クリスタロスの細胞

愛情表現が情熱的な国や地域が存在するのは、知っていた。だが、実際にその情熱的過ぎる表現を向けられると、経験の少ないわたしのような人間は身動きがとれなくなる。

「深い深い恋の湖へ、堕ちてしまったようだ。その身体、その心、その髪の一本一本に至るまで僕にくれないだろうか」

冗談みたいな台詞をいかにも真剣な表情で語る目の前の男に、空いた口がふさがらなかった。露店が並ぶ人通りの多い通りで白昼堂々、その男はわたしの腰にするりと腕を回した。必然的に距離が近づく。男の反対の手が背中を這ってきて、これは情熱的というより変態だろうと思った。突き飛ばすか蹴るか迷っていると、ぞわりと悪寒が走った。男の無遠慮な手に、ではなく、背後から凍てつくような殺気を感じたからだ。

「ひっ」

目の前の男は、慌ててわたしから手を引っ込めた。背後にいるのが誰なのかは知っている。途中まで一緒にいたのに、勝手にふらふらと消えてしまったと思ったら、こんなタイミングで現れる。良いのか悪いのか分からない。殺気を向けられいるのはわたしではないのに、小さく指先が震えた。彼がこんなに感情を滲み出すのを初めて見た。

「ご、ごめんなさぁぁぁい!!」

足をもつれさせ、人にぶつかったり躓いたりしながら、あまりにも気の毒な姿で男は逃げていく。わたしだって逃げたいくらいだ。振り向くのが怖い。

「行くぞ」

手ではなく袖口を引かれて、わたしの身体は勝手に反転する。いつになく力が強い。珍しく彼の方から買い物に誘ってくれたというのに、どうしてこんなことになるのだろうか。船から降りてまだ30分しかたっていない。わたしがいけないのだろうか。そんなはずはない。情熱的過ぎるこの街が悪いのだ、きっと。



「ナマエ、キャプテンなんとかしてくれよ」
「なんつーか同じ船にいるだけで、こう、びりびりすんだよ」

抗議の声を無視して、自分のハンカチにひたすら刺繍を施す。決して多くはない買い物の機会に、服や雑貨を見て回りたかったこの気持ちなど分かるまい。随分前に街で購入した裁縫道具を引っ張りだして、可愛いものが買えないのなら作ってやろうと無心で更ける。普段から船員(クルー)を幼い子どものようだと思っているが、自分も大概である。自覚はしている。

「ナマエ〜」
「頼むよ〜、ナマエ〜」
「……後で行くから」

しぶしぶ言うと、周りから歓喜の声が上がった。胸の中に渦巻く黒いものを全て吐き出す思いで、ため息をつく。久しぶりにした刺繍は、コスモスの花が少し歪んでしまっている。もう少し落ち着いてから、彼の部屋に行こうと思った。



腹が立つ結果になった時の為、もう後は寝るだけのところまで身支度を終えて、ローの部屋へ向かった。もし揉めたら自室に引っ込んで眠るまでだ。一応恋人という形になっても、わたしたちの部屋は別々のままだった。
部屋の正面に立っても、彼は扉を開けてこなかった。仕方なく小さくノックをするも、返事はない。無視を決め込むほど子どもじゃないだろう、と勝手に決め付けて中に入る。わたしだって、こんな微妙な空気のまま過ごしたくはない。しかも内容が内容だけに、早々に解決してしまいたかった。

「怒ってますか」

部屋は真っ暗で、入った瞬間目が慣れなくて二度瞬いた。敬語になったのは緊張しているからだ。ローの部屋へ入るのはいつも緊張する。
こちらに背を向けてベッドに寝ていた彼は、わたしの言葉に返事をしなかった。それ以上は問わずにそばまで寄って、今度はわたしの話をした。

「あの人に触られても動かなかったのは、驚いたからであって別に、」
「知ってる」

今度は言い終わる前に返事がきた。同時に起き上がり、こちらを向く。目が合って、昼間の鋭い眼光を思い出して一瞬怯みそうになった。けれど、ここに来るまでに考えていたことは言っておこうと、わたしは一歩近づいた。

「ぼーっと歩いていたから、声を掛けられたのかも。ごめんなさい」

久しぶりの街、珍しいローからの誘いに、浮かれていなかったとは言えば嘘になる。いつもより、いささか注意は散漫だった。ローとはぐれても、まぁいいやとすぐに探さなかったわたしもわたしなのだ。ちゃんと分かってはいる。

「別に…」

珍しく彼は言い淀んだ。戸惑ったような苛立ったようなその顔は、あまり見たことがない。なんとなくだが、彼は、わたしが軟派されたことに怒っている訳でも、身体を触られたことに怒っている訳でもないと思う。いや、多少は怒っているのかもしれないが、むしろその事実を受け流せない自分に苛立ちを感じているような気がする。たかがあのくらいのことで、動揺なんてしたくなかったかのような、けれど動揺せずにはいられなかったかのような、そんな思いが彼にこんな顔をさせているのだと思う。わたしは正直、彼がわたしのことで自分のペースを乱すなんて思わなかった。
恋人同士になったって、分からないことだらけだ。部屋に閉じこもってふたりきりにならないと、お互いに自分の思いすら口にできないのだ。意地を張らない素直な心を持てるのは、わたしが先か彼が先か。

「…次からは、置いていかないように気を付ける」

ややあって彼はそう言った。それを聞いて、わたしは力を抜いて頷いた。無意識に握りこんでいた手を緩める。きちんと"次"を提示してくれたことに、自然と口元が綻んだ。
隣に座るよう促されて、ゆっくりとそこに腰をおろす。問題が解決したら解決したで、今度は別の緊張がじわじわと身体を支配してくるのが分かった。彼とこうして距離を近付けるのは、想いが通じたあの夜以来だ。わたしはどんな時に部屋を訪れたらいいのか、未だによく分からないでいる。
わたしの心中を知ってか知らずか、ゆっくりと滑るように腰に彼の腕が回る。瞬間、甘い痺れが全身を駆け抜けたような気がして、弾かれたように肩が上がった。苦笑いが届いて、なかば頭突きするように彼の胸に顔を寄せる。心も頭も痺れてしまって、何も言えそうになかった。
雄弁ではないわたしたちは、情熱的には語り合えない。それでいいと思った。
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