秋の虫の声がする。ベランダに出て、最初にそれを思った。風呂上がりの湿った髪を遊ばせる微風は、夏のそれとは違ってほんの少し冷たい。季節の移り変わりを感じるのは、いつだってこうして外に出て風をこの身に受けた時だ。それは早朝だったり、昼下がりだったり、夕暮れだったり、そして今のように月踊る夜だったりする。”彼”が初めてここに来たのも、こんな季節の変わり目だった。春から夏へと季節が移る夜、真っ黒の隊服がぬるくなってきた風に靡いていた。
わたしは、ぎりぎり警戒区域外に位置するアパートの三階に住んでいる。安かったら何でもいいから住処を用意してほしいとボーダーにお願いしたため、ここを紹介された。一応警戒区域外ではあるが、かつての侵攻で被害の大きかったこの地域に住むことを躊躇う者は多く、実際このアパートもわたし以外誰も住んではいない。二年前までボーダー隊員であり、現在でもボーダーで働いているわたしは、住居が警戒区域にほど近かろうと構わなかった。


「こんばんは。ミョウジさん」

実に軽々と隣の部屋のベランダから"彼"がこちらに跳び移ってくる。わたしは彼に、いつものように問いかけた。

「今から防衛任務?」

彼――出水公平は、いつかのように真っ黒な隊服を夜風に靡かせ、今からですと楽しそうに笑った。わたしの同期でこの子の隊長である太刀川慶と同様、この隊服はとても似合っていると思う。

「がんばってね」

わざわざがんばらなくともこの子の隊ならば、防衛任務など取るに足らないものだろう。分かっている上で、わたしはそう言った。他になんと言っていいか思い付かないからだ。
わたしがこれを言ったら、出水くんはういーす、行ってきますと去っていく。そんなやり取りを、初めて彼が来てから今まで何度かしてきた。だから今日もそうだと思っていた。来て、挨拶して去っていく。何故かは、分からない。
けれど今日は違った。
行ってきますと言わずに彼は、手すりに座ってわたしをじっと見下ろしている。

「なに?」

小さな動揺を悟られないように、できるだけ彼の目をしっかり見て尋ねた。最近はもう、なんとなく分かっているのだ。かわいい後輩のひとりであったこの子が、段々と自分の中で違う存在になっていることを。初めて彼がここに来てから、その変化が始まったことを。

「髪、濡れてますね」

手すりから降りて、彼はわたしの前に立った。背が高いから自然と見上げるかたちになる。そういえば風呂上がりにこの子と会ったのは初めてだ。今日はたまたま仕事が早く終わったから、風呂に入るのも早かった。

「風邪引きますよ。…俺が見る分にはいいんですけど」

何が"いい"のか聞きたかった。けれど彼はそれだけ言うと、じゃあ行ってきますと背を向けてしまった。

「…いってらっしゃい」

わたしが呟いたのを聞いて、彼は軽々とベランダを蹴って跳んでいく。天才射手の背中はあっという間に夜に溶けた。刹那の出来事に、わたしは小さくため息をついた。
聞きたいことはいつも聞けないのだ。

秋の虫が鳴いている。感じる風も、もう秋の風だ。照らす月も、とても澄んでいる。
聞きたいことはいつも聞けない。どうしてわたしのところに来るのか。そんなことをするから、わたしはもう毎日ベランダに出てしまう。来るんじゃないかと思ってしまう。聞きたいことができてしまう。歳上の余裕なんて、あっという間に消えてしまう。

もしも、行ってきますと翻る隊服の端を掴んでみたとしたら、何かが変わったりするのだろうか。


back


ALICE+