古代ギリシャのネメアという地方に"ネメアの大獅子"と呼ばれる巨大な獅子がいた。大獅子は人里に現れては家畜や人に襲いかかり、人々を苦しめていた。そんなとき、ギリシャ神話のなかで最大の英雄とも言われるヘラクレスが、この怪物を退治しにやって来た。ヘラクレスは大獅子にも怯まず、弓矢やこん棒を使って立ち向かい、最後は素手で大獅子の絞め殺した。ヘラクレスに負けた大獅子は女神ヘラによって天に上げられ、しし座になった。

「素手か。すごいねヘラクレス」
「うわっ」

俺の呟きに驚いた彼女は、柔らかくなさそうな図書館の椅子の上で、小さく二度と跳ねた。背後にいる俺を振り返った瞬間、本に添えていた指が動いてパラパラと目次までページが戻る。

「来たなら言ってよ。びっくりした」
「いや、目について読んでたらけっこう面白くて」
「…いつから居たの?」
「しし座のページになった時から」
「あ、そう」

そんなに前の話ではない。声をかけようと思った時に、獅子に素手で飛びかかる屈強な男の絵が目にとまったのだ。

「何で図鑑?」
「最近の図鑑ってどんな感じなのかなーって思って」

決して小さくはないこの図書館には、天体に関する本もたくさんあったはずが、なるほどそういう理由らしい。満天の星空が表紙のその図鑑を彼女は大事そうに抱え、返してくるねと立ち上がる。香水だろうか。ふわりと香ったそれは、好きなタイプのものだと思った。

「ジャージでも良かったんだよ?」
「俺が嫌」

今日は土曜日で、彼女は大学が休み。俺は午前中部活があった。終わってそのまま行けば確かに早いの早いが、汗もかいているしなにより、あからさまに大学生と高校生が歩いていますみたいな感じになるのが嫌だった。大学生になった彼女は髪も少し染めて、ゆるくパーマもかけて、私服も大人っぽくなったから、余計にだ。

「うどん食べに行こ」

図書館の出入口の階段の最後の一段をトンと飛んで、彼女はそう言った。練習が終わって、一旦家に帰ってここに来たから、今はもう14時半を回っている。そういえばしし座に気を取られて、遅くなったことへの謝罪をしていなかった。

「志歩」

呼ぶと彼女は振り返った。膝丈の紺のスカートもふわりと踊る。

「遅くなってごめん」

なんとなく目が合わせられなくて、階段を見ながら言った。彼女がいつから図書館にいたのかは知らない。本当はもう少し早く着けるはずだったのだが、練習が少し長引いてしまったのだ。それくらいで怒る彼女ではないが、一応伝えておきたかった。

「うん」

俺の気持ちを知ってか知らずか、ゆるやかに笑った彼女を見て、俺はまた階段に視線を落とす。なんだか無性に暑いのは、夏を主張し始めた日差しのせいだと思った。


うどんを食べて、適当に街をぶらぶらとして、最寄り駅まで戻った。きっちり時間を決めている訳ではないが、そんなに遅く帰らないようにしている。お互いの親公認ではあるが、そこらへんはきちんとしなければ。

「今日は、裏山行かない…」

自分の足元を見ながらぽつりと彼女が呟いた。前回彼女と出掛けた時、最後に裏山に寄って少し話してから帰っている。けれど今日の彼女の靴はヒールだし、今の時期は草が茂っているだろう。あそこに草刈りがはいるのは、毎年もう少し後だ。
項垂れてる彼女の横で腕時計を確認する。まだ夕飯には早いくらいの時間だ。

「じゃあ、ちょっと歩く?」

そう言うと、彼女がこくこくと頷いたので、道を変えた。家までは15分ほど遠回りになってしまうけれど、今はまだ離れたくなかった。彼女もそうなのだと思う。
彼女が大学生になり、俺が高校三年生になったこの春から付き合い始めて、2ヶ月が過ぎようとしている。多少遠いが実家から通うことを選んだ彼女とは、頻繁に会っている訳ではない。俺は部活があるし、彼女もサークルに入ったようで忙しくしている。

『可愛い女子がいっぱいいるぜー!』

俺に大学の素晴らしさを語った木兎さんの言葉の中にそんなものがあった。女子がいっぱいいるということは、男子もいっぱいいるということだ。彼女のサークルは書道らしいが、どんな感じなのだろうか。まだ成人はしていないが、先輩に連れられて飲みに行くのだろうか。いや、彼女に限ってそれはないか。とにかく未知だ。俺にとっては未知でしかない。

「明るいからまだ見えないねぇ」

悶々と考え込む俺の横で、彼女は空を見上げてそう言った。

「しし座も見えるんだよ、今の時期」
「へぇ」

ヘラクレスに素手でやられたあのしし座は春の星座らしい。ふと、図鑑と真剣に向き合う彼女の横顔を思い出して、彼女に気づかれないように小さく息を吐いた。大学は俺にとって未知だが、そこに通う志歩は全く未知ではない。星空を愛してやまない彼女を、俺は昔から知っている。

「日が長くなったよね」

呟く彼女は残念そうな声を出しながらも、顔は笑っていた。星が見えるのが遅くはなるが、彼女の大好きな夏が来るのだ。止まっていた俺達の時間を動かした、あの季節が。

宵待ちレグルス

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