を開けたこと。
「ぎんさん」
一瞬だけ身体を固くしてから、すぐに緩める。彼女がどこまで覚醒しているかはわからないが、大層幸せそうな顔で微笑んでくれたからだ。
「んー?なに、たぬき寝入りしてたの?」
「…いま、めがさめたんです」
囁くような声で彼女は言った。バレてしまったのに、焦りも嘆きも特にわいてこないのは、なぜだろうか。
「もういっかい、してくれますか?」
心の底の底では、ちゃんと起きている彼女としたかったのかもしれない。いくら俺の面倒な理屈を回しても、結局はそんなもんで。
目と目を合わせ、彼女の髪に手を差し入れながら、そっと唇を塞いだ。