「あんた、とうとうあの人と…、」
シたんだって?とそんな台詞が飛び出す前に、わたしは勢いよく振り返り、後ろを歩いていたその人の両袖を掴む。
「朝からそんなこと言わないでください」
わたしが吉原に来たときから、わたしをことを妹のように可愛いがってくれているその人は、呆れたようにため息を吐いた。
「今更そんな話を躊躇うような場所かい、ここは」
言う通りだ。おかしいのはわたしの方。鳳仙亡き今でこそ、随分と明るい光が射し込む場所へと変わったが、ここは花街。それは変わっていない。
「こっちは喜んでんだよ?あんたがあの救世主様にべた惚れなのはよーく知ってんだから」
「べた惚れって…」
「その通りだろ?」
ぐ、と言葉に詰まる。吉原が救われた後、彼のそのちゃらんぽらんな性を知っても尚、冷めぬ熱を抱えているわたしは、端から見たらそんならしい。
「昨日だって旦那の料金、立て替えてやったって」
優しいねぇとその人は、にんまりと笑う。わたしは何も言えずに、半ばいじけつつ背を向けて歩き出した。
昨夜、それじゃあ足りないよと言われて慌てている彼に助け船を出したのだ。彼のことだからお金が返ってくる保証はないので、立て替えたというより払ってあげたの方が正しいのかもしれない。
「しっかりお金貯めて毎日会いに来てくれないとね」
「毎日はちょっと…」
万年金欠の彼にはきっと無理だし、わたしも無理だ。絶対に、心臓がもたない。
「なんか顔赤くね?あ、あれかー。裏でこっそり飲んじまったとか?」
勝手に、しばらく来ないだろうと決めつけていた。単純にお金が無さそうだったし、またふらりとどこかへ出ているのではないかと思っていたから。しかし、予想に反して五日と間をあけずに彼は来た。
「飲んでません。それにわたし酔いませんし」
パチンコ当たったから来た、とへらりと言ってのけた彼は、この間わたしが立て替えた料金まできっちり払ってくれたから驚いた。
「あー、そうか。お前ザルだもんな」
飲んでも飲んでも全く変化がないのは生まれつきだ。可愛く酔えないおかげでわたしに付くお客は皆酒豪。吉原が解放されてからは、お客はほぼ酒飲み友達となっている。勝手に酔っ払ってぐうぐう眠るのはこの人くらいだ。
「じゃあ何でそんな顔してんの」
「そんな顔ってどんな顔ですか」
「小便我慢してるみたいな?」
そんな顔してません!と突っ込んでしまえばもうこの人の思うがままだ。こみ上げるものをぐっと堪えて、わたしはずいとおちょこを突き出した。中で酒が揺れて指を濡らしたが、気にしない。
「いらね」
彼はふいと顔を背けた。なんだその態度はと思いつつ、飲まないという事実にどことなく身体が熱くなるような、一瞬そんな気がしてしまう。こっそり細いため息をつきながら酒に濡れた指を手拭きで拭いた。この酒、いっそわたしが煽ってしまいたい。
上の部屋から、三味線や笑い声が聞こえてくる。今日は幕府高官の方々で宴会場が埋まっているはずだ。本来ならそこにいたはずのわたしは、この人が急遽来たことによって、こうしてここでこんなになっている。
手拭きを弄びながらそんなことを考えていると、ふと視線を感じて顔をあげる。
「…何ですか」
「ん?いや、べっつにぃ」
にやにやにやにや。もうだめだ。完全に遊ばれている。手拭きを畳んで立ちあがり、どすどすとわざと足音を立てながら彼の前まで行き、見下ろしてやる。
「なに?ナマエちゃん」
相変わらずにやにやとわたしを見る彼に、わたしは今度こそ心からのため息を吐いた。
「失礼じゃね?」
「…貴方が悪いんです」
ため息とともに力が抜けて、彼の前に座り込む。会ったときにすぐに視線をやった彼の胸元には、もう包帯はない。完治したのか、わたしに気を遣ったのか。傷の程度を知らなかった為に、なんとも言えない。
「俺のどこが悪いって?」
おもむろに簪へと彼の手が伸びて、無意識に肩が上がる。
「悪いのはそっちだろ?」
しゃんと飾りを鳴らしただけで、彼の手は離れていく。いよいよ悔しくて、彼の胸に頭突きする勢いで頭を預ける。怪我が完治してなくとも、知るものか。
「うげっ。おいおい、怪我が治ってなかったらどうすんだよ」
「そんなの知りません」
「ひでぇ遊女だなー、ナマエちゃんは」
言いながら彼の左手が、ぞんざいにわたしの背中をばしばしと叩く。ちょっと、と抗議の声を上げようとしたとき、右手がゆっくりと肩に触れ、わたしは思わず彼の胸元から顔を上げてしまう。
「ほんっとわりぃ奴だよ、お前は」
そう言って、珍しく彼は少し困ったように笑う。そんな顔をされたら、わたしはどうしたらいいのだ。もうとっくにいっぱいいっぱいなのに、珍しいことをしないでほしい。
肩にあった彼の手が再び簪へと伸びる。しゃらりと音を鳴らして、今度こそそれは引き抜かれていった。
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