「ナマエ、あんたにお客さんだよ」
言われて廊下に顔を覗かせると、今まさに部屋に通されようとしている一人の男性が目にとまった。
着物に銀髪、のそのそと歩く姿はいつもと変わらないけれど、違ったのはその黒いジャージの襟元から見える白い包帯。
「ここはうちらに任せて、行ってきな」
「あ、はい…。じゃあ、これ片付けてから」
いつもならばすぐさま彼の元へ向かう。お客さんだよ、と言われたら、彼ではないかと心踊るくらいには待ちわびているからだ。
けれどいつもと違った彼の包帯。どうやら彼は怪我を負っているらしい。あの人だって人間だ。怪我くらいする。ここ吉原を夜王鳳仙から解放した時も、街が火事に見舞われた時も、彼は怪我を負っていた。だが、今日のように怪我を負った状態でわたしのところに来るのは初めてだ。
他のお客さんの空になった膳を持って、厨房へと向かう足が遅くなる。なんと言葉を掛けたら良いのだろうか。どこで怪我をしたのか、怪我はその箇所だけなのか、傷の深さは、痛みは。いっそ何も気付かないふりをした方がいいのかもしれない。そういうことには触れてほしくないのかもしれない。分からない。
遊女としてもう何年も男性の相手をしてきたというのに、怪我を負った大事に想う人に掛ける言葉も浮かばない。情けない話だ。
「お、なんだ。おせーから居ねぇのかと思ったよ」
どう接していいか思い浮かべられないまま、失礼しますと彼のいる部屋に来てしまった。わたしを見るなり彼はそう言って、ふわぁとひとつ欠伸を漏らした。片膝を立てて窓際に座る彼は、相変わらず気だるそうなのだが、どうしてもいつもと違う胸元にちらつく白い包帯に目が行ってしまう。
「…暇してる訳ではありませんので」
なるべく彼の方を見ないようにしてそばに寄り、徳利を傾ける。ところが彼はおちょこを口に運ぶことはしなかった。かわりに、にやりとわたしを見やる。
「え、なに。しばらく俺が来てねぇからって、他の男の方に行って気を引いちゃおう的な?ほほーん」
「仕事してただけですって。どうしてそうなるんですか」
「とか言っちゃって、」
「子どもでもあるまいし、そんなことしません」
「かー、つれねぇなぁ」
呆れてため息を吐くと、また胸元の白に目が行ってなんだか嫌になる。月に一度か二度、彼はこうしてここにくるけれど、今回は少し間が空いた。その間に、彼は何をしていたのだろうか。怪我をするようなことを、いつもしているのだろうか。
こんなことを思ったのは初めてだ。彼がどこで何をしていたとしても、わたしにはどうにもできないというのに。
「なになに、何で黙んの。やっぱあれ図星?図星だった?」
「…だから違いますって。それより、ほらお酒」
注いだまま、一向に手がつけられていないおちょこを彼の方に勧めようとした。が、その手は、自分よりずっと大きな手に捕まえられてしまう。急にどうしたのかと見上げると、彼は何も言わずにわたしを見ていた。ただ優しく、わたしを見ていた。
「……痛くない?」
気づけば、わたしはそう呟いていた。情けなく震えた声で。彼はそんなわたしの声を聞いて、少し笑った。
「あぁ、全然」
「…そう、ですか」
見詰め合うのが恥ずかしくなり、頷きながらほんの少し距離を取る。それでも、手はまだ離してもらっていない。目を逸らした今でも、彼がどんな顔でわたしを見ているのかが分かってしまう。つい先程までわたしの中でぐるぐる渦巻いてたものは、今のやり取りで風に吹かれて消えてしまった。
「でもまぁ、あれだな〜。病み上がりだからな〜。今日はたっぷりナマエちゃんに奉仕してもらわねぇとな〜」
またにやにやとした意地悪な声色に戻って彼が言う。
「いつも何にもさせてもらってねぇんだもんな。怪我してる時くらい、優しくしてくれんだろ?」
「貴方がいつも潰れて寝るからでしょう」
わたしに触れることもなく、いつの間にか酔っ払っていびきをかくのは、この人だ。いつも布団まで運ぶこちらの気も知らないで。
「だから飲んでねーだろ、今日は」
お酒注がれたままそこにあるおちょこを指差して、彼はゆったりと口角を上げる。何と言葉を返していいか分からず、わたしはおちょこに視線を落とした。お酒の中で、部屋の明かりが踊っている。捕まえられた手は、いつの間にか優しく握られていて、温かい。
「傷、開いても知りませんよ」
ややあってからそう言った。すると彼は小さく笑って、こちらに手を伸ばす。
「いいぜ?別に。死にゃしねーからよ」
ゆっくりと簪が抜き取られ、結い上げていた髪がはらりと肩に落ちた。
彼がどこで何をしていても、怪我を負っても、悲しんでも、またここにこうして来てくれるのなら、わたしはいつも通りに迎えてあげよう。それくらいならできるはずだ。
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