底無しのセルリアン
振り返ると、診療所が見える。亡くなった養父の診療所を継いでから、もうすぐ2年になるが、この島でのわたしの勤めは今しがた終わりを迎えた。「…必要なものがあるなら取りに戻れ」
急に歩みを止めたローが、ややバツが悪そうに言った。手がゆっくりと離される。
そこでわたしも我に帰った。自分はこの身ひとつ以外何も持っていない。医者になった時に養父が送ってくれた大切な聴診器ですら、診療所の机の上だ。抱き締められた羞恥も遅れてやってきて、思わず2歩後ずさる。
「荷物、まとめてきます…」
絞り出すようにそう言うと、ローは無言で頷いた。診療所へ向かって走り出すわたしの背に、声が届く。
「港で待ってる」
浮かれる頭を冷ましたいのに、その声を聞いていっそう身体が熱くなった。
「船長今、誰かと歩いてませんでした?」
ログも溜まっているというのに、夜中に突然出て行った自分の帰りを今か今かと待ちわびていた船員達には、彼女が見えていたようだ。なんと説明したものかと一瞬迷ったが、隠すようなことは無く、そのまま伝えた。
「馴染みが乗る。じきに来るから迎えてやれ」
「えぇっ!?」
「あの医者の女の子っすか?」
艦内へ戻るつもりだったが、聞き捨てならない台詞が聞こえて立ち止まる。
「おい待て、何で知ってる」
「あの髪がサラッサラの白衣着た子でしょ?」
「うるせぇよ、何で知ってるか言え」
この島へは数回足を運んできたが、船員を彼女に会わせたことも無ければ、彼女のことを告げたこともない。
「いやぁだってこの島って小さな町がある以外はほとんど何もないから暇で暇で」
「でもキャプテンたまーに寄るから、なにかあるのかなって」
「ここから覗きました」
双眼鏡を振られる。港からほど近い丘の上に位置する診療所だ。見ようとすれば、確かに見えるだろうが。
「髪の質まで見えたってのか」
「あー、さすがキャプテン鋭い。ハプニングを装って、おれは一回会いました。ハプニングっつっても道聞いただけですが」
「こんな狭い島で道聞くやつなんかそうそういねぇよ」
彼女からそんなできごとを聞いたことはないが、いつも会っても二言三言しか会話はない為、自分が知らなくてもおかしくはない。
「とにかく、来たら入れてやれ」
「アイアイ!」
その場に居た全員が返事をする。これ以上この話題に絡んでくるようなら、散らしてやろうと思ったが、引き際は心得ているらしい。
診療所明かりが消えたのが見えて、今度こそ艦内へと戻った。
ここへ来てくれる患者達への置き手紙を残しながら、なんて酷い医者だと心が痛んだ。普段から町の大きな病院と連携して治療を行ってはいるが、それでも明日わたしが消えているなんて、誰が思うだろう。
「ごめんなさい…」
それでもそばにいたい。
恋に浮かれた少女のようだが、ローもコラさんも養父もいないこの島でひとり生きるよりも、海でローと死にたい。攫っていくと言われた時、そう思ってしまったのだから、もう引き返すことなんてできそうにない。
適当な着替えと化粧道具を鞄に詰めて、診療鞄と合わせて左手に抱えた。診療所に戻ってすぐ、裏の養父の墓へ挨拶を済ませていた為、そのまま外へ出た。診療所に一礼をして、港へと歩みを進める。夜風が少し冷たかった。
快活な養父が、お前を海賊にする為に育てた訳じゃないと、苦笑いする顔が浮かんで一度だけ振り返る。明かりの消えた診療所が、涙で滲んだ。
ここで待ってて、とベポと名乗る白熊の船員が案内してくれた部屋。誰の部屋かすぐに分かった。当の本人は不在だが、覚えのある香りに夜風に冷えた身体がまたじんわり熱くなる。
荷物を部屋の隅に置いて、脱いだ白衣をその上に畳んで置いた。部屋の真ん中に立っているのも不自然な気がして、端のベッドに座る。
先程、大勢の船員の間を通って艦内へ入ってきたが、随分緊張した。彼がいない代わりに船員達がそわそわぎこちなく、わたしを中へと案内してくれたのだ。
丸窓から月明かりが漏れている。どうやら船はまだ海中へと潜っていないらしい。上からあわただしく、けれどどこか楽しそうに動き回る足音が聞こえてくる。
じわじわと戻ってきた眠気に抗いながら、改めてこの数刻のできごとを思い返した。診療所で微睡んでいたのに、今はもう引き返せない海の上。舞い上がって我を忘れた訳ではないが、手を引かれた時は無意識に蓋をしていた気持ちが涙とともに溢れ出た。自分にとって特別だ、大切だと思ってはきたが、何より彼にとても惹かれていたことに今更ながら気がついた。
それもきっと、出会った当初から。
ギシリとベッドが軋む音がした。本日二度目の微睡みの中、すぐそばに少し冷たい温度が来たことに思わず身じろぎをした。トンと肩が壁に当たって、ゆっくりと意識が覚醒していく。ベッドの上に座っていたはずなのに、いつの間にか布団に入っていて、壁際に移動していた。
自分のすぐそばにある体温と、今日何度も感じた香り。それに気付いてそろそろと視線を上げると、肘をついて頭をもたげたローがこちらを見下ろしていた。帽子を被っていないのは新鮮だった。
「えっと、ここで、寝るの?」
「俺の部屋だからな。…嫌なら出て行く」
ローは視線を逸らしてそう付け足した。連れてきた罪悪感からなのか、どうやらかなり気を遣われているようだ。返事に迷うと本当に出て行きそうな気がした為、わたしは慌てて答えた。
「嫌じゃない、から、行かないで」
勢いの割には小声になったが、きちんと届いたようで彼はひとつ頷いた。が、薄暗い室内でも彼の口角がゆったりと上がったのが分かる。
「随分と素直だな」
「きゅ、急にいろいろありすぎて…なんだか、まだ、対応が」
気恥ずかしくて、目を逸らしながらしどろもどろに伝えると、ローはおもむろに手を伸ばして指でわたしの髪を梳いた。流れるような手つきにどきりとして、肩が少し跳ねてしまう。今気がついたが、結っていたはずなのに、いつの間にか解かれている。
「踏み込んでみるもんだな…」
「え?」
上手く聞き取れなくて、聞き返すと彼は何でもないと小さく首を振った。最後にわたしの頭をひとつ撫でて、手が離れていく。
「もう休め」
くるりと背を向けて、ローが言った。うん、と返して布団にずり込む。正直、向かい合っていたらとても眠れそうにないと思っていた為、この体制は有り難かった。追いやっていた睡魔が、あっという間に戻ってくる。
誰かと一緒に眠るのなんて、いつ以来だろうか。